5章 雪降る街の住人

雪降る街の住人 1

 北の都市が真っ白に光る朝。

 うっすらだが、昨夜の粉雪がほんの少しだけ降り積もったのだ。

 氷点下の朝で今はまだ今年初めの美しい銀世界を見せてくれているが、昼にプラスの気温になればもう溶けてしまう。そんな儚く柔らかな積雪。


 佐藤家のリビングは、そんな白銀混じりの眩い光に彩られていた。


「いってきます」

「いってらっしゃい」

「あ、今日は母さんがいる日だよね」

「……うん。いるわ」

 制服姿の息子が出かけていく。今日は昨日のように遅くは帰らない。それを知ってか、ほんの少しの無邪気な笑みを見せ大輔は玄関へと駆けていく。

 生意気な中学生になっていたが、そんな顔を垣間見ると、『ママ、ママ』と離れてくれなかった可愛らしい時期を思い出してしまい、母はちょっぴり幸せな気分になってしまうのだ。

 息子が食べ終えた朝食の食器を片づけ、多恵子はまだまだ続く朝の家事をこなす。

 だが、その皿をシンクに置いた時、ふとした溜め息がこぼれた。

(今日から、失業ね)

 そうと決まったわけではないが、三浦先生が言った『暫くは――』の期間がまったく予想出来ない。画家の感覚が分からないから、そうされると本当に従うしかない。本当にただ待ちぼうけの日々ということになる。アトリエに通っている間は、本番中は気力を使うが、それでも通っている感覚は『パートと同じ』だった。週に二、三日。だいたい午前中か午後の早いうちに三時間。時間的には申し分ない仕事だった。それが今日からないと言うことは、こうして家にいると言うこと。

 なんて考えている自分に、多恵子ははたと我に返る。そんなアトリエ通いのことではなく、今一番に心配しなくてはいけないことがあるではないかと。

「おはよう……」

 それと同時に、まだまだ眠そうな充がワイシャツ姿で食卓に現れた。

「おはよう。ミチ」

 大輔がいない時は『ミチ』と呼んでいる。時々未だにパパと言ってしまうことも。なるべく『お父さん』と言うようにしている。

「大輔は行ったのか」

「うん。ついさっき」

 それを知って、充は疲れ果てたように自分の椅子に座った。

「珈琲だけでいいや」

 多恵子も頷き、無言で準備を始める。でも、手を動かしながら彼に言う。

「ミチ。昨夜はごめんなさい」

「……うん」

 元気のない返事。無理もないかと多恵子も俯いてしまう。

 あれから多恵子は夫に全てを打ち明けた。本当の雇い主は『三浦謙画伯』であること、大輔をアトリエに連れて行き美術の進路について相談したことなど、全て洗いざらい告白した。

 彼は多恵子を責めることも、問いつめることもせず、ただただ溜め息ばかりをこぼして横になっただけ。なかなか眠れなかったようだ。それは隣にいた多恵子も同じ。

 密着していた肌は離れ、夫妻の身体と身体の間には隙間が出来た。そして会話も途絶えた。充の隠そうとしているのに隠しきれない溜め息と、そして多恵子の息を殺した呼吸。やがて充がベッドを降り寝室を出て行く。彼の書斎のような部屋に籠もってしまったようだ。その間、多恵子は少しだけ眠れたようだが、それでもすぐに目が覚めた。隣にはもう充は戻ってこなかった。だが、明け方に、また溜め息混じりに横になった彼を見た。少しはまどろんだようなので、多恵子もつられるように明け方にうとうと。そんな一晩。

 出来上がった珈琲を、いつものカップに入れ、多恵子は充の前に置いた。

「あのね、ミチ」

 なにもかもが言い訳になるだろうと、また多恵子の口は固くなる。昨夜あんなに青臭いことを素直になって言えたのに。

 珈琲を一口飲んでいる充の目元は浅黒かった。多恵子の胸が痛むのだが――。

「三浦謙、だっけ」

 ふいに呟いてくれた充に、多恵子はすかさず頷いた。

「昨夜、ネットで調べた。詳しくは分からなかったけれど、でもちゃんとした画家だってことは分かった」

 多恵子も『そうよ、そうなのよ』と言いたいが、なんだか夫以外の男性を持ち上げるような気持ちになってしまい、そのままこくりこくりと無言で頷いた。

「今、札幌にいるんだ」

「ええ。二年前からだそうよ。お世話になっている画廊店のご主人と美大の同期生とかで――」

「その画廊に手伝いに行っている、と言うことにしておいたってわけか」

 妻の嘘を責め立てるような強さが僅かに、充の口調に秘められていた。そして充の片手が拳になる。彼の目は妻でなく、白銀に光るマンションの駐車場を睨んでいた。

「嘘をついて……でも私、必ず言うつもりだったの。でも最初からは言えなかったの」

「最初に言われていたら、絶対に反対したし行かせなかったに決まっているだろ!」

 初めて夫が声を荒げた。そして覚悟をしていた多恵子だが、男の怒声に身体を硬直させた。夫が燃える目で妻を睨んでいる。

 だが、それまでだった。充は顔をしかめただけで、すぐに手元のカップを傾け、珈琲を飲み干した。そんな自分を自分で諫めるが如く。カップが空になると、白ワイシャツ姿の充が立ち上がる。

