8-1 げんかん!
× × ×
中央区にある私立図書館『むらやま』は夏でも冷房が効いている。
外観の東大寺ではない部分に太陽光パネルを載せているので、二酸化炭素排出量や電気代を気にすることなく施設を冷やすことができるのだ。
もちろん本の保全も目的の一つである。
室温を下げると共に湿度を抑えることで、カビの発生を防いでいるらしい。
そんな『むらやま』の中でも特に涼しいのが、木造の『洋書エリア』だった。ダブリンのトリニティ・カレッジを模したエリアには、常に冬の森のような冷たい空気が流れている。
夏服姿の鳥谷部さんが「くしゅん」とくしゃみをしたのも、きっと床のホコリだけが原因ではないはずだ。
「……今日から夏休み」
彼女は何事もなかったかのように呟く。
およそ寒さに身を震わせながら口にする内容ではないけど、午前中に終業式を終えて、これから始まる夏休みを楽しみにしているようだ。
「プール。お祭り。花火大会」
いかにも高校生らしい内容の呟きがこちらにまで聞こえてくる。細身の彼女のことだから浴衣が似合うだろうな。
「ねえ。小山内くんは何か予定あるの?」
「……予定も何も、ずっと当番なんだけど」
彼女の問いかけに、僕は拗ねたふうに答えてしまう。
文武両道を標榜する群山学園では、他の部活動と同様に『図書部』でも夏休みの活動が行われており、僕たち掃除班の当番も今までと同じように回ってくる。そもそも『むらやま』が夏休みも営業しているからお休みなんてありえない。
上級生になればローテーションを決める立場なので多少の融通も利くだろうけど、1年生ではそうともいかないのが現状である。
おかげでせっかくの家族旅行にも同行できそうにない。
今年は北海道に行くらしいのに残念だ。あんなに広い土地も珍しいから行ってみたかったな。かの『キュートファザード』の聖地でもあるわけだし。
「まあ、同志とマンガを作るからいいけどさ」
僕は自らを奮い立たせるために、あえて声に出す。
すると、姫カットの同級生が「どうせTSなんでしょ」と茶々を入れてきた。なにやら見透かされているようでイヤだな。
「いや、それが今回は別のジャンルで……」
「小山内くん。なんでも同じものばかりは良くないんだよ。あなたたちはヘンシツ。アレルギーを起こしても知らないから」
もはや「嘘つき」とさえ言ってもらえなかった。
彼女は続けて、お父さんがサバを食べすぎて発作を起こした話や、星新一の次には海外作家の本を読むようにしているなどの話を身振り手振りを交えて一生懸命に話してくれる。
星新一の作品にもTSを含めたものが少ないながらも存在したような気がするけど、それはさておいて。
TS好きの一人としてTSをアレルゲン扱いされるのは気分の良いものではない。TS萌えが蓄積したところで肉体に害が及ぶわけがないし、むしろ及んでほしいくらいであって、とにかく彼女にはちょっとだけイジワルさせてもらう。
「ふーん……となると、鳥谷部さんはTS作品がキライなんだ」
僕はゴミ袋をくくりながら、わざとらしく呟いてみた。
すると彼女は自分の話を止めて、チラリと目を伏せてから、
「キライではないけど」
「マンガもキライだったりして」
「キライではないけど!」
彼女はふてくされたように口先を尖らせる。
彼女には『保守点検の日』(TSマンガ)を借しているので、おおっぴらにはTSを拒否できないはずなのだ。
他にも同じ作者の『つどえ! 個人授業』や『王女と王女』を読んでもらっており、当然どちらも女装・女性化作品である。さくつみき先生の作品は女性向きでありながらお約束を踏んでいるので、鳥谷部さんに貸すにはピッタリだった。
なぜマンガを貸しているのかといえば、1ヶ月前に「お友達なら楽しいものを共有すべき」と提案されたからであり、僕も彼女からSF小説を借りていたりするのだけど……その真意がどこにあるのかはあえて考えないようにしている。
可愛らしい女の子がここにいて、アイルランドの木材で作られた本棚に雑巾がけをしているというだけでも、十分に心がパンクしそうなんだから。
僕は伏原くんみたく愛されやすく生まれたわけではないため、上手く対応できないのである。
せいぜい強がってイジワルするのがやっとだった。
「終わり。小山内くんは?」
「終わったよ。鳥谷部さんがいるとサボれないからね」
まとめたゴミ袋を彼女に見せつける。
人の少ないエリアなのでゴミやホコリはあまり溜まっていなかった。
「私がいなくてもサボらないで」
彼女は顔をしかめて「マジメにしないとマンガを返さない」と脅してくる。
しまった。その手があったか。
お金は貸す方が不利だと祖父から訊いたことがあるし、本の場合は下手したら中古ショップに売られてしまいかねない。
僕はどうにか彼女の機嫌を取ろうと策を講じる。
「えーと……当番の代行を……」
「バカ。もう私には当番なんて来ないから」
