雪降る街の住人 8

 先生が玄関へ出向き、ドアを開ける。多恵子もそのまま後をついて行ってしまった。

 ドアが開くと、そこには凍えた様子の長身の青年が睨むように立っていた。

 ボーダーストライプのマフラーに顔を埋め、イマドキ風な華奢なフレームの眼鏡の向こうから覗く目。肩に付いているだろう長めの黒髪は、ひとつに束ねられていた。

「拓海、悪かったな」

「なにしていたんだよ。こんなに連絡がつかないの初めてだったからさ……」

 父を目の前にした途端、その睨んでいた眼差しが眼鏡の向こうでほんの少し和らいだ気がした。そして、口調も。父親を心配していることを仄めかす柔らかさを含み始めている。

「ちょっとな。新しい絵に集中していたものだから」

 父親のたったそれだけの言葉で、拓海という青年はほっとした顔になった。それだけでもう分かったから許すと言わんばかりの表情に和らいで。だが、彼の目線がすぐさま多恵子に向かってきた。そしてまたあの睨むような眼差しが向けられる。多恵子、一瞬の硬直。

「そちらは、」

 多恵子からは直ぐに自己紹介のような言葉が出てこなかった。こんな若い青年なのに。その目がとても鋭くて、すっかり威圧されていることに多恵子は気が付かねばならなくなる。

 だが先生はちょっと照れた顔で多恵子を紹介してくれた。

「いま描いている絵の、創作を共にしているモデルさんだよ」

「モデル? いつもの事務所からの」

 彼の訝しむ眼差しがさらに多恵子に注がれる。

「まあ、事務所に所属してもらったけれど、今回は『専属』で」

「専属――」

 その一言で、青年のさらなる厳しい目が多恵子に張り付く。上から下まで眺められた。それもあからさまに。まさしく値踏みの眼差し。しかもかなり手厳しい鑑定をされているかのような目。

「ふうん。そうなんだ。初めまして。この画家の息子です。村上拓海と言います。父がお世話になっています」

 目は相変わらずの厳しさ。でも礼儀正しい挨拶、だけど淡々と素っ気ない。形式だけの礼儀をとりあえず多恵子に見せてくれただけのような。でも多恵子はなんとか微笑み返す。

「佐藤多恵子です。先生にはいつもお世話になっております。では、先生。私はこれで……」

 どうも多恵子がいて和む空気ではなさそうだった。丁度良い。玄関前だし、このままお暇しようと多恵子はブーツを履こうとした。

「今日は有り難う。まだ風が強いようだから気をつけて帰るんだよ」

「はい。それでは……。拓海さんも。寒かったでしょう。お父様とごゆっくり」

 先生はいつもの穏やかな笑顔で手を振ってくれたのに、やはり息子の拓海は素っ気ない態度だった。

 多恵子は逃げるようにして、玄関のドアを出て行った。

 エレベーターの前に来て、静かに閉まったアトリエ宅の玄関ドアを見た。

 息子にとって、父親が母親以外の裸体を目にする。それはやはり気に入らないものなのだろうか。他人のことになって初めて、多恵子は大輔にとってなんとも大胆なことをしていた母親だったのだと思い知らされた気になった。

「村上と言っていたわね……」

 別れた奥さんに預けたままの。姓が違う息子。でもこうして父子として会っている。三浦先生のたった一人の子供。同じ美術の道を歩み始めている、同じ血筋の息子。

 それならば。父親が女性の裸とは切っても切れない仕事をしていることは、重々承知のところであるだろうと思いたいのだが。息子としての複雑な思いもあるのかも、しれない。

 でも――。あのように、父親が音信不通になって東京から駆けつけてきたところを見ると、三浦先生のことを慕ってとても心配していたんだなと、多恵子は微笑ましく思った。

 エレベータに乗り込み、一人。『そうそう。男の子ってあんなふうにぶっきらぼうな口をきくようになるのよね』と、反抗期を迎え始めている我が息子大輔を思い返しながら、多恵子はそっと笑う。

