起承転結

三角くるみ

はじまりの日

01

 十二月二十四日に日付が変わってすぐに、ひかるのスマートフォンにメールが届いた。アプリメッセージではない。いかにも彼女らしい。

 待ちこがれていた人からの連絡だとすぐにわかるよう設定された着信音に、晶の心臓は莫迦みたいに高鳴ってしまう。画面をタップする指先が震える。ええい、もどかしい。

 大急ぎで――見ようによっては大慌てで――開いたメールはごくシンプルに、たったの三行。

 晶は自分でもそうとわかるくらいにはっきりとがっかりして、ベッドの上に勢いよくダイブした。このメールが来るっていうことはつまり、今年も帰ってこないつもりなんだということが、いやでもわかってしまったからだ。

 肺の中の空気を全部絞り出すみたいなため息をついて、晶はベッドの上に寝転がったまま、もう一度スマートフォンの画面にメールの文面を呼び出した。

 何度眺めてもメールの内容が変わるわけじゃない。そんなことわかってるけど、でも、もしかしたら、なんて思うじゃないか、などとありえない云い訳をしながら、晶はそのメールを保存フォルダにそっと移した。

 このフォルダをずっと繰っていけば、去年の同じ日付に、まったく同じ文面のメールが保存されていることがわかるはずだ。去年と今年の違うところと云えば、たったの一か所だけだ。コピペかよ。間違い探しかよ。同じ誤魔化すにしても、もう少しやり方ってもんがあるだろうよ、めぐむちゃん。

 晶は唇を尖らせて、いたずらに保存フォルダをスクロールしていく。そのあいだにも彼のスマートフォンはひっきりなしに着信の合図を鳴らし続けている。それらはみな、晶の友人たちからのメッセージだ。

 それがわかっていながら、晶はそれらを見ようともしない。はじめに届いたメールに対する反応とはあまりにもかけ離れていた。

 人当たりがよくて、ノリもよくて、空気が読めて親切で、ついでにそこそこ小綺麗な顔をした晶は、友達も多く女の子にもよくもてた。退屈だと思ったときに誘う相手にことかいたことはない。

 あいつらと一緒にいるのは気が楽だ、と晶は思っている。話合わせて、笑うタイミング合わせて、それだけでいいんだから。

 そんなふうに本当は空っぽな晶に気づくと、男も女も腹を立てるか泣き出すか、そうでなければさりげなく離れていく。だけど晶は気になんかしない。

 慈ちゃん以外はどうだっていい、と本気で思っているからだ。

 なのに、その慈は――晶がこの世でただひとり、その傍を離れたくないと願った慈は――、じつにあっさりと彼の傍を離れていってしまった。

 あんなに近くにいたのに。

 晶はメールの作成画面を開き、タップとフリックを繰り返してメールを作りはじめた。

 ありがとう。――うん、お礼は必要だよな。帰ってこないとはいえ、忙しいなかでも忘れずに、こうやってメールをくれたんだから。

 すごく嬉しかった。――嬉しかった、けど、でも、これは嘘だ。

 仕事、忙しいみたいだね。今年も帰ってこられないの。――違う違う、こんなふうに問い詰めたいんじゃない。

 会いたい。――困らせてどうする。

 でも、――会いたい。

 晶はスマートフォンを握りしめたまま、ベッドの上で身体を小さくする。ぎゅっと強く目蓋を合わせると、即席の闇のなかにふんわりとやさしく笑う慈の顔が浮かんだ。

 莫迦莫迦、おれの莫迦、思い出すんじゃない。思い出せば会いたくなる。だから、思い出すな。

 晶は頭を抱えていよいよ丸くなる。

 家族がみな寝静まった家のなか、晶は大声で叫びだしたいような気持ちになった。

 会いたい。会いたい。――会いたいよ、慈ちゃん。


 涛川なみかわ晶が小野寺おのでら慈と出会ったのは、物心つくよりも遥か以前のことだ。

 晶が自分で認識できる最初の記憶は、慈の紺色のプリーツスカートの裾にしがみついて泣き喚いている情けない姿である。おそらく学校へ行こうとする慈を、どうにかして引き留めようと駄々をこねてでもいたのだろう。記憶のなかの晶は、やだやだ、行っちゃやだ、と泣き叫び、慈を困らせていた。