「そのアトリエの連絡先、俺にくれ」

 隠し事をしていた妻には決して口答えをさせまい。そんな命令するような充。勿論、多恵子も逆らう気はなく、側に置いてあるバッグから手帳を取り出した。そしてあの夏の日に、三浦先生から握らされた名刺そのものを充に差し出していた。

「アトリエに固定電話はないの。先生の携帯電話番号。それから画廊の住所。アトリエはそこからすぐ側のマンションだから」

「わかった」

 妻が隠し持っていた『見知らぬ男の連絡先』。それを今度の所持者は『夫の俺だ』とばかりに、充は少しも躊躇わずに多恵子の手先からそれを取り去る。そしてそのままワイシャツの胸ポケットに入れてしまった。

 ネクタイを締め、黒いジャケットを羽織り、黒いハーフコートで出勤の見繕いを終えた充。彼が玄関で革靴を履く。多恵子も見送る為にそこに立っていた。

「今度のモデルはいつ」

 多恵子には『今度はいつ、俺が見えないところで裸になるのだ』と言われているように聞こえてしまった。

「それが……」

 口ごもった多恵子を、充がやっといつもの彼の顔で見てくれていた。

「どうした」

「先生、暫く、私にはこなくて良いって」

「どうして」

「昨日。私がモデルをした絵に集中するんじゃないかしら」

「どんな絵なんだよ」

 多恵子はさらに口ごもる。だけれど、昨日の『女』の自分。それを一番知っているのは三浦画伯の他には――。

「昨夜、ミチが抱いた私そのものよ」

 『なんだって』と充の表情が一変した。『お前。まさか、画伯と寝て、淫らになった姿を描かせたのか』――そう言いたそうな顔だと、多恵子も直感する。

「ち、違うのよ。そういう意味じゃなくて」

 すかさず繕う様は益々怪しまれそうだが、しかし、どうしたことか充はそれ以上は責めてこない。口にしたくても口にしない分、まだ妻を信じてくれているのだろう。

 だから多恵子も、昨夜のように言いたいことは言い切ろうと思い口を開く。

「わ、私が昨夜。ミチとあんなふうになったのは、私自身の気持ちがいつも以上に強くそうなったからで……。それを先生が目にして……描いてみようとスケッチして、それで、それを絵にしたいから暫くは……」

 もう自分でも上手く説明が出来なくて、多恵子はしどろもどろ。それでも、もう夫には心配させたくないから、とにかく出てきたことを口にした。

 だから充は途方に暮れた顔をしていた。それでもやがて、彼の顔はまた不信感いっぱいの堅い顔に。

「あんなすごい多恵を見せたのかよ。あんな……あんな……」

 昨夜のあんな淫らな……。エロチックで悩ましいことをしたのかと言いたくて言えない充の葛藤が伝わってくる。多恵子も充に絡みつくように荒れ狂った女の自分を振り返り、頬を染める。だけれど、そうではない。それは誤解だと、今度は多恵子の腹に力が入る。

「な、なに言っているよ。ベッドでミチと抱き合うのと、アトリエでするポーズはまったく形が違うのよ! でもそれに相当するものをポーズにしてムードを作って画家に描かせるのがモデルの仕事なの!」

 今度は自分が声を荒げていた。ここは譲れないとばかりに。目の前の充も面食らった顔をしている。いつの間にか二人の間には静かな朝の音だけが。

「たった一人の男性にいつまでも愛されたい。ただ空気のように流されて終わってしまう女でいたくない。私の魅力はどこにあるのか知りたい。その人は知ってくれているのかしら……。私の今の欲求。そんな絵よ。先生がそんな私を知って描いてくれたの。ベッドでの私を知っているのはミチだけ。先生は、ただ……その傍観者としているだけで……」

 でも、くすぶっていた私を上手く引き出して見届けてくれた男性。

 そこは言えなかった。そして充も何も言い返してこなくなった。

「まあ、いいや」

 鞄を手にして、充が玄関のドアノブを握る。ドアが開こうとするその時、彼が振り向かずに言った。

「俺、夫としてそんなに馬鹿じゃないと思っている。昨夜のお前の身体も心もとても俺以外とどうこうしているとは思えなかったから」

「ミチ。私も、昨夜は……」

 貴方、とても素敵だった。流石に朝日の明るさの中では言えなかった。でも振り向かない充の俯いた横顔が照れているのが分かった。

「帰ったら、ゆっくり話そう」

 それだけ呟くと、充はもう背筋を伸ばして玄関を出て行った。

「いってらっしゃい」

 笑顔にはなれず、心苦しいままに、でも心を込めて夫の背を見送った。


 一人きりになり、多恵子は深い溜め息を吐いた。


 途端の脱力感――。


 家事を終えたら、少し眠ろうと思った。

 なにもかもがいっぺんに襲ってきた。

 どうせ、モデルとして呼び出されることもないだろう。暫く夫とじっくりと向き合うのに丁度良いのかもしれないと。


 


 だが、その後。十日ほど経っても、三浦画伯からの連絡はなかった。


 

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