偶然という名の婦人 6

 ――『ミチ』。

 いつの間にか充を呼ぶ愛称になっていた。

 結婚を決めた時には既にそう呼んでいた。


 充は多恵子のことを『多恵』と呼ぶ。

 だから多恵子も真似して、上の二文字を取って『ミツ』と最初は呼んでいたのだ。

 だけれど言いにくい。その上、どこか古風な物語に出てくるお手伝いのお婆さんのようだと充が不満そうだった為に、そのうちに多恵子が苦し紛れに呼ぶようになったのが『ミチ』だった。

 若い頃はふざけて『ミッチー』と呼んだこともある。充は時には嫌がり、時には笑い飛ばしてくれた。多恵子もなにか彼に文句を言う時に『ミッチー君はダメね』なんてよく言ったものだったが、今は口が裂けても言えそうになかった。


「ミチ……」

 くったりと力尽きた多恵子は今、汗ばんでいる夫とまだ抱き合っていた。

 それでも既にことは終わり……。いつもと違うのは、今日は充だけでなく、多恵子もその極みに突き上げられたことだった。

 どこまでもうっとりと、とろけきってしまった余韻に多恵子は包み込まれている。

 あの緑の匂いが香り高く立ち上っている。それほどに、多恵子の肌も夫同様にじっとりと汗ばみ火照っていた。そして、しんなりと柔らかくなった妻の肌に頬を埋めている夫。彼の安らいでいる顔もまた、男として満ち足りている。

「この香り、最近だよな」

「うん、クリーム。お風呂上がりに」

「ここのところ寝る時、この匂いがした。お前がいなくても、毛布にもシーツにもこの匂いがして」

 体温でほどけるように柔らかくなった乳房を、充は再び握りしめる。そしてその先に口づけてくれる。多恵子もまた敏感に反応し、背を反らせ眉根を寄せながら微かな濡れ声をこぼした。

 こんなに熱く抱き合うのは、いつ以来か、いつまでだったのか。本当に若かった頃。恋人同士だった時か。それとも新婚だった時か。いや、大輔が乳飲み子だったころも、まだまだ二人はお盛んだったと思う。あの頃は互いがそれしか見えていないかのように、じっくりと相手を探るような奪うような睦み合いに夢中になった。今夜はそれが蘇ったかのよう……。

「多恵、今日はすごかった」

 充に言われ、多恵子も心辺りがあるので、ほんの少し耳と頬を熱くした。

 そして彼が今夜言いたいのはそれだけではなく……。

「駅で見かけた時も女っぽくて」

 男の勘。彼は見ていないようで、でも多恵子が『私は女よ』とまるで麝香を放つが如く匂わせていたのを、なんとなくでも感じてくれてはいたのだろう。いつにない求愛を煽ったものがなんだったのかと言うなら、それしかないと多恵子は思った。

「俺、お前のこと放っているわけじゃない……」

「わかっているわよ。私もそうよ。若い頃のようには、気持ちも体力も同じようにいかないわよ。生活に追われているし……」

 いつもの理解ある言葉を口にしている――。でも、今まではここで『物わかり良い言葉』として、もっともっとこんなふうに愛して欲しいという切望を飲み込こんできた多恵子。そんな素直になれない自分なのに、密かに孤独だと嘆いていた。でも今夜、願い通りに燃え尽きてみて多恵子は思う。

 今宵の多恵子は自身のことを『いつもと違った』と感じ驚愕している。自分が女としてまだまだ、若い時のままに敏感に快感を得ることが出来たからだ。それが証拠に、本当にそれほど時間もかけずとも多恵子は自然に昇りつめ、女の快楽に崩れ落ちることが出来た。それは充だけじゃない、自分の気持ちも高ぶっていたから――。充自身も今夜は力も勢いも男としてあったし、それを多恵子に存分に注いでくれた。でもそれだけじゃない。そんな夫をするすると熱い蜜で絡め取りながら身体の奥まで受け入れ、熱している芯まで誘い込んでいたのは妻の多恵子の方。多恵子自身から貪欲に吸い込む、女の魔力を発揮しているのを感じたのだ。きっと充も自分の勢いだけじゃなく、あれほどに加速させたのはそんな乱れる妻が引っ張り込んでくれたからと思っていることだろう。

 どこか自分は間違っていたのではないかとさえ思わされた。いつもいつも夫で男である充に『もっとしてほしい』だなんて思っていながらも、そうじゃない、彼をそこまでにさせられないのは、自分自身も『女力』を堕落させ持続させなかったからかもしれない。もう若くない、自分には魅力がない、『簡単に諦めていた』。だから夫を惹きつけられなかったのだと。自分自身の女の感度も鈍らせてしまった――そう、思い始める。

