タエコと雪子 9

 コートを羽織り身支度を済ませ、揃って晴天の外へ出かける。

 白いロングのダウンコートを着ている多恵子の後ろ姿は、同じ白色でも初めて出会った夏の白姿とは違い、本当にありきたりだった。彼女のような年代の、子持ちの主婦の誰でもしているような、そんなに個性的ではないファッション。誰にも馬鹿にされない程度のお洒落と身なり、それ以上でもそれ以下でもない、小綺麗だが目を引く特徴はない。それでも赤いセーターに、ちょっとした手編みの風合いを感じさせる大きな網模様がある白い清楚なマフラーが、彼女なりのささやかな個性を見せているような気がした。それがなんだか、ささやかなだけに、とても尊いような愛らしいような気になってしまい、後をついていく謙は、一人ひっそりと微笑んでしまっていた。

「地下鉄に乗りますね」

「どこまで乗るのかな」

 尋ねても、多恵子はなにかの悪戯を企んでいるかのように可笑しそうにして、教えてくれない。

「そんなに遠くはありませんから」

「いいよ。どうせ描けない画家なんて暇なだけなんだから」

 思わず出た言葉に、謙は我に返る。いま何故『描けない画家』になってしまったのか。自分と多恵子と二人で作ってしまった結果がこの状況。しかし多恵子はやっぱり笑っている。それがまた謙を安心させるどころか、妙に不安にさせる。

「私も、モデルができない私なんて。ただの主婦でしかありませんよ」

「そうは言っても、主婦だって忙しいものなのだろう」

「忙しいですけど……。それだけです」

 それだけってどういう意味かと謙は不可解に顔をしかめたが、多恵子はまた多くは言わずににっこりと地下へ降りる階段を先に行ってしまう。


 お馴染みのホームには、オレンジ色の路線の電車がやってくる。多恵子に連れてこられたホームは中心街へ向かう大通駅行きではなく、郊外へ向かう電車だった。

 近くても遠くても。まあ、これはこれで気負いが無くていいな――と、謙もぼうっとしてしまう。

 すぐ隣に並んでいる多恵子は、穏やかな笑みを湛えたまま、心地よいほど無言だし。たまに一言二言、他愛もなく話せて終われる話題を振ってくれるのも心地よかった。

 地味な存在だけど、きっとこれが多恵子さんという人と共にいることなんだなと謙は感じる。

 そんな状態だから、彼女についていく内に、いつのまにか電車に乗り込んでいるし、シートに座って並んで他愛もない言葉を交わすうちに、やっと多恵子が行き先を教えてくれる。

「神宮に行きます」

「神宮って、北海道神宮」

 そうですよ、と、多恵子が笑う。

 あっという間だった。アトリエがある駅から数駅での下車。地上に上がると、真っ青な空に、この駅の街と側にある公園の森林が真っ白な雪に染まり輝いていた。

「神宮まで少し歩きますけど、いいですよね」

 冬の札幌市内。晴天の雪街を背に、多恵子が清々しく微笑んでいる。緑の森林と澄んだ空気が、いつもの多恵子を鮮やかに映しだしていた。


 北海道神宮に行くのは初めてではなかった。

 初めて札幌で迎えた正月には、藤岡氏と娘の玲美に連れられて初詣に行ったこともあるし、つい最近も会いに来てくれた息子の拓海と立ち寄ったばかりだった。

 駅から歩くと、針葉樹林が立ち並ぶ円山公園に差し掛かる。濃い緑の背が高い樹木が並ぶ公園はちょっとした森のようだった。神宮の周りにも木々に覆われた小高い山が囲んでいる。自然が身近に感じられる景色の中を大きな通りに沿って歩いていると、やがて大きな鳥居に出会う。

 鳥居の向こうは、神秘的な森林に囲まれたお宮といった独特の世界が広がっている。これがまた北国の雪の風情と相まって、なんとも味わい深い情景。

「いいね。厳かで空気が綺麗だ」

 ほっとそんなことを呟いていた。三浦謙の目が、鳥居の色、森林の色、雪の色、そして広い参道の奥に見え隠れしている神宮の厳格な色彩を筆でカンバスに収めるような感覚で眺めていた。

