雪降る街の住人 7

 食べ終わった食器を洗い終わり、多恵子は紅茶を煎れていた。

 キッチンでカップを揃えている横で、先生はただ隣で腕を組んで、そんな多恵子の動作をじっと見つめているだけ。

 スケッチをしている時と同じ目で見ているので、多恵子は思わず緊張してしまう。『なにを観察しているのですか』と口を開き書けた時、まるでそれを悟ったように先生はそこから離れてしまう。

 いったい何を考えていたのかしらと、首を傾げながら紅茶を煎れていると、また先生が多恵子の隣に戻ってきた。今度は本当にスケッチブックとコンテを持って。勿論、そのまま多恵子を眺めていた目で、すらすらと描き始めている。『精根尽き果てた』と言いながらも、そうして常に描くことを考えている。やはり描く人なのだなと感心したいところだが。

「あの、先生」

「そのまま、気にしないで。描かせてくれないか」

 モデルではないポーズを取っている時でない、そんな瞬間まで逐一目で追われるのは、かえって意識してしまう。

「自然に。そんな固くならないで」

 見抜かれて、多恵子は戸惑った。

「そうは言いましても――」

 出来上がった紅茶をティーカップに注ぐ手も、三浦先生はあの画家の目で追っている。

「指先、ですか」

「うん。多恵子さんの仕草」

 何故、仕草を追っているのだろうと、多恵子は訝しむばかり。

「紅茶、飲みませんか」

 コンテを紙の上に走らせながら、先生は『うん』と素っ気ない返事。まるで上の空の旦那さんに返答された気分だった。

 トレイにティーカップとポットを乗せて、片づけたテーブルへ行く。その後を、スケッチをしながら先生がついてくる。それを気にしながら、多恵子は元の席に着く。先生もスケッチブックを手にしたまま、いつも通り向かい側に座った。

 カップを互いの目の前に置き、さて多恵子も一息、紅茶でくつろごうと思うのだが、まさかカップを持つ仕草まで観察されるのかと思うと落ち着かず、そこで指先が止まった。

「先生」

 少しばかり抗議を含めた強い口調をさしむけていた。

「ああ、悪い。つい……」

 やっとスケッチブックとコンテを手放し、先生もティーカップを手にしてくれ多恵子もほっとした。自分もやっと手に持ち、香りよい紅茶をひとくち。気持ちが落ち着いた。

「なんですか突然。スケッチならモデルの時に」

「そうなんだけれどね。当分は、裸婦モデルの時もスケッチで行こうと思うんだ」

 今後の予定が出てきたので、多恵子は動きを止めた。

「それは……。暫くは新作にはかからないということですか」

「うん。続けて描きすぎた。このまま描くと、どこかに偏りそうだ。実際に偏っている」

 偏っているとはどういうことかと、多恵子は思わず、自分の裸体が収められたカンバスが置かれているアトリエ部屋へと目線が行く。ちらとみえるイーゼルにはそれこそ先生が精魂つぶけていた偶然の婦人。向こう側の壁際には、いかにも多恵子らしい『日常』。そしてここからは見えないが、窓際には悠然としたガウンの母がいる。それを思い浮かべていると先生が言った。

「主婦、母、女性。それに囚われない女性像を描きたいと探りたいと、制作始めに多恵子さんにも言ったと思うのだけれど」

「ええ。探り当てたいと先生、仰っていましたよね」

 そんなことを話したと、多恵子も思い出していた。だが結局……。多恵子の脳裏に浮かんだそのままを先生が言いだす。

「結局、そんな女性の在り方のような、女性が必ず持っている一面。それを一面ずつ踏まえて描いてしまったんだなと振り返っていたんだ」

「そうですね。私も今、三作を見て、そう感じていたところです」

 同じ思いだった。それに囚われず――だったはずなのに、結局、多恵子のその一面一面を拾わずには来られなかったのだと。そして多恵子自身もそんな自分の一面一面に向き合ってきて、ようやっと『今日の心境』になれたと言うべきか。どれを外しても、今の心境にはなれなかったと思っている。

