タエコと雪子 10

 別れを、制作を中止することを決めた二人は、それぞれの帰路につく為に地下鉄の駅へと向かうのだが。

「先生、ここで」

 円山公園の前で、多恵子が立ち止まってしまう。森林の公園の入り口で、多恵子は謙を見て僅かな微笑みを見せ。

「どうして。そこまで一緒に帰ろう」

 充分に未練があることを、謙自身がここで痛いほど知るほどに、多恵子を引き留めていた。

 だが、多恵子は手を挙げ、いまにもタクシーを呼び止めそうだった。

「待って、多恵子さん」

 彼女が挙げた手を、ひっつかむ自分がいた。多恵子の前にタクシーが停まりそうになったが、二人の様子に不審な空気を感じ取っただろう運転手は、そのまま走り去っていった。

「もう、決めたんです」

 掴む謙の手を、多恵子が荒っぽく振りほどいた。

 その時、初めて。多恵子が涙を流していた。

「憧れの、美術の毎日だったのに。なにも持っていないそのままの私で充分だと思っていたのに……! 私のこと、どこまでもどこまでも見つめてくれる男の人の眼に、いつしか幸せを感じてしまったんです。モデルのままでいられなかった……」

 また何処かに走って逃げそうな多恵子の肩を謙は必死に捕まえた。

「貴女だけのせいじゃない。男の僕が貴女に邪な、違う……」

 違う。邪な……そんなものじゃなかった。謙は本気で言い放つ。

「僕が、貴女に恋をしたからいけなかったんだ」

 逃げようと、謙と別れようと必死だった多恵子の動きが止まる。掴んでいる多恵子の肩。彼女がその肩越しに、ゆっくりと振り向いた。

「……どうして、言うの。それを」

「嘘じゃないから」

 彼女だってわかっていたと思う。だが謙もそうだった。あってはいけないから、空気の中に取り残して、あるのにないようにして二人の間に秘めていたもの。そして決して証してはいけないものを。

 空気の中で、言葉で音で形になり、多恵子はとても愕然とした顔をしていた。それを聞いたからにはもう『先生とは呼べない』とばかりに、睫を震わせていた。

「いいよ。ここで別れても。でも、それなら余計に本当のことを言っておきたかった。このまま僕が男の欲望ひとつで貴女を触っただなんて……。貴女に対して失礼だから。絵は描いてあげられなかった。でも……」

 だがそこで、肩越しの多恵子の泣き顔が、この上ないほどに歪んだ。あの黒目から蕩々と涙が流れ、いつも淡々としていた彼女が、顔にあらゆる感情を露わにし無様なほどに唇を噛みしめている。

 あまりにも悲痛の泣き顔に、謙はおののくしかなかった。あの静かな多恵子の中に、これだけの激しい表情ができる程の……そんな。

「もう、なにも言わないで。先生」

 そこで多恵子が、聞こえるのか聞こえないのか、そんな微かな声で呟いた。『言葉にしてほしくなかった』。謙には微かにそう聞こえた

 そこで最後。多恵子に肩の手も振りほどかれ、彼女は走ると直ぐさま道路に向かって手を挙げる。すぐにタクシーが路肩に停まった。そこへ多恵子が急いで行ってしまう。

 謙も、もう追いかけなかった。だが、叫んだ。

「貴女を描きたい。いまの貴女を僕は描きたい。待っている。今度は僕がずっと待っている!」

 タクシーが開けたドア。そこに乗り込もうとしていた多恵子が、一瞬止まったように見えた。

「絵描きとして待っている。多恵子!」

 ドアが閉まる。雪で染まった車道をタクシーが行く。多恵子を乗せ。僕のモデルを乗せ。

「多恵子」

 森林の公園の日が傾く。陰りを落とした雪の杉の匂いだけが、謙を浄化するように包み込む。だけれど、もう一人。なにもかもが、謙の中から飛び去っていったような昼下がり。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 


 独りで黙々とF10の大判画用紙に、何枚もスケッチをしていた。

 先日、そんな謙の様子を見に来た藤岡氏が、そのスケッチ画を見て感嘆したのだ。『どうした、それは。いいじゃないか』。だが次に彼は、ちょっと困った顔になる。そんな彼が言った一言が。――『彼女、もうモデルに来ないのかね』だった。謙はちょっとばかり親友を睨みたくなったものだ。ついこの間までは『もう潮時だ。君たちは絵にならない』とばっさりと切り捨ててくれたくせに。だが謙はそれも突き返さず、黙々と描く。多恵子を。裸婦である彼女を。


 憑き物が取れたようだった。

 そこに彼女がいなくても、謙は彼女の裸体を描ききっていた。

 ポーズをとる彼女をざっと描く時もあれば、一つ一つ丁寧に彼女の乳房や指先を描いたり、さらに表情だけを描き出すことに夢中になった一枚もあった。

 ある時、謙は多恵子と肌を寄せ合ったあの熱いひとときを、妙に冷めた気持ちで思い返し、それでもあの時に感じ取った多恵子のなにもかもを、一つも逃さずに描くこともあった。藤岡氏が『いい』と言いだしたのは、あんなにも男女の荒れ狂う熱気で絡み合った瞬間を『艶絵』のように描かず、冷たく描き出していたからなのだろう。