「どの絵の具を使おうか。今の先生、そんなことを考えていそう」

「あー、もうそこは職業柄だね」

 やはり心地よかった。自分が今なにを考えているか、そっと察してくれる人が隣にいること、見つめてくれていたことが。そして今の謙にとっては、それは多恵子という女性なんだと。

「先生が描く風景画も見てみたいですね」

 いやいや、描いたことはあるけど。なかなか描く気になれないし、どう表現していいかわからないんだよね。なんて、言おうとしている自分の口が直ぐにすぼんでしまった。

 こうして見て、やはり自分はどれだけ『裸婦』という素材の魅力に取り憑かれているかを知ってしまうのだ。

 いつだってそうだった。そんな裸婦の魅力に吸い込まれ、なのに、時に翻弄されてここまで来た。だけれど最後に様々なものに感銘感動させられても、謙の目は裸婦を肌色を追っている。

 清らかな空気の中、再認識したような気分になってしまう。

「せっかくだから、境内でお参りしていきませんか」

 彼女の誘いに、謙も頷く。

「そうだね。多恵子さんと初詣とするかな」

「今年は行かなかったのですね」

「その年その年、気分で行くからね。独り身だから気まぐれなんだよ」

「ではちょうど良かったですね」

 とりあえず『うん、そうだね』と謙も微笑み返す。

 また何の気もなさそうな顔で多恵子が先に参道を歩き出す。謙も黙って今は外へ連れ出してくれた彼女を追う。

 こんな厳かで空気が澄んでいるところに共に歩いていると、今までの時間の方が別世界に思えた。

 彼女の横に追いつき並んで歩きながら、謙は参道の空を見上げる。同じ市内であるはずなのに、神宮の空も緑も空気もくっきりとして濃く感じる。

 アトリエという小さな囲いの中、赤くどろりとした空気に渦巻かれ、いとも簡単に『罪』に捕まってしまった二人。

 なんとなく、多恵子がここに誘ったのは、その襟を正そうとしてなのか。それとも本当に意図などなく食事をしたい店がここにあるだけなのか。謙が勝手に『多恵子なりのけじめをつけたいんだ』と勘繰っているのか。それはわからない。

 だが謙だけでも、既にそんな気持ちになっていた。ここはすうっと心が清々しくなる。空気を吸い込むと濁っていた息が透明になるように思えてくる。身体中が浄化されるような感触。そして、ある女性の匂いが謙の肌から指先から抜けていくような……。だから身体がスッと軽くなったような気もするし、その匂いが消えてしまうのがとても寂しく虚しいような気にもさせられた。しかし、ここまで澄むような気持ちにさせられたからこそ『決して消えない赤い一点』があることにも気が付いてしまう。

 それが『してはいけない恋』だったこと。そしてそれが彼女であることも。

 隣にいる多恵子をそっと見る。彼女は今は微笑んでいないが、迷いのない足取りで境内に向かっていく。そんな彼女も、浄化をしようとしても、どうしても消えない一点を意識しているのだろうか。謙は推し量る。

 決して消えないとはこのことなのだろう。神を目の前にするからこそ、決して消えない消してもらえないものを、他の直ぐに浄化できたものとは違う重み含む消えない点。それはどうあっても誤魔化すことができない。

 本当の多恵子の気持ちがわからないまま、二人は細やかな砂利が敷き詰められている境内へと辿り着いた。

「お賽銭、お賽銭」

 多恵子が持っていたバッグから財布を出す。謙も同じように小銭入れを出して、賽銭を用意する。

 まだ遅れた初詣に来ている様子の人々が集まっているようだが、それでも平日、神前の境内はすっきりしている。そこへ二人で同時に賽銭を投げ入れ、定例どおり二礼二拍一礼で拝する。

 暫し無言で並ぶ二人。しかし謙はチラリと隣にいる多恵子を覗いてしまう。やはりきっちりとしている多恵子らしく、静粛な面持ちでじっと手を合わせ祈っていた。

 なにを祈っているのだろう。家族のことか、それとも僕が勘繰ったように、懺悔をしているのか。

 見入っている内に、多恵子の目が開いたので、慌てて目を閉じた謙は遅れて祈る。

「ちょっと早いお昼ですけど、お腹空きましたね。私だけでしょうか」

 すっきりした顔の多恵子。彼女の中で、それが軽くなったのなら良かったとも思うし、やはりそれを消されてしまう程のことだったのかと残念に思う複雑な心境の男がまだここにいた。