「次は、本当の多恵子さんを描きたい」

 画伯のその一言、瞬時に多恵子を捕らえた。

 しかし多恵子はその一言が聞こえなかったかのように、持っていたティーカップを口元に寄せ、一口。

「わかりました。その心積もりで私もいます」

 返事をすると、一瞬だけ、先生が多恵子の目をじっと見つめていたのだが。

「頼むよ。スケッチの日々が暫く続くだろう。でもその間、ポーズや表現は多恵子さん自身に任せてみようと思っているんだ。まずはそこからスケッチを再開しようか」

「いいのですか。私からの表現で」

「勿論、最低限の指示はするよ。絵画的な指示ね。後は思うように僕に見せてくれないか」

 何故か多恵子は、ふっと勝ち誇ったように微笑みたくなった。自分が今思っていること、それを叶えてくれる心境を画伯も多恵子同様に持っていることを知ったからだ。

「わかりました。そのテンションへ気持ちを整えておきますね」

「なんか。モデルらしくなってきたね。しかも、ただの素描モデルにやってくる雇われモデルの顔じゃなくなっている」

 またスケッチブックを手にした先生が、ちょっと感慨深そうに呟く。そして多恵子はまた、ひとり笑みを浮かべる。

「先生のおかげです」

「どうかな。モデルに振り回されるのは――」

 ――初めてだ。と言ってくれるのかと思ったのに。先生はそこで言葉を止め、黙ってしまった。

「もう振り回されないよ。僕も心積もりを整えておこう」

 どうやら向かうところが、変に懇々と話し合わずとも通じているように一緒だったと知って、多恵子はやっと喜びの微笑みを浮かべていた。

 こう描いて欲しい。こんな自分を表現したい。言葉じゃなくても、この先生なら、多恵子が思うポーズを取っただけで通じてくれそうだ。そんな心地よさを多恵子は感じていた。

 そして多恵子は思う。多恵子が今、自身で望んでいる創作がそのまま叶うなら――。きっと、次の作品が最後になるだろうと。

 目の前では、また先生がスケッチを始めている。ティーカップを傾ける多恵子を書き留めているようだった。そして何故か。多恵子も気にならなくなった。

 もう始まっているとのだと、多恵子は感じていた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 部屋も綺麗に整い、食事も済ませ、その後のお茶でだいぶ落ち着いた。

 いつもの、多恵子が馴染んでいた三浦画伯のアトリエにようやっと戻っていた。

「冬休みや、年末年始はどうしようか」

「クリスマスはもう、大輔も大きくなりましたので関係ありません。ただちょっと午後は早めに帰りたいです。年末年始は無理ですね。主人の正月休みが明ける頃……」

 正月明けの何日からならアトリエに出てこられると、多恵子は返答する。

 三浦先生は黒い皮手帳を、多恵子はオレンジ色の薄い手帳を手にして二人でこれからのスケジュール調整を始めていた。

「では、そうしようか」

 と、先生は淡々と年の瀬年明けのスケジュールを手帳に書き記していた。そんな先生を見て多恵子はふと思う。『先生のお正月はどのようなものなのか』と。独り身。広島の別れた妻の話など一切出てこない。毎年、一人で過ごしているとしか思えなかった。まあ、たぶん。札幌にいる限りは、あの藤岡氏のご自宅に身を寄せているのだろうなとは思うのだが。

 ――『孤独』。そんな言葉がふと頭に浮かんだ。

「では明後日から、スケッチを再開しよう。それからね。多恵子さん。……多恵子さん? 聞いているのかな」

「あ、ああ、はい。明後日から再開ですね。まずは午前に」

 はっと我に返る多恵子。少しばかり三浦先生という男性について考えてしまっていたようだ。

 目の前の先生は不思議そうに多恵子を見たが、すぐに手帳へと視線を戻してくれた。

「大輔君のことなんだけれどね。その、ご主人とは、その後……」

 今度は先生の口が歯切れ悪くなる。だが多恵子は『ああ、忘れていた』と思い出し、先生に報告をする。

「はい。やはり、多少いざこざありましたけれど。主人は裸婦モデルとして通うこと、承知してくれました」

 すると先生の『まさか』と言わんばかりの、とても驚いた顔。

「そ、そうなんだ。いや、まあ、そうだよね。貴女があれだけ良い雰囲気を漂わせて変わったのだから……。ああ、そうか。それも、そういうことで、ああ、なるほど」

 なんて、言葉にならない様子。驚きながらも、多恵子の雰囲気が変わったなにもかもが、夫との疎通であることを知って納得してくれたようだった。多恵子もなんとなく気恥ずかしく、耳がきゅっと熱くなるのを感じていた。きっと頬もまた紅いのだろうなと。

