10-1 ぼくは多麻のなか


     × × ×     


 ほんのり焼けてしまった肌を服の上からさする。

 昨日のプールは大変だった。中学生ちゃんと二人きりだったはずが、なぜか他の委員たちも来ていて、なんだかんだで向こうのグループだけで楽しそうにしているものだから、僕は一人ぼっちで延々と泳ぎ続ける羽目になったのだ。

 途中で旅行帰りの鳥谷部さんが来てくれたから良かったものの、プールで女の子と遊ぶ方法なんて知る由もなく。自信たっぷりで飛び込んできたわりに泳げなかった彼女に泳ぎ方を教えていたら、いつのまにか夕方になっていた。


 中学生ちゃんは「センパイと遊べて良かったです」と満足そうだったけど、本当にあんなので良かったんだろうか。

 ぶっちゃけ仲間内の遊びのダシに使われたような気がしてならない。


「平尾さん、お疲れ」


 いつものように掃除道具をロッカーに戻して、相方の平尾さんと挨拶を交わす。今日の当番はこれで終わりだ。

 その上で『文庫本エリア』の中央からこちらを窺っていたメガネの中学生に声をかける。


「なにか用かな、久慈さん」

「河尻さまからのメッセージをお伝えするために来ました」


 彼女は「あの方はとても喜んでおられました」と含み笑いを浮かべて、レンガ造りの階段を忙しなく上がってきた。


「あんな感じで良かったの?」

「なにやら水着を見られるのが恥ずかしかったそうで。あんまり話せなかったけど、その恥ずかしさが良かったらしいです。小山内さんはいかがでしたか」

「疎外感でいっぱいだったよ」


 正直に答えると、久慈さんは「あなたのことではなくあの子のことですが」と綺麗な顔を寄せてきた。

 僕は吹き抜けに目をそらす。以前、そこから落ちたらお客さんの迷惑になってしまうなんて会話を中学生ちゃんとしたっけ。

 あの頃は正体を知らなかったから女の子扱いしていたけど、今は知ってるからなあ。

 彼女の感想を求められても「おっぱい大きかった」くらいしか出てこない。やはり僕は自ら女性化した人を愛せそうにない。


「おっぱいですか。なるほど。お伝えしておきます」

「しなくていいよ」

「小山内さんの指図は受けませんから」


 久慈さんは「あなたは彼女を喜ばせてくれたらいいんです」と、何やら自分の中で完結しているような笑みを見せてくると、階下の広間に当の河尻さんが歩いているのを見つけて、そそくさと階段を降りていった。


「河尻様。こちらにいらしておられましたか」

「見回りをしていたのだ。夏休みはサボる奴が多いからな」

「慧眼でございます」


 主の河尻さんにおべんちゃらを言う久慈さん。こうして見ると後ろ姿も美人だ。河尻さんから選ばれただけのことはある。

 ただ、それだけが彼女の類まれなる忠誠心の理由だとは思えなかったりする。

 あの美貌なんだから、パッとしない見た目の河尻さんや「同性の」中学生ちゃんではなく、もっと格好良い同級生と仲良くしていてもおかしくないのに。なぜ彼女は河尻さんに従っているのだろう。