そういえばそうだった。
いわずもがな、お掃除のローテーションが回ってくるのは班員だけであって、班を抜けた彼女には回ってくるはずないのである。
そのせいで5人班になったからローテが余計にキツくなっていたりするんだけど……それはともかく。
「そうだよね。鳥谷部さんは委員だもんね」
チェキストの名で知られる彼女が『運営委員』に選ばれたのは先月末のことだった。
どこぞのおさなんとかくんが委員長のドラフト指名を拒否したために、彼女が外れ1位として指名されたわけだけど、ぶっちゃけこれ以上の適材適所はなかった。
あの面子の中に入っても遜色ない上に、誰よりも『むらやま』を想っている。
いずれは委員長にもなれるだろうね――とは千里大学に通っているピエロの評であり、鳥谷部さんはそれだけの逸材だった。
ただ逸材すぎて運営委員ならぬ政治委員(コミッサール)になってしまいそうな気もするんだよね。密告者に権限を持たせれば待っているのは狭量な恐怖政治だ。なまじ彼女は「より良い図書館を作る」という強い理想を抱いている分だけ恐ろしい。
『二神上級生。どうして逃げるの』
『逃げるしかない時もあるんだよ』
『敗北主義者にはおしおき』
冬の街、前進命令を拒否する上級生をデコピンした上で、前線の僕たちに「お掃除しなければ死あるのみ」と機関銃を向ける鳥谷部さんの姿を想像していると……当の彼女がこちらに耳打ちをしようとしているのに気づいた。
耳打ち。中学生の男子にされるぶんには気にならないけど、高校生の女子が相手だとさすがにドキッとしてしまう。彼女の匂いもするし。
それにしても、彼女がコソコソ話なんて珍しいな。
何となく一歩引いてから、僕は訊ねてみる。
「どうしたんだい」
「……ねえ。小山内くんはあの力をもう使わないの」
「あの力?」
「石室」
彼女は中央ホール方向を指さした。
ああ。なるほど。今の彼女の権限ならあそこにも自由に入れてしまうのか。
石室――あそこには特別な力があって、仕組みは不明ながらも他人に大きな変化をもたらすことができる。
どこまでのことができるのかは今のところよくわかっていない。
少なくとも6月のあの時には、肉体の変化だけでなく、人の心にまで手を加えることができるようだった。
あの力を自由に使うことができるなら。
自分の中で、河尻さんの件がまだ終わっていないから――と抑えていたものが、ゆっくり沸き上がってきそうになる。
女の子になれるならなってみたい。他人のふりをして田村あたりにイタズラしてみたい。あいつ今日も当番をサボりやがって。
一方で「自分から女性化する」のは恥ずかしい気もした。
こんなに恥の多い人生を歩んでいるんだから恥なんて今さらなんだけど、やはり自分としてはTSは強いられてこそなのだ。
天災でも人為でも何なら宇宙人のせいでもいいから、他人の手で女の子になりたい。
あとは……少なくとも生粋の女の子が近くにいる以上は「あんな子になりたい」なんて口に出せそうにないというのもある。
いずれにせよ、我ながらゼイタクな悩みだった。入学前の僕が知ったなら助走をつけて殴られてしまいそうだ。
五郎さんや伏原くんはこの「手に届くTS」をどう捉えているのかな。
あとで訊いてみたいところである。
「小山内くん。どうするの。私は今日なら大丈夫」
彼女がバケツを手に持ちながら訊ねてくる。
今日なら大丈夫って……なんかイヤらしいな。
というか、もしかして彼女の中ではいずれ「あの時」と同じ状況に持っていくのは決まっていたりするんだろうか。
ふんふんと息を荒くしている姿が、少しばかり怖い。
「あー……これからマンガを作るんだよね」
「またマンガ。小山内くんはそればっかり」
「そう言わずにさ。先約だからゴメンね」
「バカ」
彼女はそう呟くと、そそくさとロッカーの方に走っていった。
できれば彼女の前で彼女になるよりも、彼女の知らないところでスタイルの良い女の子になってみたかったので、今のところは先送りさせてもらった形だ。
本当に我ながらゼイタクだなあ。
まあ、憑依系のマンガでも美女ばかり狙ったりするし、味を知ったらより美味しいものを求めてしまうのは仕方ないよね。
ちなみに委員でなければ「石室」に入れないシステム上「彼女の知らないところで」という状況を作ることが今のところ不可能である……ということに気づいたのは、僕が掃除を終えて『第2保管室』までやってきた時のことだった。
「いっそ委員になっておけば良かったよ」
「センパイは何を言ってるんですか」
伏原くんは人を殺しそうな目でにらみつけてきた。
ごめんよ。でもイライラしてるからといって人に当たるのはやめてほしいかな。机にあるボツネームの数々に目をやりつつ、僕は自分のカバンを床に置いた。今日もこの部屋の空気はホコリっぽい。
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