 慈は、涛川家の隣に住んでいる十一歳年上の幼馴染である。ひとまわり近くも歳の離れた彼女をただの幼馴染と呼ぶことに抵抗があるのならば、慈は晶の母親の幼馴染だったと云い換えることもできる。

 だった――、というのは、晶の母親がもうすでにこの世にいないせいだ。

 晶の母、香子きょうこは十五歳で妊娠し、十六歳で出産した。そして出産時に脳内出血を起こし、そのまま亡くなった。だから晶は、母のぬくもりをまったく知らない。

 香子は晶の父親が誰であるか、いっさい明かすことなく鬼籍に入った。早すぎる妊娠出産にあたって、最初から最後まで自分の味方でいてくれた自分の母親にさえ、晶の父親となるべき男の名を告げることはなかった。

 だから晶は、父のことをなにも知らない。

 香子が亡くなって、晶は香子の両親である祖父母に引き取られた。当時まだ四十代であったふたりは、まるで遅くに生まれた自分たちの子であるかのように晶を育ててくれた。だから晶は、本当の父と母のことを知らないままでも寂しくはなかった。

 寂しくはない――、つもりだった。

 それはきっと、慈ちゃんがいてくれたからだ、といまの晶にはそのことがよくわかる。

 涛川の家の隣に住む小野寺一家にはこどもが三人いた。息子がふたりに娘がひとり。男兄弟に挟まれた真ん中の子である慈は、涛川香子のことを姉のように慕っていた。一人娘であった香子もまた妹ができたようで嬉しかったのか、慈のことをとても可愛がっていたようだ。

 だから香子が亡くなったあとも、涛川の両親は慈のことを邪険にしたりはしなかった。ことあるごとに娘の位牌に手を合わせてくれ、彼女の忘れ形見である晶の面倒をみてくれる慈は、ふたりにとってもきっと救いだったはずだ、と晶は思う。

 自身の生い立ち――己の誕生とともに母が亡くなり、父親が誰であるかもわからないこと――を知るずっとずっと前から、晶は慈のことが大好きだった。

 成長過程で何度か訪れる人見知りの激しい時期にも慈にだけは笑顔を向けたし、彼女が寝かしつけてくれればぐずることさえしなかった。

 考えてみれば、当時の慈はまだ十一歳の小学生である。体格的にさほど恵まれていたわけでもないし、生まれたばかりならばいざ知らず、四キロ、六キロと順調に成長していく晶を抱えるだけでも重労働だったはずだった。

 それでも慈は晶の世話をすることをいやがったことはなかった。

 慈ちゃんが悪いよ、とだから晶は思うことがある。あんなふうにいつもいつも傍にいてくれてさ。なのに、ある日急にいなくなっちゃうんだもんなあ。

 慈が大学を卒業したあとに通っていた専門学校を卒業し、帝都通信社のカメラマンとして就職したのは、晶が中学一年生になる春のことだった。

 それまでののんびりとした学生生活からは想像もできないほど、慈は忙しくなった。国内に限らず海外への出張も珍しくなく、ひどいときは月の半分も日本を留守にすることもあった。

 ほとんど毎晩のように慈と夕食をともにし、宿題をみてもらったり、その日あったあれやこれやをなにもかも彼女に聞いてもらったりすることを常としていた晶は、慈の不在に途轍もない寂しさを感じた。