 そしてその多恵子は、躍動的で美しかった。藤岡氏もそう言っていた。

「勿体ないことをしたな。早く君がこの心境になってくれていたらなあ。いや、いつも通りの三浦謙でいてくれたら、こんな遠回りなんかせず、この画風で……」

 そこまで言って、藤岡氏は口をつぐみ。暫し唸って言い直す。

「いや、今までの三浦謙でもないな、これは。でも、すとんと落ち着いてこなれている」

 画廊屋の同期生の言葉も。今の謙にはもう関係ないに等しい。


 描いていた。まるで願掛けをするように描いていた。

 吹雪く日、珍しく青空に雪景色の日、そして柔らかな牡丹雪の日。その繰り返しの中、謙はタエコだけを追い続けていた。

 彼女がこなくても。彼女がなにを考えているかなど、それすらも気にしなかった。

 あるのは、それまでの多恵子だった。


 一頃して、夕方のローカルニュースで自衛隊員が雪像を造る映像を目にした。

 そろそろ『さっぽろ雪祭り』の季節を迎えようとしている。

 だが多恵子はこなかった。

 それでも謙は信じて待っている。その間、大輔と約束していたレッスン日も彼が来ることはなかった。おそらく、母親の彼女も『モデルをやめた』とかなんとか言って来させないのだろうと、そっとしておいた。

 もし――謙の『待っている』が重荷で、彼女が思い悩んでいるのなら。それを軽くしてやらねばならない。

 二月になった頃、ひとつの多恵子を描ききり、謙は『もう、やめよう』と決した。明日、彼女に連絡をし『契約を解除』しようと。

 残念な結果になったが、謙は自業自得かと溜め息をついた。

 しかしだった。この冬一番の積雪だという、真っ白に染まった晴天の日だった。

 アトリエは光で溢れ、そして積もったばかりの眩しい雪が窓辺をいっぱいに輝かせ、そしてくっきりと清々しい冬の青空。そんな凛とした朝のことだった。

 チャイムが鳴り、謙が出るとそこには。

 開けた玄関のドア、そこには多恵子が立っている。彼女は無言だったが、微笑んではいた。謙は、彼女のころんとした黒目を見て目尻を下げる。

「待っていたよ。多恵子さん」


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 別れたはずなのに、再会した画家と裸婦モデル。

 待っていた画家と二度と来ないと決めていたモデルが再び会したなら、やるべきことはひとつしかなかった。

 アトリエに来た多恵子は、いつものソファーで、すぐに支度を始めた。

 勿論。謙は光り輝くアトリエを背に、入り口でそれを眺める。

 潔い脱ぎっぷりに戻っている多恵子に、謙は笑みが押さえきれずに、つい頬を押さえてしまいたくなる。

「新しいカンバスを特注して待っていたんだ」

「特注、ですか」

「僕一人では生地を張れない時は、工場に注文するんだ」

 訝しそうにして、最後のショーツを脱ごうとしている多恵子に謙は堂々と言う。

「最後の一枚は、勿論、大型だ」

 それを言っただけで、多恵子は驚き、しかしすぐ神妙な顔つきになった。

「わかりました。あの、暫く、一人にしていただけますか」

 もうなにかを掴んでくれたようで、在りし日の感触が戻ってきたことに、謙は喜びを隠せない。

 大型というプレッシャーを感じたのだろうが、気張ってもいけない、リラックスをして、『自分らしく』。その時間を得るには『謙』という男の空気はいらないということらしい。

 わかっていたから、謙はそっと微笑むだけで、一人アトリエに消える。


 彼女が精神統一をしている間に、謙は既にセット済みの大型カンバスに向かった。大型のカンバスは特製の大きなイーゼルにセットしなくてはならない。いつ多恵子が来てもいいように、その手間がかかる設置も既に済ませていた。

「ついに来たな。この時が」

 カウンターに揃えた絵筆、そして白を基調とした絵の具。パレットに油壺。リンシードにテレピンの油達。

 だが、謙が手に取ったのは、黒いコンテだった。それを手にすると、謙はカンバスの裏側に回った。

 繊維質で毛羽立っている麻色のそこに、謙は記す。

 ――『雪子』と書く。

 北国の彼女、すぐに溶けてしまう雪のように泡沫のような彼女。そして彼女は多恵子だなんて名前もない。三浦謙が北国で出会った一人の女性。ただそれだけ。春になったら消えてなくなるそんな人。

 だがそれを記し、謙は僅かに胸の痛みを覚え顔をしかめた。だから、より強く『雪子』となぞり直す。

 僕ももう、言葉にしたくない。してしまったら、痛いだけだから。

 『雪子』と記した瞬間は、このアトリエに居ついていた『タエコ』との決別でもあった。

 そして謙はアトリエを見渡した。

 束ねられたカンバスに、さまざまな画材や小道具をしまった段ボールが幾つも積まれている部屋を。

 ここを出る前に、雪子を描けそうで良かった。

 ひとり、ひっそりと謙は微笑む。だが次には何とも言えない気持ちで、札幌の最後の雪を見つめる自分がいた。


 

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