11-2
× × ×
翌日。僕は当番でもないのに『むらやま』まで来ていた。
というのも、同志に借りた本を早く返したかったのである。
あとは自宅にいても、母と弟がドタバタしているせいで何もする気が起きないという事情もあった。それなら静かな図書館に来たほうが何倍も過ごしやすい。学生共通の懸案・夏休みの宿題だって捗るはずだ。
ところが、今日の忘れ物カウンターには2年生の吉野さんの姿しかなかった。
非同志の彼が当番をしているということは、あの奥の扉に同志たちの付け入る隙はないだろう。五郎さんも伏原くんもあそこにはおるまい。
「……そっか」
ため息に近いものが口から出てくる。
伏原くんが恐れていたのは「この状況」だったのか。
これまでは上級生たちが忘れ物カウンターに来なかったために『第2保管室』を自由に使うことができていたけど、元々あそこは忘れ物班の休憩室という扱いである。まかりまちがっても同志の土地ではない。
当然、同志が当番でなければ非同志の上級生たちが使用することになる。
同志だけが当番を押しつけられていた状況は、見方を変えれば『第2保管室』の私有地化を支えていたのだ。
加えてスマホで自分の当番日程に目を通してみれば、この間隔に合わせて伏原くんたちの当番が訪れるとはかぎらないことなんて、バカでもわかる。
あそこに行けばいつでも会える――その前提が崩れた今、心の同志の会合は確実に開きづらくなってしまった。
「今後は、事前連絡を取り合う方向になるのかな」
僕は忘れ物カウンターの対面にある漆喰の壁にもたれかかる。
カウンターの吉野さんが、読んでいた文庫本からこちらに目線を移してきた。何となく見つめ返してみると、彼は慌てたように本の中に戻っていった。
「今日は行かないんですか、センパイ」
「……中学生ちゃん?」
いつのまにか隣に来ていたのは、図書部の運営委員長にして中学3年生の女の子でもある河尻さんだった。
彼女は「お暇なら遊びませんか」と僕の手を取ってくる。柔らかい手先にドキッとさせられるけど、正体を知っているので惚れたりしない。本来の性格がワガママなのも十分にわかっている。
それにしても抜群のタイミングで話しかけてきたなあ。まるで今日こうなることを予期していたかのようだ。
もしや――今回の忘れ物班の健全化は、全て彼女の差し金だったりするんだろうか。
考えられない話ではない。元々河尻さんは同志を排斥しようとしていた。小山内一二三を独り占めするために他の交友を断とうとしていたのだ。さらには伏原くん曰く「同族嫌悪で」TSそのものをヘンタイだとして否定している。
同志の会合を減らすために、配下の鳥谷部さんの正義感を利用して、今回の健全化を引き起こした……あまりにも辻褄が合いすぎる。否定的な材料なんて「そんな知恵あるの?」くらいしか思い浮かばない。
あるいは自分自身の責任を避けるために、我ながら何もかもを都合良く解釈しているだけかもしれないけど。
「……河尻さん。なんで、ここにいるんですか」
「もう。年下の私に敬語なんてやめてくださいよ!」
中学生ちゃんは「親しき仲にも礼儀ありです」と制服の襟をわざとらしく整えてみせる。
中等部の夏服は白地の半袖セーラー服だ。襟とリボンが似たような藍色なので、あまり華やかな印象は受けない。むしろ地味というか。保護者からは進学校らしく落ちついたデザインだと評判らしい。
かつての彼女は夏服を避けていた。それはデザインが地味だからではなく、自らの体格を隠すためだったが、今の彼女は隠さなくてもいい肉体なので平気で素肌を晒している。
なにせ先日には水着まで披露していたほどなのだ。あれを思い起こすと変な気分になるのでやめておくけど、すごいスタイルだった。
さながらモデルさん、あるいは作り物のようで。
そこに本当の彼は見えなかった。
「……河尻さんの本心を聞かせてください」
「な、いきなり何を言い出すんですか、センパイ」
中学生ちゃんはトギマギしている。
我ながら彼女の言うとおりなんだけど、今のは紛れもない本心だった。
だって、何もわからないんだから。
あの「石室」でお友達になってからというもの、彼女は常に中学生ちゃんでしかなかった。
お互いの会話の中で、河尻修二の存在は意図的に除外されていた。
いわば中学生ちゃんは全身が作り物なのであり、ウソなのであり、そんな状態では何も知ることができない。
今回の件に彼女は関わっているのか。
性的には男女のどちらを望んでいるのか。あるいは両方なのか。
そもそも、なぜ僕を選んだのか?