「いや、僕も久しぶりに歩いたから、お腹空いたね」

「行きましょうか」

 また微かに緑の匂いが漂う参道を二人で歩く。

 歩いている内に神宮内の駐車場に出る。その駐車場に隣接しているレストランを多恵子が指さした。

「あそこ、お豆腐屋さんのレストランなんです。入ったことありますか」

「いや、ないね。いつも目にしてはいたけど」

 初詣だと沢山の人々がレストランに入っていくし、拓海と来ても若い彼はもっと違う食べ物を好む。なので入ったことはない。

「美味しいですよ。あそこでいいですか」

「いいね」

 もう若くもない大人同士、あっさりした和食で食事を楽しめそうだった。


 


 豆腐専門店のレストランは、こぢんまりとしているが、家庭的な雰囲気があり暖かみがあった。

 テーブル数も多くはないが、平日の為、直ぐに窓際の席に座ることができた。

「このランチがおすすめ。カレーもありますよ」

「豆腐のカレー!」

 メニューを見て目を見開き驚く謙の顔を見ては、多恵子も可笑しそうだった。

「先生はお膳のランチでよろしいですか。ほとんどお豆腐で作られたメニューばかりなんですよ。そして私がカレー。取り分けて、先生も試してみてはどうでしょうか」

 アトリエでは見られなかったテキパキとしている多恵子の進行に、謙は驚かされた。

「あ、うん。それいいね、そうしよう」

「オーダー、お願いします」

 手をさっと挙げて、店員を呼び注文を告げる手際も良かった。

「お友達に教えてもらって、ママランチで来たことがあるんです」

「ママランチ?」

「息子の学校で交流があるお母さん達と集まって。どこのお母さんもそうして交流をしていると思いますよ」

 そうなんだと、謙は唸った。

 今見せられた手際は、どうやら『ママ友』として磨いてきたものなのかと思ってしまった。

「お母さんもいろいろあるんだね」

「お父さんもいろいろあると思いますよ」

「そっか」

 そこで謙はちょっと萎んだ気持ちになる。自分は世の母親の姿をとても身近に考えるようになったのは多恵子と出会ってからであり、そして父親としては既に過去のもの。こうしてアトリエを出て多恵子と向き合っていると、本当に『僕はただの絵描きなんだな』と思わされる。

 沙織もたった一人で多恵子と同じようにそうしてきたのだろうか。僕は多恵子の旦那さんのように、あんなに家族を思って駆けつけてくるだなんて……夫として父親として必死になったことがあっただろうか。ふと思い浮かんだのは、不思議とそんなことだった。多恵子のことではなく……。

 遠い海岸の波打ち際を歩いていた時もあったし、山深い里の宿で何日も逗留したり。居場所を特定しない生活をしてきた。それが楽だった。その土地である程度の関係が出来てしまうと、決まってそこで町を出た。きっと重かったのだろう。どうしたのだろうかと、謙は窓の外を見た。なんで急にこんなことを思うようになったのか。

「久しぶり。美味しそう」

 楽しそうな多恵子の声にはっとすると、いつの間にかテーブルには膳とカレーの皿が並んでいた。

「先生はこちらの膳をどうぞ。カレーも今、分けますね」

 またテキパキとしている多恵子が、直ぐにでも食事が出来るようにと手早くやってくれる。そうして夫や息子の世話をしてきたんだろうなと思わされた。

 心地よいはずだなと思った。そして、それは。窓際の外の景色を謙は仰ぐ。深緑の森林の隙間に濃い青空。多恵子の素晴らしさは、彼女の家族が育んだもので、彼等のもの。思い知った。

 打ちのめされながらも、それでも謙は背筋を正し、自分も箸を取った。

「美味しそうだね。頂きます」

「私も頂きます」

 揃って最初の一口を頬張る。

「うん。美味しい」

「優しい味ですよね」

 その通りだった。豆腐の優しい甘み、でもきちんとした食べ応え、そして微かなほろ苦さも隠れていて。

 窓には裏山の森林が見渡せた。枯れた木立が風に揺れている。風が巻き上げた粉雪がきらりきらりと青空に輝き、枝先を通り過ぎていく。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 食事を終え、多恵子が願ったとおりに、レジでは謙が財布を出した。