「なにを考えているんだよ」

 物思いに耽っている多恵子の顔を、充が上から覗き込む。彼の手がそっと多恵子の頬に触れていた。こんなことだって、久しぶりで――。

「本当は言いたいことが沢山あるんだろ。多恵、昔から内側に溜め込んでたった一人で我慢することぐらい知っている。でもなにを我慢しているか気がつけない俺がいて……」

 もどかしいけど、でもお前が大丈夫だと言っているうちは踏み込めなくて。いつ踏み込めばいいか分からなくて。

 そんな夫の言葉にも、多恵子は驚いていた。

 今日はいったいどういう日なのだろう。多恵子にも自分では気が付けなかったものを知り、そして夫も今日は言えなかったことを言ってくれている。

 ――『たった一人で怖がらないで、思うままご主人にぶつかってごらん』。

 先生の声が聞こえた。

「ミチ」

 雪が降り積もる夜は、部屋が少しだけ明るくなる。白くなった地面に様々な夜の照明が反射して、窓から部屋へやんわりと雪の灯が入り込んでくるから。そんな雪の夜灯りに、多恵子の裸は夫の胸の下で静かに横たえている。そして素肌の夫が白い夜明かりの中、黒い目で多恵子を見下ろしている。

 アトリエではない、夫妻二人だけの空間、時間。本当はここで『裸婦』になるべき――。身も心も。夫は今、そんな多恵子を探してくれている、知ろうとしてくれている。

「小さい囲いでも良いの。今みたいな家庭で良いの。高望みなどしていないわ。でも、やっぱり私は欲深で、そんな小さな囲いでも『満杯』にしたいと思っているの」

「小さな囲いでも、お前は満たされていないということか」

 少しばかり納得出来ない顔をした充。でも多恵子は、小さく首を振る。

「でも、その小さな囲いが満たされることなどないと分かっているの。だから、私達、頑張るのでしょう。でもね、私はただ満杯にならないことで、勝手に苛立ったり孤独を感じたり。我が儘だったと今日……気がついたわ」

 裸になって知ったこと。勇気を出して素肌になる仕事をしたことで、多恵子は自分の心と向き合うことになった。そして自分の心もいつまでもあのワンピースを着ていることに気がついた。さらに今日、三浦先生のアトリエで心も思いっきり裸にした。その途端もう消えかけていると諦めていたものが、こんなに鮮烈に突風の如く自分の所に戻ってきた。

「ミチ、満杯になるなんて、そっちの方が嘘だわ。満杯なんてないんだもの。ただそれを諦めてもいけない毎日を、貴方とずっと一緒に積み重ねていきたい」

 多恵、どうしたんだよ。

 ミチの困惑した顔に声。そして黒髪を愛おしそうに労ってくれている手つきは、出会った頃から良く知っているミチだけの仕草。

 多恵子の目に、涙が浮かんでいた。今日だから言ってしまおう。なにもかも。

「ミチ、時々でいいの。たくさんはいらないの。でも、私はミチの傍にいる女だと妻だと伴侶だと、それを思い出させて――」

 抱きしめて。熱烈じゃなくて良い。口づけだけでも良い。言葉でも良い。触れあう指先だけでも良い。見つめ合うだけでも良い。ほんの少しだけのことで良いから、忘れさせないで、忘れないで。――無我夢中に思うままを多恵子は呟き続けていた。

「うん、分かった」

 そして充も。なんだか感極まったようにして、その素肌の胸に多恵子を抱きしめてくれた。

 黒髪を抱きしめる充の手も、今夜は多恵子を昔のままに狂おしくさせる。

 そう、私はこの人とだけ、この人にだけ我が儘も贅沢も欲も言いたいの。ただこの人に満たされていればそれでいいの。

 そして満たされる為には、夫に望むだけじゃなくて、自分自身も自分で満たしていかねばならない。それが分かったから――。

 だから多恵子は充の胸の中で、するりと淀みなく秘密を打ち明けた。

「私、今。画家のモデルをしているの」

 多恵子の髪を撫でていた充の手が止まる。そして彼はやはり怪訝そうに多恵子の顔を見下ろしていた。まだ妻がなにを言ったのか分からないと言う顔で。

「ごめんね、ミチ。画廊のお手伝いじゃなくて、アトリエにモデルとして通っているの」

「モデル――」

 彼の頬がほんの僅か、強ばった。それもすでに男の予感か。でも多恵子は充の目を見て言う。

「私、裸のモデルをしている。裸婦画家のモデルよ」

 今日もその帰りだったのよ。

 充の、まだ信じられないという顔。以上に、冗談かなにかかと考えているような顔。十人並みの『多恵』が、そんな思い切ったことが出来るはずがないのだから、それは悪い冗談に決まっているという顔。妻を信じている顔。

「本当よ」

 そしてやっと充の脳裏に、あの不自然な報酬額が浮かんだことだろう。

 彼の手が、すとんと多恵子の身体を放してしまう。

 充は雪明かりの中に浮かぶ妻の裸体を、いつも以上に眺めていた。


 

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