上坂さんの話によれば、元々この人は色んな部員の悩みを訊き出すために変装していたそうだけど、それがこんな形に歪んだのはなぜなのか。
「僕は……河尻修二とお話したいんです」
「なら当の河尻さんに話しかければいいじゃないですか。あの方は立派に委員長としての仕事をされているんですから!」
中学生ちゃんは「それを私に訊かれても、イヤです」と手を振りほどいてきた。
たしかに普段は河尻さん本来の姿で仕事をしているわけだから、そっちに話しかけてもいいかもしれない。
友人のトリなんとかさんの力を借りれば、地下まで話し合いに行くのも難しくはない。
「いや、それだとはぐらかされるかもしれません」
「はぐらかすって……どんな話を訊くつもりなんですか、センパイ」
「大したことではないかもしれませんけど、よくよく考えてみると中学生ちゃんが一人でいるのは珍しいんですよ」
今さらながら気づく――今日は久慈さんが近くにいない。
石室の時からコソコソと耳打ちしているあの人がいない今こそ、彼女と真剣に話し合うべきなのだ。
それに、6月の末にお友達という形で保留した「あの件」も、そろそろ終わらせたほうがお互いのためだろうし。ずっと期待させておくのは、ほとんどその手の経験のない自分でもダメだとわかっている。
「だからお話しましょう。他ならぬ河尻修二(ちゅうがくせいちゃん)のことを」
僕は彼女の両肩をつかんだ。
年相応に細い。両腕に挟まれた双丘とは対照的だ。
「……センパイが求めてくるなんて珍しいです」
彼女は「わかりました」とうつむいた。
ただしカウンターの吉野さんがガン見しているので、場所だけは変えてくださいとのことだった。
× × ×
地下の開架書庫には、本棚以外にも様々な設備がある。
その中の一つである、群山の学生なら誰でも自由に借りられる『研修室』は、主に大学生たちが研究会に利用できるように作られたそうだ。
残念ながら、そんなやる気のある学生は他の大学に進学してしまうので、今のところ利用率は低いらしい。せいぜい高校生たちがテスト対策をするために借りるくらいだとか。
そんな企画倒れの施設を借り受けた僕たちは、ちょうど『第2保管室』と似たようなサイズの部屋に身を寄せ合って座った。対面に座ろうとしたら怒られたのだ。
「……で、オレ様に何を訊きたいんですか、センパイ」
彼女はふてくされたように机を叩く。話しかけた相手は真横にいるのに彼女の目線は前に向けられたままだ。教室と同じ形の黒板が白くこすれている。地下なので日光は浴びていない。
「ずっと訊きたかったんですけど」
僕は断りを入れた上で、「どうして自分なんですか?」と訊ねてみた。
これは本当に気になっていた。言うまでもなく小山内一二三はイケメンではない。むしろ見た目には劣るほうだ。決して成績が良いわけでもなければ、寝食より女性化作品が好きという始末である。
どれを取っても、男女両方から好かれるようなスペックではない。
仮に好かれても『いちばん』になるのは困難な気がしていた。
対して、河尻さんは「いつか言いましたよ」と返してくる。
うーん。どうしたものか。まるで記憶にない。
「もしかして忘れちゃいましたか」
「あ……うん」
「私、センパイと遊ぶの好きなんです」
「遊ぶのが好き?」
「なんかわからないんですけど、センパイといるとすごい楽しいんですよ。いっしょにいるとワクワクするというか。色んな部員たちに声をかけて内情を探ってきましたけど、センパイと話す時だけはすごく楽しかったんです」
だから私ともっと遊んでくれると嬉しいんですよ、センパイ。
河尻さんはニマッと笑みを浮かべる。
なるほど。いっしょにいると楽しいですか。
さすがに相手が河尻さんであれ、そんなふうに言われると嬉しいものだけど、一方で何となく思うところもあった。
○○だから○○、みたいな理由付けというよりは、内心にベタッとした「覚えのある何か」を感じたというか。
「あの。ちょっと電話してきていいかな」
「いきなりですね、センパイ……なんか評価低いです」
彼女の言い分はもっともだけど、彼女のことをより知るためには話を聞いておきたい人がいるのである。
僕はどうにか中座させてもらい、『第5研修室』の外でスマホを取り出す。地下の「石室」同様に開架書庫にも電波は届いている。
「……もしもし仲田さん、今大丈夫ですか」
『大丈夫だよ。バンドのメンバーと会うのは夜だし』
「よろしければ河尻さんの性格を教えていただけませんか」
『河尻の性格?』
仲田さんにとってあの人は弟子にあたる。TSの弟子が伏原くんなら、公的な委員長としての弟子は河尻さんだ。
河尻さんに委員長を継がせたのも仲田さんの方針だったとか。
「何でもいいです。性格以外でも」
『うーん……とりあえずワガママだったね。ボクもワガママなほうだけどさ、ホント何にも言うことを訊いてくれないんだよ。命令したらすぐにふてくされるし。自分のやりたいこと以外はやりたくない子でさ』
彼女は言外に過去の苦労をにじませた。
なんでそんな人を後継者にしたんですかと訊ねたくなるくらいだ。そもそもなぜ委員になれたんだろう。