「そうかあ。多恵子さんが言っていたとおりだったわけだ。それが『夫妻』なのかな。……そうか、それが『夫妻』なんだね」

 納得しながらも、徐々に先生の顔が憂う皺を刻んだかのようにしぼむ。急にそう見えてしまい、多恵子は目をこすりたくなった。

「それなら、心おきなく貴女を描ける。そして、大輔君もここに呼べるね」

「大輔を――」

 そこはやっといつもの穏やかな笑顔に戻ってくれた先生が、楽しそうに告げてくれる。

「ああ。ビーナス像、藤岡に頼んでおいたから。どうだろう。契約の間ということで、大輔君に基礎だけの手ほどきをしても良いよ」

「本当ですか。で、でも……そこまでは……」

 画家から直接に息子が指導を受けられると知って母としては嬉しい。しかしながら、やはり先生と多恵子は『描き手とモデル』であるべきではないかとも思う。それ以上の付き合いはない方が良いのではと、あの後の反省を含めて、そう思っていた。

「どうせ、暫くはスケッチに徹するんだ。ある日突然、また一人のめり込むかもしれないけど、そうでない限りは――」

 先生が再び手帳を眺め、ボールペンの先で日付を追っていた。

「お母さんさえよければ、モデルの日以外にもう一日追加。冬休みの間は毎週、学校が始まったら隔週。午後が良いね。なるべくお母さんの付き添いもあって、がいいかな」

「そんなに見てくださるのですか」

「いや。大輔君さえ良ければだよ。学習塾もあるだろうし、冬休みだから友達とも遊ぶだろうし、部活もあるのかな。そして、あんまり張り切ってもね。僕としてはそれだけ予定は入れられるということで、後は親子でよく話し合って。もちろん、ご主人の許可が出ることも最低条件。ああ、もう一つ。その時のお母さんは絶対に着衣。この前のようなことがあったら、レッスンは即解約だ。いいね」

 思わぬ好条件に、多恵子は二つ返事。今度は『着衣を守ります』と断言し、喜びをその顔に露わにしてしまう。すると目の前の先生が、滲むような眼差しで微笑ましそうな顔。

「お母さんとしての喜びは、本当に女性にとっては最大の物なのか。……貴女を見ているとそう思うよ」

「そんな。私だけではありませんよ」

「だろうね」

目の前の先生が、途端に黙り込んでしまう。ずっとどこともわからない一点を見据え、黙っているのだ。急な静けさに、多恵子は暫し先生の様子を見ていたが、突然なにかが先生を捕らえたまま離さなくなってしまったのか。先生はずうっとそうして固まっていた。

「最近、思うんだよね。子を産む、育てる。当たり前なのに、沢山の女性がそうしているのに。それさえも『ありきたり』にされて見過ごされていることが多いのだろうかと。でも、」

 いきなりどうしてしまったのだろうと思った。多恵子を見ていない目。そしてこのアトリエの外に心が飛んでいってしまったかのように、先生は遠くを見ていた。まるで、何かを思い出しているようだった。

「別れた妻も、たった一人で子育てをしてきたのかと。その間、僕は……」

 多恵子の胸が大きく動いた。どくりと。唐突に出てきた先生の『別れた奥さん』。そんな一人の女性のことを考えている先生の顔を初めて見た気がした。しかも先生の私生活の。

 多恵子を見て、先生は忘れたはずの妻を思い出しているのか。しかも夫妻として破綻してしまい、その後、見守ってやることも出来なかった時間を、初めて思いやっているような顔だと思った。

 だが先生がハッとした顔をして、多恵子の目の前にその黒い目を戻してきた。

「なんだか、変なことを言っていたね」

「い、いいえ」

 と言ってみたのもの、多恵子もかなり狼狽えた返答をしていると自分で動揺してしまった。

「それなら、冬休みになってから大輔君のレッスンを始めよう。いつからかな」

 そのくせ、先生は直ぐさま元の話題に戻ってしまった。自分で呟いておきながら、それがなかったかのように。まるで勝手に出てきた一言を、他意もなく自然に多恵子に漏らしただけ。単なる独り言。でも多恵子には、なんだか小さな石を心に投げかけられたような気持ちになっていた。ぽんと入ってきた小石は、小さいくせに割と重みがあり、じんわりとその波紋を広げていく……。そんなじわじわとした感触。

「多恵子さん? 冬休みはいつからかと聞いているんだけれどね」

 多恵子も慌てて手帳に視線を戻した。息子の冬休みが始まる日を探し、先生に告げる。

「北国は冬休みが長いんだね。そうか、そうか。これならちょっとした集中レッスンが出来そうだ」

 うんうんと、満足そうに頷いている先生。思ったよりも楽しみにしていることが窺えて、頼ってしまう多恵子としては有り難い上に、ほっと安心する。

 でも、先生の何気ない一言が、先生にとってどのようなものだったのか。多恵子の頭から離れてくれなかった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「それでは、明後日にまた来ます」