 そう思うと、あの青年が可愛らしく思えてきた。

「目は似ていなかったわね」

 でも輪郭に体型はそっくりだったと、多恵子はやっと落ち着いて父子のツーショットを思い返す。

 すらっとしたスマートな体型も似ていたし、身長も拓海の方が高かったが、ほぼ一緒だった。

 先生も若い時は、あんな青年だったのかしらと、多恵子は一人でひっそりとした想像を楽しんでいた。


 まだまだ風はあるが、雪は止んだようだった。

 そんな想像をしながら、多恵子はいつもの来た道を地下鉄駅へと向かう。

 藤岡画廊とギャラリーカフェがある通りに面した道に出ようとした時だった。

「佐藤さん、待って! 佐藤さん」

 そんな叫び声が聞こえて振り返ると、なんとあの拓海がものすごい剣幕で多恵子を追いかけてきている。思わず、多恵子はその迫力を秘めた青年が、真っ直ぐに向かってくる姿に硬直してしまった。

「ど、どうかしましたか。拓海さん」

 多恵子の目の前に来た青年になんとか問うてみたが、彼は息を切らしながらも、やっぱりあの鋭い目で多恵子を見下ろしている。さらに多恵子は身構えた。やはり尋常ではない、そして、多恵子は良く思われていないと察知してしまう。

 そして青年がなんの前触れもなく多恵子の腕を掴み上げて、叫んだ。

「あんた、やっぱり。うちの父親と関係を持っただろ。わかるんだからな!」

 『え、どうして』と、多恵子は腕を掴まれたまま目を丸くしてしまった。

 ううん。わからないでもない? 裸婦画家を父親に持つなら、側に来た女性は全て疑われても。

「ちょっと、俺に付き合って」

「え。ちょっと、拓海さん?」

 強引にその捕まえられた腕をひっぱられる。

 長身の青年が多恵子を引っ張り込んだのは、そこにあったギャラリーカフェだった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 奥まった場所にある窓際の席に、互いに向き合って座った。

 手早く珈琲を二つ、多恵子の好みも聞かないでオーダーをした青年は、落ち着きない。多恵子と目も合わせてくれない。むくれた顔で窓の外を見ている。直ぐそこに藤岡画廊が見えた。

「東京から来たばかりなのに、お父様を置いてきて良かったの。お父様、心配しているかもしれないわよ」

「札幌に来たら、いつも直ぐ、そこの画廊のおじさんに挨拶に行くから。そう言って出てきた」

 ああ、なるほど。と、多恵子は唸った。そして言葉が出てこなくなる。どうも自分から『先生とは関係ありません』なんて言っても、余計に信じてくれない気がして。彼が多恵子になにを聞きたいのか。それをひたすら待ってみた。

 やがて、拓海が外を眺めたまま、小さく呟いた。

「佐藤さん、結婚しているの」

「ええ。中学生の息子がいるわよ」

 そう言うと、拓海がとても驚いた顔で多恵子をしげしげと眺める。先程の値踏みをする目ではなく、今度は多恵子を実態として捉えようとしている目だった。

「うっそ。せいぜい小学生がいるママさんかと思った」

「あら、有り難う。ちょっとでも若く見られると嬉しい」

 なんて、若い男の子にそう言われ、多恵子もつい頬をほころばせてしまったのだが。

「でも本当に――。あの絵は佐藤さんなの? いや、でもよく見ると目とかがやっぱり佐藤さんぽかったよなあ」

 今度は多恵子の目を覗き込む青年。しかも彼はどうやらあの絵をアトリエで早速見てくれたようで、藤岡氏と同じような反応を見せているではないか。

「うちの父親の目の前で、あんなポーズを」

 それを言われると多恵子は、紅くなるばかり。あれは自分であって、普段の自分とはとてもかけ離れたところに潜んでいるが故に、そう真っ正面に突きつけられるとやっぱり恥ずかしい。まだ慣れていなかった。

