第2話 そもそも事の始まりは

 あきらの父は、三十円の遺産を残して突然死んだ。


 晶がそのことを知ったのは、なじみの弁護士の事務所の中だった。後から思えば、そこで知ったのが一番良かったと思う。


「さんじゅうえん」


 なぜかと言うと、衝撃のあまり、晶の喉から十数分間、この一言しか出てこなくなってしまったからだ。外なら確実に不審者扱いだ。


 慌てた大人たちの手によって、晶は強制的にソファに横たえられて、安静を命じられた。何もしなくていい、ゆっくりしているようにと弁護士から言いつけられ、晶はうつろな眼のまま、浅い呼吸を繰り返した。そのうち、眼の焦点が合ってくる。


 白の壁紙に茶色の木が四角く走るモダンな天井を見上げて、晶はため息をついた。大きな白いソファーに置いてあった水色のクッションを床に落として、立ち上がる。


 眼の前のローテーブルに、コーヒーがおいてあった。豆からきちんとひかれたおいしいコーヒーだったが、もう完全に生ぬるくなっている。晶はそれをすすりながら腕時計を見た。ここに来てから、すでに三時間が経っている。


 晶が腰掛けているソファの左手にある大きな窓から、紫色が混じってきた夕方の空が見える。


 鍵を外して窓を開けると、すうっと風が晶の髪を揺らした。近くのビルの明かりがぱっと消える。それを合図に、晶は窓を閉めた。さっきよりは気分がすっきりしている。


 晶は部屋の隅に置いてあった大きな姿見の前で立ち止まり、くしゃくしゃになった髪をなでつける。短く切った黒髪についた寝癖はなかなかとれない。晶のとろんと眠ったような垂れ目の隅が赤くなっていた。


 制服の乱れを整えて扉を開け、晶は事務所の奥へ向かう。


 途中、廊下には額に入った風景画がいくつもかかっていたが、一枚だけ写真が混じっている。晶はその前で足を止めた。


 弁護士と晶、そして父がこの事務所の前で屈託なく笑っている写真だった。ここに来る度に見ているはずなのに、今日の晶にはなんだか寒々しく見えた。


 遺産が三十円。自分は何も残してもらえないほど、嫌われていたのだろうか。死ぬ前の父は一体、何を考えていたのだろう。いくら考えても答えは出なかった。



☆☆☆



 そろそろ寒くなってきた秋の朝。晶の父、辰巳たつみは心筋梗塞で実にあっけなくこの世を去った。「明日は朝寝するから」という味もそっけもない一言が、晶がこの世で聞いた父の最後の言葉になった。


 晶が父の居なくなったさみしさを感じるひまもなく、親戚や葬儀会社がてきぱきと動き、いつの間にか葬式が終わっていた。そこらへんの記憶は、晶の中からすぽんと穴のように抜けていて、詳しく説明しようとしても上手くできない。


 父の死から二週間たって、ようやく晶は今後の生活をどうしようかと考え始める余裕ができた。といっても、真剣に心配はしていなかった。


 父は有名製薬会社の研究員だったので、晶が大学を卒業するまでに必要なお金くらいは残してくれているはずだ。その遺産さえあれば、私立の大学を受けてマンションを借りたとしても、ゆっくり暮らせる。あとは、どうしても大人の手が要るときだけ、父の弟である叔父に来てもらえばいい。


 昔から父も晶も叔父とは反りが合わなかったため、べたべたとこちらから甘えるのは絶対にごめんだ。これからは自分一人でできるだけのことはしなければ……と、晶は自分なりに覚悟を決めていた。


 しかし、現実は晶が想像していたよりも遥かに過酷だった。父の遺産は駄菓子一個買ったらなくなってしまう額。晶が勝手に予想していた優雅な一人暮らしの妄想は、あっと言う間に粉みじんになった。


 これからどうしたらいいのかわからず、ため息をつきながら晶は面会室に入った。


 こちらの部屋は生成りの壁に、濃茶のフローリングだ。照明も暗めで、高級なホテルを思わせるつくりになっている。埃一つ落ちていない部屋の中央に、アンティークの臙脂のソファがでんと鎮座している。壁際には濃茶の木でできた本棚がならび、晶が見ただけで頭痛を起こしそうな法律書が隙間なく詰まっていた。


「やあ、落ち着いたかね」


 部屋の左手にある、どっしりしたマホガニーのデスクセットに座っていた、見事な鷲鼻わしばなを持つ初老の男が立ち上がった。すらりと細い体格だが、趣味がゴルフなだけあって筋肉もしっかりついていることを晶は知っている。


「失礼しました、高橋たかはし先生」

「いやいや、無理もない。かけたまえ。甘いものでも食べられそうかね」


 晶は高橋のすすめに従い、ソファに腰を下ろす。あまり食欲はなかったが、出してもらったクッキーを晶は無理矢理口にねじこんだ。気休めとは分かっていても、甘みを感じると少し楽になった。


「父さんはお金ではお前に苦労させないっていつも言ってたのに……」


 気がつくと、晶の口から愚痴が漏れていた。父と個人的にも親しくつきあっていた高橋も、それを聞いてうなずいている。


「……正直私もまだ信じられないんだよ。まさかあのまじめな火神ひかみさんの遺産が三十円ぽっちとは……」

「父の貯金額、ずっと前からこうなってたんですか?」


 なんとなくぽんと言ってしまってから、晶はしまったと思った。これでは高橋に「ちゃんと見てたのかよ」と言っているに等しい。しかし高橋は、気を悪くした様子もなく答えた。


「いや、一年前に資産額を見せてもらったときはそんなことはなかった。そこで、銀行に頼んで取引明細をもらってこようと思うんだ。通帳や印鑑がいるから、君もこれから一緒に来てほしいんだが」


 高橋はさっそうと立ち上がり、晶の肩に手を置く。晶もうなずき、二人で最寄りの銀行にかけこんだ。



☆☆☆



 それから一週間。銀行から明細が届いたので、晶は再び高橋の事務所を訪れた。高橋と一緒に、不自然な金の出し入れがないか確認していく。


 明細には、ずらりとあたりさわりのない出入金の記録が並んでいた。が、最後の一行だけは違った。その文字を見た晶と高橋は、そろって目を丸くする。単純作業の繰り返しで出てきた眠気が、二人とも一気に吹っ飛んだ。


「さ、三千万が」

「一気に引き出されてる」


 晶と高橋は顔を見合わせた。


「家でも買ったんでしょうか?」


 晶が聞いたが、高橋は首を横に振った。


「いや、そんな動きはなかったよ。そもそも持ち家があるし、辰巳くんは別荘を買いたがるようなタイプでもないしなあ」


 確かに父は出不精で、会社の出張以外で家をあけることはほとんどなかった。自宅があればそれで満足だっただろう。それでは、父は何を買ったのか。


 ひたすら考えこむ晶に向かって、高橋はいくつか案を出してきた。


「あとは船か車か宝石か。しかし、どれも辰巳くんらしくない」


 うなずく晶の頭に、急に物騒な単語が浮かんだ。晶はぽつりとそれを口にする。


「……もしくは、詐欺か」

「おい、晶くん。結論を急いじゃいかんよ」


 高橋にたしなめられても、晶は納得できなかった。

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