 もちろん時間にゆとりのあるときの慈は、いままでと同じように晶の相手をしてくれていたけれど、そんなんじゃ全然足りなかった。――本当に、全然足りなかった。

 それで晶は気づいたのだ。慈を想う自分の気持ちの正体に。

 気づきはしたけれど、とてもじゃないけど言葉になんかできなかった。

 そのときの晶はようやっと十四歳。遅すぎる自覚だったのかもしれないが、それでもまだほんのこどもでしかない中学生だった。

 当時の慈は輝かんばかりの二十五歳。彼女にふさわしい恋人のひとりやふたりや三人、すぐにできてしまうだろう。いや、おれが知らないだけで本当はもう誰かいるのかもしれない。

 なんでおれはこんなこどもなんだ、とそれまで気にしたこともなかった年齢差に歯噛みしても、そればっかりはどうにもならなかった。

 あれから今日まで、五年。

 晶はいまもずっと慈に片想いをしていて、ほかの誰も目に入らない。晶の周りにいる友人たちは、彼の身持ちの堅さをからかい、ときおり勝手に合コンなんかを取り持ってくれるけど、そんなのはただのありがた迷惑でしかなかった。

 同じ学部の誰それは西瓜みたいにでっかい胸をしてるとか、ひとつ先輩のなんとかさんはグラビアアイドルも顔負けのすげえ美人だとか、なんだとかかんだとか五月蝿く云われても、晶の好みは慈で固定されているから心が動くこともない。

 女の子に人気があるくせに誰にも手を出さない晶は、だから中学でも高校でも大学でも態のいい合コン要員として重宝されていた。そこそこ小綺麗な顔立ちは女の子たちを呼ぶいいパンダになるし、そのくせ絶対の安全牌なのだから、声がかかることは自然と多くなった。女の子に興味はなくとも、晶だって適当に盛り上がって騒いでいればそれなりに楽しめるし、二次会だ三次会だと夜遅くまで遊びまわっていれば、慈のことを思い出さずにすむ。

 それは、ひまさえあれば慈のことを考えずにはいられない晶にとって、とても都合がよいことだった。


 晶は最後の一文字をタップしてメールを書き終えると、素早くそれを送信した。午前零時四十分。

 うん、悪くない時間だ、と彼は思う。これだけ間を空ければ、慈からの連絡をいまかいまかと待っていた格好悪い自分を、彼女に知られてしまうことはないだろうから。

 十二月二十四日に、慈が晶の傍にいてくれなかったのは、記憶にある限りでは去年がはじめてのことだった。

 ごめんね、と慈はいつもと変わらない少し掠れた、けれどとてもあたたかな声でそう云った。ごめんね、やっぱりどうしても帰ってこられそうにないや。

 ええっ、なんで、どうして、ふざけんなよ、とあのときは素直に不満を示した晶だったが、今年もまた同じように慈が謝ってくるのを聞いても、わかった、とひとつ頷いてみせただけだった。

 だってどうしようもねえじゃん、と晶は思う。慈ちゃんはもうちゃんとした大人の女で、おれはまだ自分で自分を養うこともできないようなガキなんだから。

 仰向けに寝転がった晶は、スマートフォンを片手で握りしめたまま、その腕で目許を覆う。身体の裡におかしな具合にこもる熱が、双眸から溢れだしそうになって、慌てて奥歯を食いしばった。――なさけねえ。泣くな、おれ。