「そうですけれど。それが……なにか?」

「その時に、親父さんと寝ただろ。俺、わかるんだ」

 それが若さというものなのかと、多恵子は少しばかり溜め息をこぼした。あのポーズが刺激的であるのは多恵子も否定しない。あんなポーズを目の前にして、男が飛びつかないわけがない。青年期の彼なら余計に勘ぐるかもしれない。でもここは、きちんと言っておかねばならないだろうと、多恵子は先生の父親としての名誉の為にも腹をくくり、拓海に向かった。

「そんなことは一切ありません。先生はモデルとは一線をきっちり引く画家だと藤岡さんからも聞いていますし、まさにその通りですよ。だから私も夫がある身でも、あれだけの思いきったポーズがとれたのよ。それに所属しているモデル事務所でも、モデルに対してとても厳しい画家であることは有名で……」

「そんなの息子の俺が、あんたなんかより、ずっと良く知っている」

 それらしい大人口調で言い返す多恵子が気に入らなかったのもあったようだが、拓海はまるで確固たる証を息子として握っているかのような口振りで、テーブルを手のひらで叩いた。だから多恵子の口も止まる。だがここで違和感。『父親が裸婦モデルとは厳しい一線を引く』と息子として解っているなら、何故、多恵子を疑うのかと。聞き間違いかと思ったが、だが拓海はさらに念を押すように言い切った。

「うちの親父さんは、裸婦モデルとは寝ない。そんなこと、俺がガキの頃から有名な話だよ。何故だかわからないだろう。ほんの数ヶ月、モデルの仕事だけでしか付き合っていないあんたには」

 拓海が話し始めた内容に、多恵子の心がドキリと固まる。そう言われると、多恵子など、息子の拓海が知り得る『三浦謙画伯』のことをどれだけ知っているかなど、まだまだ日が浅いヒヨッコみたいなものになるのだろう。だから多恵子は素直に、衝動のままに拓海に聞き返す。

「先生。そんな若い頃から、モデルとは厳しい一線を……?」

「そう。うちの母と別れてからな」

 その一言も、多恵子に衝撃を与えた。何故かはすぐにわからなかった。でも、なんとなくの予感が走った。

 そしてついに拓海が教えてくれる。何故、多恵子と先生の仲を疑うのかを――。

「あのポーズの絵。ポーズがと言うより、あんな親父さんのタッチ……。俺の母親をモデルにしていた時のタッチに似ていたから……」

 母親をモデル。つまり妻をモデルにして描いていた。それにも多恵子はどうしてか心を急速に揺り動かされていた。

「俺がまだ物心付いたばかりの頃から、父は母だけをモデルにして絵を描いていたんだ」

「そ、そうだったの」

「二人で、一生、絵描きとモデルのパートナーでいようと誓い合っていたんだってさ。その頃の、親父さんのタッチ、つまり俺の母親だけを描いていた頃のタッチにそっくりだったから……」

 それも多恵子に驚くしかなかった。つまり、あのポーズの向こうに、先生は多恵子ではなく、別れた妻を重ねていたのかと? 何故あの絵だけタッチが違うのか。その時、多恵子の脳裏に藤岡氏の言葉が過ぎった。『懐かしいタッチ。左右される作品になるかもしれない』と。何故、左右されるか多恵子には解らなかった。しかしそれを、目の前で苦しそうに何かに堪えている拓海が、振り絞るように多恵子に伝える。

「父が母ばかり描いた絵は、最初の頃はともかく、年月が経つほどに評価を落として――。最後には『駄作』とまで言われるようになって」

「先生の作品が、駄作!」

 さらに多恵子を襲う打撃。今度は流石の多恵子も、認めたくない聞きたくない話で、おもわず口を覆ってしまった。ただ目を見開いて固まっている多恵子に、今度の拓海は攻撃的ではなく、まるでやっと聞いてくれる人が現れたとばかりに、泣きそうな顔で懇々と語ってくれた。