 会計をしていると、脇からなにかが山積みにされている。確かめると、胡麻豆腐やら豆腐を使った菓子などを多恵子が置いているのだ。

「えっと、私と先生のお土産です。美味しいんですよ。いつもは豆腐ドーナツが売り切れてしまって、なかなか出会えないけど今日はありました!」

 あの多恵子があんまりにも、あっけらかんと、そして生き生きと頼むので、最後には謙も笑ってしまっていた。

「先生、有り難うございます。この店に来たら、絶対に買って帰るものですから」

「それにしても、二人でもこんなに食べきれるのかな~」

「大丈夫。もし先生がいらないと言ったとしても、私、全部食べる自信がありますよ」

 『まさか』と笑ったが、多恵子は『本当ですよ』と真顔、もちろんふざけての真顔だったが、最後には彼女も笑っていた。

 ふうん、慣れるとこんな女性だったんだなあと、新鮮だった。しかし――。レストランを出て、変わらず晴天のままである青空を謙は見上げる。

「そうだな。もっと早くに多恵子さんと、こうして外に出ていれば良かったかもね」

 ふと、そう呟いていた。

「最後に、判官さまを食べて帰りましょう。先生」

「そうだ。神宮に来たら判官さまを食べて帰らないと」

 駐車場と参道へ向かう道の間に小さな店。道内でも全国でも有名な菓子店だ。ここに来たら、それを食べて帰る人が多い。

「平日だから空いていますね」

「うん、これは良かった」

 たいした並び方ではなく、スムーズに進む列の最後尾に二人揃って並んだ。

 暖かな焼き餅を互いの手に持って、そのまま外に出た。店の向かいは神宮の森林。深緑色の杉の葉が白い雪を乗せて、ずっしりと枝を下に向けていた。たまにサラサラとその銀粉を地表に積もっている雪の上に落としている。今日は空が青いから、その煌めきは小さなガラスの破片が軽やかに飛び散っているように見えた。

 そんな冬の美しいなりゆきを眺めながら、多恵子と凍てつく空気の中、白い息を吐きながら焼き餅を食べた。

「先生。ご馳走様でした。そして、とても楽しかったです」

 空に舞う銀雪を目で追っている多恵子が、唐突に言いだした。それを聞いた謙は、楽しかった時間から出かけた時に感じた不穏な空気の中に引き戻された。まるで、もう……。

「先生、私をモデルにと誘ってくださって有り難うございました」

 小さくなった判官さまの最後の一口を、多恵子が惜しげなく頬張る。

 そんな多恵子がやはり、なにもかもを浄化させてしまったあの笑みを見せている。

「もう脱げないということなんだね」

 言いたくないことを、謙も心を決めて口にした。案の定、多恵子が微笑んだままこっくりと頷く。勿論、謙の胸はにわかに痛み出す。男としても画家としてもショックだった。

 しかし……。こんな関係に濁してしまったのは、男であり画家である自分であった。多恵子を追いつめたのも、タエコという裸婦を台無しにしたのも。

「いままでの作品なのですが……」

 申し訳なさそうに多恵子が口を閉ざしてしまったので、『なんだい、言ってくれ』と謙は促した。

「あまりにも不完全なので、完成品として残してほしくなくて……」

「そうだね。連作として、これぞタエコというのが最後にもう一枚欲しかった。僕もあのままでは納得していないから」

 だから、世間に出すには気にはなれない。そう言えば、多恵子が戻ってきてくれるのかとも思うのだが、彼女の横顔は既に決意を固めていた。

「なかったことに……」

 そう言いながらも、多恵子がついに顔を伏せてしまう。声も息も震えていた。

 夏からの多恵子との時間がすべて無駄になり、そして裸婦などどこにも存在しなかったことになってしまったのだから。

 勇気を出して、肌からすべてを取り払い、心の中の様々な葛藤を怖れることなく見せてくれたのに。彼女にすまない気持ちでいっぱいになる。

 画家としてもこれほどの悔しくて情けないことはない。それでも。

「それでいいんだね。多恵子さんは……」

「……はい」

 まだ迷いある、でも言い切った返事を、澄んだ風が粉雪と一緒に空へ巻き上げていった。

「わかったよ」

 これは最後のお別れの散歩だったか。謙は目をつむって、唇を噛みしめる。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る