 反抗期の最中にあってさえ、慈に対してはいつでも素直だった晶が、この一年のあいだに自分の気持ちを隠すことを覚えたのには、ひとつ歳を取ったという以上の理由があった。

 あれは、大学の長い夏休みに入ってすぐのころのことだった。

 バイト先の本屋から帰宅したばかりで、まだ玄関先で靴も履いたままだったそのとき、扉の向こうに慈の声が響いたような気がした。

 慈の声はよく響くようなそれではない。それでも晶が彼女の気配を敏感に察知することができたのは、五週間も前から不在にしていた慈の帰宅を心待ちにしていたせいである。

 晶は反射的に玄関扉を押し開けていた。ご丁寧に、慈ちゃん、と呼びかけながら。

 門扉を開けるのももどかしく、その上から身を乗り出すように隣家の玄関先を窺えば、果たしてそこには夢にまで見た慈の姿があった。

 夢と違ったのは、彼女の隣に男が立っていたことである。

「慈ちゃん」

「……晶」

 慈の声には隠しきれない疲労が滲んでいた。よく見れば、両肩が落ち、顔色も悪く、おまけに左腕を三角巾で吊っているという、ひどい有様だった。晶は仰天して思わず叫んだ。

「どうしたのッ! その怪我」

 ああ、と慈はまるでため息のような返事をした。転がるようにして目の前まで駆け寄ってきた晶から目を逸らして俯くさまは、まるできみには知られたくなかった、とでも云いたそうで、晶は心配と苛立ちをますます募らせてしまった。

「仕事でちょっと、でも、大丈夫だから」

「大丈夫には見えないよ、なに、どうしたの」

 慈が怪我をしていることも構わず、両肩を掴んでガクガクと揺さぶらんばかりの晶の勢いを削いだのは、慈の隣に立っていた男の深い艶のある美声だった。

「ガタガタ騒ぐな、クソガキ。爆風で飛んできたコンクリート片に肩をやられただけだ。骨にも神経にも異常はない。余計な負担がかからないように大袈裟な格好してるだけだ。わかったらそこをどいて、家に入らせてくれ」

 晶は目を見開いて男を見つめた。眼光の鋭い精悍な面差しに不機嫌を隠そうともしていないそいつは、なにからなにまで厭味なくらいに大人の男だった。声音や喋り方や表情だけではなく、よく見れば小さな傷がいくつも残る浅黒い貌やたるみのない首筋から、広い肩や厚い胸板、がっしりとした腰つきや隙のない立ち方に至るまで。

「あんた、誰」

 精一杯に低い声でそう尋ねてみれば、ふん、と鼻先で笑われて、晶は思わずカッとなった。

「慈ちゃん、こいつ、誰?」

「そっちこそ誰だ」

 慈に向けていた視線を男に戻し、晶はギリギリと歯噛みでもしたい思いで、涛川晶だけど、と名乗る。あんたは、と尋ねると、男は、にかり、と音がしそうな明るい笑みを浮かべて答えた。

倉岡くらおかだ。小野寺の、ま、パートナーってとこだな」

 パートナーってのはいったいなんだ、と晶は思った。恋人か。そうなのか。

 奥歯を噛みしめ、やたらに鋭い目つきで倉岡を威嚇する晶を前に、慈はなにやらぐったりと疲弊した面持ちで呼びかけた。

「晶。今日はごめん、また話そう」

 慈がそう云うのを聞くと、倉岡は慈の荷物を担いで小野寺の家の玄関をくぐっていった。そうすることが、さも、あたりまえのように。

 呆然とするしかできなかった自分に、最後に小さく笑いかけてくれた慈の背中を、晶は黙って見送るしかできなかった。


 あんなのを見せつけられて、それでも去年と同じ我儘を云えるんだったらこんなに苦しい思いはしない。

 いっそのこと、もっとガキだったらよかった、と晶は思った。恋をしようなんて思わないくらい、もっともっと圧倒的な差があったらよかった。

 十一歳の歳の差は、飛び越えようと思えば飛び越えられる距離だ。でも、飛び越えるにはそれなりの覚悟が必要な、微妙な距離でもある。――晶にもそれくらいのことは理解できる。

 そしてこの場合、飛び越えるのに覚悟がいるのは晶ではなく、慈のほうだ。

 そこがもうなんというか絶望的だよな、と晶は思う。

 晶には覚悟がある。覚悟を凌駕する熱情もある。――慈を自分のものにしたいし、自分を慈のものにしてほしい。

 だけどきっと、いや、確実に、慈はそんなふうには思っていない。

 毎年一緒に過ごしてくれていた十二月二十四日を、ごめん、のひと言でふいにするような彼女に、自分と同じ感情を期待するだけ無駄なのだ。

 そんなことはわかっている。厭になるくらいわかっている。

 ――でも、諦めきれない。

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