『あとはアレだね。友達が一人もいなかった』
「そうだったんですか」
『うん。クラスでもあんな感じだったのかもね』
「……わかりました。ありがとうございます」
こちらから通話を切らせてもらう。
なるほど。なるほどね。河尻さんが欲しいのはそっちだったんだ。
だから美少女の中学生ちゃんに対して、照れ隠しでフランクに接していた奴を――やっと読めてきた。そして、その気持ちは自分にも痛いほどわかる。
別に全てをわかったわけではなくて、そんなの相手の心を読めるような力でもないかぎりはムリなんだろうけど、権力者と美少女の仮面をかぶっていた相手から「ほんの少しの共通項」を炙り出すことはできた。
あとはいかにそれを彼女に知らしめるか、にかかっている。
研修室に戻ると、河尻さんは腕を組んでいた。心なしか不安そうに見える。
「ごめんね。待たせちゃって」
「あれ? もういいんですか、センパイ」
「アルバイトの面接日を決めただけだから」
きっと僕の目は泳いでいることだろう。
ともあれ、彼女にはぶつけたい問いかけがある。ほんの少しの共通項を己のうぬぼれにしないために、きちんと訊かなければならない。
「……中学生ちゃん」
「なんですか、センパイ」
「中学生ちゃんは……河尻さんのことをどう思ってるんだい」
「私の? でなくて、えーと……」
中学生ちゃんは迷うようなそぶりを見せてから「河尻委員長(ビッグ・カワジリ)は偉大な方だと思います」と苦笑いした。
その上で、彼女は己の胸に手を当てて、
「でも、すごく自分勝手ですし、自己顕示欲の塊みたいな人間ですし、失敗して他人から怒られるのが怖いから虚栄心ばかり育ってますし、あとはわりとブサイクですし……私はあんまり好きじゃないですね!」
ガチの同志よろしく自己批判を行ってくれた。
あれだけ自分のポスターを貼りまくっている人が、己のその性分を切ってみせたのだ。
奇妙な感覚が舌先を包んだ。喉が渇いている。我ながら何を言うべきか悩んでいるから、それらが気になるのかな。
うーむ。ここは変にフォローするよりも、もし自分なら言われて一番嬉しいはずの台詞を告げるべきか。
「僕は、そんな河尻さんとも仲良くなれると思ってるよ」
「……えー。かなりダメな人なんですよ、センパイ」
「お友達にもなれるはずさ」
僕は「もちろん恋人にはできないけど」と続ける。
若干後ろめたさがあったけど、なんだかそう言っても良い気がした。
「まぁそれは、男同士ですもんね」
彼女はニマッと笑ってみせる。
不思議と、どこか安心したような笑みでもあった。
自分とこの人の「ほんの少しの共通項」。
それは女性化する上で、あるいは己の姿ではないものに自由に変身する上で、おそらくお互いに思い込んでいるであろう内容だ。
美少女は他人から一方的に嫌われたりしない。
自分の見た目が好きではない人ならば、たぶん妄想の中に自覚なく加え入れるだろう都合の良いルール。少なくとも自分はそうだ。
彼が中学生ちゃんと化したのもその一点に尽きるのではないか。
河尻さんは自分なりの「おふざけ」が「他人」と「自分から」許される見た目になりたかっただけではないか。
やはり全てをわかることはできないけど、そんな気がしてならなかった。
「……あの、ひとつお訊ねしてもいいですか、センパイ」
彼女が人差し指で脇腹を突いてくる。
「なんでしょうか」
「一応、これはオレ様がフラれた形になるんですよね。お友達から始めたけど始まらなかったみたいな」
その言葉に僕は動揺を誘われる。
フる。フラれる。そんなのは今までもこれからも無縁の動詞だと思っていた。
「あー……でも男同士ですから」
僕はそう答えるしかなかった。
己の趣味があっちなので、男同士の恋愛を建前でも否定するのは気が引ける。
今まで得てきた萌えを否定するようなものだし。あくまで自分なりにだけど、同性愛にも理解はあるつもりだ。
彼女にも「そこは性別は関係ない気がしますよ、センパイ」と返された。
「ただ、オレ様的には収まるべきところに収まった感じもします」
「そうなんですか?」
「だってセンパイ、別に好みじゃないですし。オレ様が好きなのは周りにいる子たちみたいな可愛い子ですから」
ふむ。性的には男性のままということらしい。
だとしたら、どうしてそれが僕にアプローチをかける方向に進んだんだろう。容姿を活かして仲良くなるだけなら、何も恋愛に持っていく必要はない。
石室の問答で鳥谷部さんが中学生ちゃんの「好意」を察知したのは記憶に新しいけど……なんか妙な感じだな。
それを払拭するかのように、ふんわりとした感覚が頬を撫でる。
「お別れの証です。では次は……オレ様と遊んであげてくださいね、センパイ」
「あ、はい」
お元気で。
そう言って彼女は保管室から出ていった。
よもや初めてのあれが河尻さんからになるとは……カウントするべきか、しないべきか、ちょっと考えさせられた。
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