【短編集】物語が標本になる前に
笹倉
No.1 夜のキッチンにて
秋の夜長に目が覚める。そして、急速に寂しくなって泣き叫びたくなる。そんなことをしても意味がないのは分かりきっているから、あたしはひとまずベッドを降りてキッチンへ向かう。
「あれ、起こしちゃった?」
「……ううん、違う。勝手に起きた」
キッチンには先客がいた。ジャージ姿のウサギだった。何を言っているのか分からないと思うのでもう少し説明すると、ウサギの着ぐるみの頭の部分だけ被った、ジャージの男がタバコを吸っていた。着ぐるみの口部分に咥えられたそれが少しシュールだった。
「驚いたなあ」
ウサギが言う。
それに混じって、換気扇が回る音。傍らの小窓から漏れるスズムシの鳴き声。
「何で?」
「思ったよりも驚かないから」
「あたし以外誰もいないはずの家に、不審人物がいたのにってこと?」
「不審人物とは、ご挨拶だなあ」
「事実でしょ」
驚いたことに、私は意外に冷静だった。たった一人で住んでいて、そしてこれからも恐らく一人で住んでいく家のはずなのに。
冷蔵庫を開ける。ヨーグルトを少し買い足した方が良いかもしれない。
悩んだ末、結局お茶のペットボトルを手に取った。
「まあ、それに今日は十五夜だもん。ウサギの一匹や二匹いるもんじゃない?」
「ウサギの数え方は一羽二羽だよ。耳を使って空を飛ぶからね」
「じゃあ、アナタも飛んで来たの?」
「まあね」
ああ、なんて戯言だろう。そう思いながら、お茶を煽る。
「あたしの彼はね、」
「彼氏がいるの?」
「昔、いた」
「……へえ」
気のない返事をしてウサギはタバコをふかす。白い煙がゆらりと揺れて、けれどすぐに薄れていく。
「……あたしの彼は月が好きな人でさ、よく一緒に見てたよ。こうして夜のキッチンで、くだらない話しながら。彼、笑ってたなあ。それこそ、今のアナタみたいにタバコを燻らせてて。それにね、ムーンリバーを歌うのよ」
「……その曲なら俺も知ってる。あの映画の奴だろ?」
「うん。まあ、下手くそだったんだけど」
ウサギはそれを聞いて曖昧に笑った。
私は言う。
「好きだった」
「えっと、ムーンリバーが?」
「……けれど、もう聴けない」
「どうして?」
囁くような声音だった。ただでさえ、くぐもっていてよく聞こえないのに。
「彼は死んだから。去年の冬に」
「……そうか」
「うん、そう。でもね、もうそれに慣れてきているあたしもいるの。それって、薄情だよね」
ウサギはしばらく黙って結局、
「どうかな」
と煮え切らない返事をする。
「薄情だよ」
だから、あたしは自分でそう断言してみせた。泣いてしまいそうだったが、涙はどうにも出てこない。それ自体が悲しくて仕方なかった。
薄情。
沈黙の中に取り残された言葉。
あたしはきっと彼がいない状況に慣れて、そのうち悲しみさえも切り捨てて、切り捨てたことさえ忘れていくんだ。
この慣れは、彼を愛していたあたしを殺してしまう。
「ねえ、見てて」
ハッと顔を上げると、ウサギがまたタバコをふかしていた。着ぐるみの口からポッと、白い輪っかがいくつか飛び出る。小窓に浮かんでいる白いそれら、その先に煌々と光る満月が滲む。
「十五夜だから、お団子でもって思って。食べられないけど」
そうして、節くれだったウサギの手があたしの頭を撫でた。
「その、上手く言えないけど、あまり泣かないでほしい。あとできれば、笑ってほしい」
ウサギの一言であたしの中の何かが千切れた。
「だから泣かないで! ね!」
自覚すると視界が歪んで、もうダメだった。気づけば息もできないくらい、あたしは泣いていた。ウサギのジャージをベタベタにして、みっともない姿を晒して。
ウサギはしばらく狼狽えていたけど、しばらく経ったらもうあたしを止めはしなかった。ただ、あたしの頭を静かに撫で続けたのだった。
◆
「ありがとう」
枯れた喉をお茶で潤しながら、あたしは言った。月明かりがあたしとウサギを照らす。
「何が?」
「……何だろう。ムーンリバーを歌ってくれたこと?」
「……俺は歌ってないぞ」
「そうだね。ウサギさんは歌ってないや」
「ああ、歌ってない」
「うん、歌ってない」
強く頷いた。きっと泣き腫らして酷い顔だろうが、精一杯笑う。
「ありがとう」
「それはさっき聞いたよ」
「じゃなくて、その、今日は来てくれてありがとうって意味」
「ああ、そっち。どういたしまして」
「信じてみるもんだね。月にウサギがいるって」
「あはは、こちらも信じてもらえて光栄ですよ」
あたしはウサギの目を見つめた。
「お団子も、ありがとう」
「食べられなかったけどね」
二人してフフッと笑い合う。
「ねえ、月に帰るの?」
「あー、確かにもうすぐ帰らないとまずいかもなあ、なんて」
「そっか」
ウサギはやはり月に帰るのだ。ずっと地上にいるわけにはいかない。
「じゃ、月でも元気でね」
あたしは笑う。笑って、ウサギに別れを告げる。できるだけ、あっさりと。可能な限り、さっぱりと。
「君も、元気で。おやすみ」
ウサギが言った。着ぐるみで見えなかったけど、たぶん笑っているはずだ。
あたしは踵を返して、一人の部屋に向かう。
間際に振り返れば、そこには満月が灯る夜のキッチンがあるばかりで、もう誰もいなかった。
※
笹倉さんは、「夜のキッチン」で登場人物が「信じる」、「秋」という単語を使ったお話を考えて下さい。
#rendai shindanmaker.com/28927
↑このツイートが元ネタでした。
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