「…………」


 彼女を見つめていたら、ふと河尻さんと目が合った。昨日あれだけ遊んだ仲なのに、彼にはなぜか目を逸らされてしまう。

 おかげで、僕はもやもやした気分で同志のまま合流することになった。けれども、以前ほどモヤっとしていないのは……まあ、いいや。



     × × ×     



 窓が軋んだ音を出しながら閉められていく。

 そろそろ夕方になろうかという頃合いに降り出した雨は、僕たちを『むらやま』から出られなくしていた。

 となれば『第2保管室』で止むのを待つことになる。

 本を読んだり、己のやりたいことを続けたり。時間を潰すぶんには困らない場所だ。


「まさか降ってくるとはな」

「朝の天気予報で、にわか雨があると言ってましたよ」


 窓際から空を窺う五郎さんの呟きに、伏原くんが反応した。


「ほう、そりゃ知らなかった」

「ふふふ。五郎さんは情弱ですね」

「……知ってて傘を持ってきてないお前はどうなんだよ」


 五郎さんのツッコミに、伏原くんは苦し紛れに「小生は雨に濡れたら髪の毛が赤くなるかなと思っただけです」と返す。

 TS好きにはおなじみの『さんま』ネタだ。


 水にかかると女性になっちゃうふざけた云々。

 アニメ版だと雨粒に当たった部分だけ赤くなっていたりするけど、あれって何リットルで完全に女性化するとか決まっているのかな。

 女さんまが妊娠したらお腹の子供は男性化の際にどう処理されるのか……なんてのはよく語られるものの、こっちの話はあまり耳にも目にもしない。余談だがオタクっぽい人が「聞いた話では」と言い出したら9割くらいはネットから仕入れた話だ。


 五郎さんが「傘くらい忘れ物の中にありそうだけどな」とダンボール箱を漁ろうとして、やはり他人のものだからダメだと自制しているのを机から眺めていると。

 隣でネームを描いていた中学生が、おもむろに立ち上がり、


「――ただいまより第六回『このTSFモノがすごい!』選抜大会を始めます!」


 そう宣言して、己のカバンから紙コップとせんべいを持ち出してきた。


「まさか、あれをやるつもりなの?」

「どうせヒマですし。マンガのネタにもなるかもしれませんし」


 こちらの問いに、彼は「なにより久しく語ってなかったですからね!」と息を荒くする。

 そういえば近ごろはマンガ作りばかりで、TS作品そのものを語ることは少なかったな。


 変に悩まずに今までみたく作品を愛してやればいいさ。萌えてやればいいさ。あと良い作品があったらお姉さんに教えてね。

 そんなピエロの台詞が脳内を去来する。あれから夕飯までご馳走になっちゃって、家に帰ってから怒られたっけ。


「……前回は僕もあまり語れなかったし、久しぶりに良いかもね」

「ふふふ。あの頃のセンパイは頑(かたく)なでしたもんね!」


 センパイの心をほぐすのにどれだけ骨を折ったことか、と伏原くんはため息をついた。

 その件については何も言い返せないのでミルクティーを飲んでごまかすことにする。でも君の誘い方もかなり強引だったよ。


「やるのはいいが、オレとしてはジャンルを決めてほしいところだな」

「では、今回は他人になる系のお話にしませんか」

「憑依とか脳移植のことか?」

「入れ替わりや変身でもいいですよ。ただ特定の他人になるお話にしましょう。女の子になった自分系ではダメです。センパイもそんな感じで良いですよね!」


 対面の五郎さんと話し合っていた伏原くんが、笑顔でこちらに同意を求めてくる。

 僕は親指を立てて「かまわないよ」と答えた。どれも好きなジャンルだ。


 久しぶりの大会か――不意に力がみなぎり、右手の紙パックをギュッと握ってしまう。当然ストローから中身が飛び出して、机の上はビショビショになる。

 指先からミルクティーをぽたぽたと垂らしている僕の姿に、伏原くんは口元を押さえながら「わざとですか」と訊ねてきた。そんなわけないだろ。



      × × ×     



 伏原くんの手により、各自にせんべいが3枚ずつ行き渡る。

 今回は他人になる作品がテーマなので、もっとも票を集めた者に与えられる称号は『他人のふり王』となるだろう。いらない。


「まずはオレからいかせてもらうぞ」


 次第に外の雨足が強まる中で、トップバッターの五郎さんが『どろどろ』という作品を紹介してくれた。

 妖怪に絡まれやすい少年が主人公のギャグマンガだそうだ。例によって五郎さんのイラストにも少しクセのある絵柄で少年少女と妖怪たちが描かれている。中央にいる少年が主人公なのかな。


「こいつはハナオというんだがな。ケンカがめっぽう強くて気も強い。それが途中でアニメキャラの猫娘と化してしまう回があるんだ」

「いわゆる一般作品のTSF回ですね」

「ああそうだ。ありがてえよな」

「うーん。ありがたいといえばそうですけど、その話のためにそこまでの全巻を読まないといけないのがネックですよね」


 伏原くんは「いっそ全部TSFでやってくれたらいいのに」と眉をひそめる。

 その気持ちはよくわかるけど、これがきっかけでTS抜きでも面白い作品に出会うことも多々あるからなあ。


 彼の渋い反応に、五郎さんは「おっ」と目を丸くした。


「伏原はまだ読んでなかったようだな」

「へ? どういうことですか」

「このマンガはその回だけじゃなくてな。なんとハナオがしばらく猫娘のままなんだ。学校に行けば友人たちに猫可愛がりされるし、猫だから動物的に狩りがしたくもなっちまう。そんな状態のまま話が進んでいく」