「今日はすまなかったね。しかもご馳走様」


 すっかり長居をしてしまい、スケジュール調整を終えると、午後も過ぎかなりの時間が経っていた。もう空が薄暗い。

 多恵子は慌ててマフラーをして、ダウンコートを羽織る。そんな帰り支度をする多恵子を、三浦先生がまたじっと眺めている。

 スケッチブックはない。ただそこに立って多恵子を見ている。その目がどこか、先程の仕草を追いながらスケッチをしていた目と違う気がした。でも多恵子は気にしないようにしようと決め、身支度を終える。

「お疲れ様でした」

 だが先生からの返答はない。まだ多恵子を見ている。

「先生」

 声をかけても、先生はわざと返答しないことを分かっている顔つきで、まだ多恵子を見ている。

 堪えきれなくなり、そっと先生から顔を逸らすと、やっと言葉が返ってきた。

「次が楽しみだよ。脱いだら、モデルの顔になったら、きっと多恵子さんは変わっているだろう」

 笑みなき、真顔。多恵子を見つめる目が、微かに何かの切望を含んだような目に見えた。その上、今日ここに来た時に見てしまった裸婦画にのめり込んでいた時の黒目になって、そこだけ大きく膨らんで光っているようだった。今までの多恵子なら怯んでいたかもしれない。でも多恵子は微笑む。

「私も、今の自分がどうなっているか楽しみです」

「この前のようにスタイリッシュなお洒落で女らしく着飾っても、そうして今日のような普段着でも。もうどのような服装でここにやって来ようが、どれも意味がなさそうだ」

 ほら。この先生はもう、解っているのだわ。と、多恵子は少しばかりおおのいた。でもそうでなくては多恵子も思うところに行けない気がする。

「私もそう思います」

「だとして……。いや、次回のアトリエで見させてもらうよ。存分に」

 『存分に』。妙に強めて言い放ったように、多恵子には聞こえた。何が存分なのか。多恵子にはなんとなく解る。

 そして先生が何が存分なのか、故意に多恵子を試していることも。

 試されて、多恵子はそっと目を閉じ、マフラーで口元を隠した。

 そのまま返答しない多恵子を、三浦先生も無言で見ているだけだった。

 なんとなく通じている手応えがとても強すぎる。でも敢えてそれを確かめ合わない。そしてこれももう始まっている。

「お疲れ様、多恵子さん」

 やっと先生が多恵子を解放するように、玄関へと送り出そうとしてくれていた。

 バッグを手にして、先生と共にリビングを出ようとした時だった。ドアのすぐ傍の壁に設置されているインターホンが来客を報せるチャイムを鳴らした。ドアを出て行こうとした先生が『藤岡か』と呟きながら、インターホンの受話器を手にした。それを手にしたと同時に、備え付けの画面に人影が。それを見て、先生の息づかいが止まったことに多恵子は気が付いた。

 先生の顔を見上げると、とても驚いた顔をしている。いったい誰が来たのかと多恵子もモノクロの画面を確かめてみる。そこには黒いコートを着ている青年が寒さに耐えるように一人。その青年に向かって、先生がやっと気を取り戻したかのように呟いた。

「拓海」

 『たくみ?』と、多恵子は首を傾げる。

『なんで連絡がつかないんだよ。一ヶ月近く連絡なしで、しかも携帯が音信不通ってアリかよ?』

 寒さに震えながらの声がインターホンを通じて聞こえてきた。つっけんどんな青年の生意気な言い方。でもそれで多恵子は誰か解ってしまう。

「このとおり、元気にやっているがね。どうして来たんだ。まだ冬休みではないだろう」

『最近は、老人でなくても孤独死とか良く聞くだろ。こんな住み慣れていない北国で、絵描きがアトリエで孤独死。しかも凍死なんて、そんな死に方で画壇を騒がせやしないか。噂の的にならないよう俺の為に確認しに来たんだよ!』

 すごい言い方! と、多恵子は目を見開いて唖然とさせられた。それは隣の先生も同じようで、インターホン画面を見て何も言い返せない様子だった。

「わ、わかった。よくわかった。いま開けるから待っていなさい」

 そして先生が溜め息をこぼしながら、インターホンの受話器を置く。それと同時に、多恵子の予想のままに教えてくれた。

「初っぱなから、あんな生意気なところを見せてしまって申し訳ない。僕の息子なんですよ」

 やっぱり――と、思いつつも。でも物腰柔らかい絵描き先生の息子には見えなくて、多恵子の開いた口は塞がらなかった。


 

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