「その頃のタッチに似ていたから。母だけを信じて描いていた『駄作』の烙印を押されたあの母の絵と、タッチが似ていたから……。だから俺、貴女がうちの母親程に父が愛している女性なんだと直感してしまって……」

 でも、本当は違っているのかもと、ようやっと青年も気持ちが落ち着いてきたのか、いつのまにか多恵子に詫びている姿。

「拓海さん、もういいから。謝らないで――。そう聞いたら、私も納得できたから」

 多恵子に受け止めてもらえた拓海は、さらに安心感を得たようにして、今度は落ち着いた口振りで続けてくれる。

「確かに。美大生になった俺から見ても、父が広島に残した母の絵はちょっと風変わりだなと思う程のものなんだよな。画壇の判断も評価もうなずけるような。でも母はそれを大事に保管している。どんなに駄作の烙印を押されても、パパが描いた絵だからと――。そんなあの頃の情熱的なタッチ。父は母と別れた後に封印をしてしまったようで、今の作風になったんだとか。それでのし上がってきたから、もうあのタッチも作風も二度とないだろうと、どの大人からも聞かされてきたものだから」

 もう多恵子は絶句するしかなかった。それが紛れもない先生の過去。知らなかった……。

 そしてそんな時、多恵子は何度も引き裂かれたカンバスを懸命に思い返していた。もしかして先生は、あのタッチに至るまでにとても苦しんでいたのではないか。切り裂かれたカンバスの絵を多恵子はよく見ていなかった。今、見ておけば良かったと後悔している。もしかするとその中に、多恵子が知っている、今の三浦謙らしいタッチの『偶然の婦人』があったのかもしれない。だけど、先生はそれが気に入らなかった? でも封印したタッチがどうしても抑えられなかった?

「そんな父がまた、母の絵ほどではないけれど、それを思わすタッチを使いたがるほど……貴女を気に入っていると思ったから。それにあのポーズ。父は母にはあんなポーズはさせなかった」

「え、どうして……かしら。奥様だからこそ遠慮なく大胆なポーズを指示したり、旦那さんの目の前だからこそ大胆になれたのではないかしら。画家とモデル以上にもっと密なる熱さを表現できたと思うのだけれど」

 すると拓海が唇を噛む。急に黙り込んでしまった。それを言いたそうで、言えないといったふうで。それほどに言葉にするのが苦しいことらしい。

「ごめんなさい。わかったふうに言ってしまったかも知れないわ」

「いいや。その通りなんだけれど。そこが、親父さんの変わった作風の、ズレてしまったところと言うべきか……」

 そうこぼしたところで、また拓海が黙り込む。今度はどうしたことか、ちょっと恥ずかしそうだった。

「聞いても良い? どんな作風だったのか」

 多恵子の胸がドキドキしている。何も知らなかった知ろうともしなかった先生の、男としての匂いや生活の色が徐々にゆっくりと滲み出る。思わぬ過去に、思わぬ姿ばかり。多恵子には衝撃の連続。そしてその『駄作』とまで言われた作風を怖いが知りたい衝動にも突き動かされていた。

 いつの間にか、二人の手元には白い珈琲カップ。それに拓海がとりあえず、砂糖を入れフレッシュミルクを注ぐ。スプーンでかき混ぜている時に、やっと口を開いてくれる。

「藤岡のおじさんは『あの頃の謙の作品は究極のファンタジック』だって、いつも言うかな」

 ファンタジック? そんな画風だってあるだろうと思った多恵子は首を捻った。

「そんな作風だって素敵だと思うけれど。奥様をファンタジックに描くだなんて」

「いや、雰囲気じゃなくて。ダイレクトにファンタジックという意味。たぶん佐藤さんもあの絵を見たら、ちょっと親父を見る目が変わっちゃうかもな」

「変わっちゃうって。そんなに今の先生とは違うものなの」

 そして何故か拓海は徐々に恥ずかしそうに頬を染めるばかりで、俯いてしまった。


 

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