 五郎さんは「TS回でありながら日常回でもあるわけだ」と付け加える。本業(?)の妖怪話も猫娘のまま行われるらしい。

 ちなみに猫娘の姿だが、五郎さんのイラストでは巨乳で可愛らしい感じだった。元の少年のやさぐれ具合と比べると大違いだ。


「あの! 心の女性化はありますか! 発情期とか!」


 おもむろに手を挙げる中学生。


「いや、メンタリティはずっとハナオのままだ。せいぜいレディースデーを利用するくらいだな。というか、ハナオが女らしくなるのを想像できねえよ」


 五郎さんは力強くかぶりを振った。よほど強烈な主人公らしい。

 ともあれ、話を聞くかぎりでは十分に面白そうだったので、僕は五郎さんのコップにせんべいを1枚入れることにする。


 一方の中学生は半分に割ったものを入れていた。

 マッチョマンから「ケチるなよ」と突っ込まれると、彼は「小生は次のセンパイに期待してるんです。温存しないといけません」と返してみせる。

 別に温存するのは自由だけど、むやみにハードルを上げないでほしいところだ。どの作品を紹介するか悩んじゃうじゃないか。


「あー。別にみんなが知らない作品でなくても良いんだよね」

「それは大丈夫だ。むしろ名作を読み直す機会になるからな。お前の好きな話の好きなところを教えてくれたらいい」

「なら……『少女型少年』はどうかな。あれも他人になる話だったし」


 僕は何となく提案するような形で作品名を出す。

 すると伏原くんが、左手で背中に触れてきて、


「もう。センパイったらそんなに気負わないでくださいよ。今さらどう話したところでセンパイがTS好きのヘンタイなのはみんな知ってますから」

「ヘンタイではないつもりだけど……というか、ハードル上げたの君だからね」


 2人の注目を浴びる中で、僕は『少女型少年』の内容を挙げていく。

 まずはあらすじから。

 この作品は主人公の男子が事故死するところから始まる。幼馴染のおふざけにより道路に転がされていたところをトラックが突っ込んでくるのだ。

 あえなく即死してしまった主人公。

 ところが、彼の魂はなぜか幼馴染の肉体の中で生き残っていた。なんと死に際に彼女と入れ替わってしまったのである。

 本来は自分が天国に行くはずだったのに、幼馴染のほうが天に召されてしまった。残された主人公は否応なく彼女として生きることになるが、もちろん納得いかない。


 自分に好意を寄せていた女子とのいざこざから、今度は川に落ちてしまった彼は、あの世でヘビの形をした使い魔のような存在と出会う。

 そいつは主人公に「今のまま3年ほど生きれば彼女の心は生き返るだろう。ただしその時、お前の心はあの世に行く」と告げるのだった。

 かくして主人公はタイムリミットまで幼馴染として生きることになる。

 ところが、彼女の人生は思っていたよりもハードなもので――。


「僕としてはひとつひとつの描写が丁寧なところが好きなんだ」

「わかるぞ。女の子に染まる一方で、本来の自分が周りから忘れられていくという寂しさをしっかりと描いているのがいいんだよな」


 五郎さんは「リアルでいい」と目をつぶる。


 リアルさ。

 TSモノにおいても、ないよりはあるほうが良いとされる指針である。

 別にある日いきなり女の子になった――みたいな作品も大好きなんだけど、こういうシリアスな作品だと現実的に描いてくれるに越したことはない。

 大和路先生の言葉を借りるならば「ありそうなウソのほうが信じやすいからありがたい」ということだ。信じやすいとは、読者が自分にも降りかかるのではないかと妄想しやすいということでもある。


 一方で、僕としてはおそらく主人公が自分の存在を惜しんでいるのがTS作品として珍しくて、なおかつそれが、この作品が妙にリアルに感じられる理由なのだろうと考えていたりする。

