鳥釣りの一日
戸田鳥
鳥釣りの一日
朝。男は肩に鞄をかけると、釣り竿と大きなバケツを持って出かけます。
階段に通じるドアを開け、らせん階段に足をかけます。長い長いらせん階段を規則正しいリズムで登り切ると、そこは雲の上です。
男は雲の切れ間へと歩を進め、足をぶらりとさせて雲の端に腰をかけました。そして鞄から餌入れを取り出すと、釣り針に引っかけて下の空におろしました。しばらくして糸がぴくぴくするので引き上げてみますと、赤と青の風船が釣り糸に絡まっています。男は苦心してもつれあった糸をほどき風船をバケツの取っ手に結びつけると、また釣りに戻りました。
もうしばらくして、今度は大きく竿が傾いだので、男は張り切って引っ張り上げました。かかっていたのは、色鮮やかな鯉のぼりでした。
「今は冬だぞ。いったいどのくらい泳いでたんだい」
男は背丈より長い鯉のぼりを丁寧にたたみ、お尻の下に敷きました。
「どうも今日は当たりが悪い」
なおも辛抱強く獲物がかかるのを待ちますと、さっきよりも重い感触です。今度こそはと竿をあげると、釣り上げたのはセーラー服の少女でした。顔を真っ赤にして怒っています。
なんでも、自殺しようとビルの屋上から飛び降りた瞬間、釣り針に引っかかって引き上げられたとか。
「そりゃあ悪いことしたな、じゃあここからやり直してもらっていいぜ」
少女はぐっと言葉に詰まって、雲の隙間からこわごわ下を覗きましたが、その高さにぶるぶると首を横に振りました。ビルの屋上でもやっとの思いで飛んだのです。あの怖さをもう一度、何十倍もの高さからやり直すなんてできません。
「飛び降りないのなら手伝ってみるかい」
男はもう一本の釣り竿を少女に渡しました。
「手始めに、餌はこれで」
男は小さなエビが入った容器を足で押して寄越しました。その隣で、男はバケツから生きたネズミを取り出し、自分の針の先に刺しました。少女が見守る横で、ネズミはぽいっと雲の下に投げられてぶらぶらと浮いているのでした。
「なにやってる。早く投げろ」
「あの……何を釣ってるの」
「鳥だよ」
「ネズミで鳥を釣るの?」
「肉食の大物狙いなんだよ俺は」
言われるままに少女が釣り糸を垂らしてみますと、じきにぐいぐいと引っ張るものがあります。少女ひとりの力では竿を取られそうだったので、男と二人がかりで引き上げると、その大物はマンボウでした。尾びれに針を引っかけたまま、うらめしそうな丸い目で男を睨んでいます。
「なんだよ。またお前かよ」
男はうんざりといった様子で針をはずします。
「何回引っかかりゃ気が済むんだよ。この辺りは迂回して行けって言ったろ」
「ほぉーい」
マンボウは雲から空に飛び込むと、尾びれをぱたぱた振りながら西の空に去っていきました。
なおも二人が釣りを続けていると、やっと男の針に獲物がかかりました。
「カモメか」男は少々不満そうでしたが、
「あまり旨くないんだけどな。まあ釣果なしよりいいか」
ばたばたと暴れるカモメの足を縛る男を少女はじっと見つめて、
「カモメって、海の鳥よね」と聞きました。
「ああ」
「海、近いの?」
男は首をかしげて、
「マンボウの通り道だし、近いんだろう。これは雲だから流されてるけどな。たぶん、あっちのほうだよ」
男が指さす方向にも雲の原っぱが続くだけでしたけど、少女は歩くうちに雲の穴を見つけて、そこから下界を見下ろしました。穴から覗けるぎりぎりの場所に、きらきら光る大きな水が見えました。男は興味ないらしく、釣り竿を持ったまま眠そうにしています。
「いいなあ。行きたいなあ。海」
「行けばいいさ」
男のつぶやきに少女は穴から顔を上げました。「行ける?」
「行けない場所なんてないよ」
日が傾くまでに男が釣ったのは、結局カモメ一羽だけでした。
少女はうつぶせに寝そべり、ずっと雲の下を見張っていました。
「あ、マンボウさん!」
向こうの空から、昼間のマンボウが泳いで来るのが見えました。
「おーい、おーい!」
少女が一生懸命呼んでもマンボウは気がつかないようです。男は手近の釣り針をバケツに結んであった風船に突き刺しました。
バン! バン!
マンボウは目だけをちろりと動かすと、二人のいる雲に寄って行きました。
少女は、マンボウが海に帰るついでに、一緒に連れてってくれるよう頼みました。マンボウは「ほぉーい」と体を縦に揺らして頷きました。
少女がマンボウの背中にまたがり、しっかりと尾びれをつかむと、マンボウはバランスが取りにくいのか左右に揺れながら、海の方角へと帰って行きました。
「さて、こっちも終いにするか」
男は道具を片付けてカモメを背負うと、バケツと竿を手に、雲の原っぱを戻りました。長い長い階段を降りて家にたどり着くと、カモメの羽をむしって料理をしました。やっぱり旨くないなあと言いながら食事を終えると、針箱を出して昼間の鯉のぼりに縫い物を始めました。鯉のぼりは綿を詰められて、やがて新しい布団になりました。
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