 往々にしてTSファン向けに作られた作品は今の自分(あるいは読者)よりも上級の存在として「変身後の女性」を描いているからね(仮に奴隷として性的に虐げられる作品であっても、それが痛みを伴わない妄想である以上は、女性化してセックスできない読者よりも上級の存在であるといえる)。


 それに比べて、この作品では、ヒロインの幼馴染の姿は「愛すべきもの」であり「忌むべきもの」だ。

 主人公は自分こそが死ぬべきだったと悔やみながら、彼女の姿ではなく自分として生きたかったと悲しんでいたりもする。自分自身の存在に強い愛着を持っている。大なり小なり変身願望を持っているはずの同志とは大きな差があるのだ。


 そんな主旨の話を彼らにしてみると、2人は机を挟んで顔を見合わせてしまった。

 あれ。なんか変なこと言っちゃったかな。


「あー……そういえばセンパイは大和路快足の尻尾でしたっけ。小生もそういう解説は好きなんですけど、ぶっちゃけ今回はセンパイの萌えたポイントを教えていただきたいです」

「萌えたポイント?」

「この大会はあくまで自分の好きな作品を他人に読ませるのが目的だからな。こっちが作品を読みたくなるスピーチでないと、せんべいはあげられねえってことだ」


 伏原くんと五郎さんは「さあ続けて続けて」と声をそろえる。

 なるほどね。この場では自分が作品の中でキュンときたシーンを示してほしいわけだ。理屈よりも萌えの現物を持ってきやがれと。

 うーん。元がシリアスな作品だけに困っちゃうな。


 そもそも定番の「元男性が男性に恋する話」ではないから、わかりやすい萌えポイントが少ない気がする。

 すでに主人公と幼なじみのカップルが完成してしまっているぶん、たとえ妄想でも部長や先生とつなげるのは考えづらいし。


「えーと……わりとお約束は踏んでいたりするところとか?」

「たしかにお着換えから生理まで一通りやってましたね。お風呂でいきなり処女膜を確認しようとする主人公は初めて見ました」


 僕も人前で処女膜とか言っちゃう子は初めて見たかもしれない。

 ちなみにTS作品においては、処女を失うと元に戻れないという設定を付けるために処女膜をおいなりさんの皮が変化したものとして扱うことがある。あれこれして破れちゃったから一生女の子のままでいるしかないね。そんなあ。女性化できるだけの技術があるならそれくらい治せそうだけど、そこに突っ込むのはヤボというものだ。処女だけに。


「他にはありますか?」

「あとは、そうだね。やっぱり心の女性化がすごくきっちり描かれているのは面白いと思ったよ。なんだかんだで肉体に合わせて主人公の考え方が変わっていくんだよね。それを受け入れるのも良かったよ」


 主人公は幼馴染のために女の子らしく演じようとするのだが、次第に内面まで変わってきてしまう。それは彼自身の魂の形にも影響を及ぼしており、死んだはずの幼馴染とのすれ違いを生むことにもなる。

 幼馴染は主人公に主人公として生きてほしかったのだ。


「うーん……たしかに主人公は女性であることを受け入れていきましたけど、でも、あれって萌えシーンなんですかね?」

「へ?」

「小生はむしろ主人公が大切な人のぶんまで生きようと決心するシーンのように感じられました。TSF的な心の揺らぎではないような……」

「幼馴染として生きる自分を受け入れるのはTS的なシーンじゃないの?」

「もちろん超TSF的なシーンですし、まちがいなく面白いんですけど、でも萌えではない気がします」


 どうやら伏原くんの好みではなかったようだ。

 彼は続けて「そもそも他人の心の揺らぎでなぜ萌えるんでしょう」と首をかしげた。

 そんなこと言われてもなあ。

 絵柄なんて小説でも萌えられる以上は大した問題ではないし、女性の描いたマンガでも萌えられるものはたくさんあるし、元男が男性に惚れる以外にも萌えるTSモノは存在する。

 つまるところ、伏原くんの好みではなかっただけなんじゃないか。


 結局、彼は少し悩んでから、僕のコップにせんべいを1枚入れてくれた。

 五郎さんも半分入れてくれたので、合計3枚半となる。

 これはもしや『他人のふり王』を狙えるんじゃ。ほんのりやる気が出てきたぞ。

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