「それだけは勘弁して……」

 その日は11時に上がる予定だった。

 だった。つまり過去形。


「國橋はオーダー、相楽はドリンクじゃんじゃん運んで、みっちゃんとななっちはセット急いで」


 ドリンクを作りながら、上野さんは指示を出している。

 深夜勤務の責任者は上野さん。最高責任者の有村さんはフロントで接客中。いつものメンバーがせっせと己の業務を全うしていた。


 時刻は23時35分。


 「みっちゃんごめん、ちょっと残って」と上野さんに言われたのは30分ほど前のことだった。本来私と入れ替わりで来るはずのバイトが、来れなくなった。うちのバイト先ではよくあること。そしてそういう日に限って忙しくなるのもよくあることだったりするのだ。


 アーサー君には23時に上がると伝えてある。遅くなるとも言ってない。

 こんなことはよくあるから連絡なく帰りが遅くなっても、そんなに心配しないでね。とは最初に言っておいた。


 

 「カラオケ店って楽なのでは?」と本気で思っている人がどれだけいるかは知らないけど、うちの店は飲み屋さんが近隣に並んでいるので、二次会に利用されることが多い。つまり団体客もいれば「まだ飲み足りない!」っていう感じでジャンジャンお酒飲む人もいる。ご飯食べる人も。

 そういうお客さんが一斉に何組も来られると、こちらとしてはてんてこ舞いだ。


「お姉さん、おしぼりもらえる?」

「かしこまりました。お部屋番号をお伺いしてもよろしいでしょうか」

「えっと、30……」


 セット行くときに話しかけんな。

 おしぼりなんかコンビニのウェットティッシュ適当に買ってこい。

 部屋番号くらいしっかり覚えろ。


 そんなことを思っても絶対に口にも表情にも出してはいけない。

 前半は店員にあるまじきセリフだし。


「お手数ですが、フロントまで取りに来ていただけますか」

「あ、いいや。部屋から電話する」


 取りに来るのはいやですかそうですかそうですか。

 取りに行く時間もお金払ってますもんね、そうですよね。


「はぁー」


 お腹空いた。

 このセット終わったら帰っていいかな。ダメかな。ドリンクの注文今日は多そうだし、「帰っていいですか」って言えなさそう。これはしばらく帰れないな。

 アーサー君。まだ待っててくれてるかな。


 一部屋、一部屋。

 セットを回りながら、帰ったらしたいことを頭の中で並べていく。

 アーサー君のご飯が食べたい。今日はシチューって言ったからシチューを作ってくれているはず。アニメ見たい。先週続きが気になるところで終わったもん。


「また、まぁよくもここまで」


 最後の部屋。大部屋だから深夜にかけて団体客が減っていくこの店ではあまり開ける必要はないんだけど。それでもこれはひどい。

 パフェを倒してしまったらしく床とソファにホイップがついているし、ポップコーンが散乱してる。ドリンクもこぼれてるし、もう何もやる気が起きない。


「うん、乗らない。無理無理。帰ろう」


 一応トレイに乗り切らないほどのセットをこなせるように、セット専用のボックスがある。今回は場所を取るジョッキグラスがボックスの大半を占めていて、団体客がいた後の部屋を片付ける装備としては、いまいちだ。


 小さいことにイライラする。忙しいときはいつもそう。

 お客様から給料をもらってるというのは、たぶん正しい考え方で、忙しいのも売り上げが上がってるってことで、本来いいことなのにストレスしかたまらないのはなんでなんだろう。考えても答えは出ないし、出たところでどうしようもない。私たちが忙しくて、それはお客様の楽しい時間を作り出すための方程式は変わらないんだから。


 「ごゆっくりどうぞ」ドリンクバーにいるお客様に全く心のこもってない形だけのあいさつをしてから階段を下りる。


「3階終わりました!!」

「みっちゃーん!! ありがと、まじありがと!」

「へ?」


 上野さんはドリンクを作ってなかった。

 そういえば全然気にしなかったけど、フロントに並んでるお客様もいなかった。有村さんが、レジの金額チェックをしていたくらいだから、多分落ち着いたんだと思う。


「じゃあ、休憩回さないとですね。私もうちょっとくらい残るので誰か休憩を「人吉ちゃん!!」はい?」


 めちゃめちゃ割り込まれてると思ったら、有村さんが叫びながら厨房に入ってきた。血相変えたというか、かなり焦った様子でいらっしゃる。

 私精算してないからレジの金額が合わなくても私のせいではありません、有村さん。


「なんか金髪のイケメンが迎えに来てるんだけど!!」

「へ?」


 金髪のイケメンが迎えに来てる?

 そんなまさか。だって店の名前とか電話番号とかは一応念のため教えたけど、場所は教えてない。最初にあった場所の近くってことしか。


「何かちょっと怒ってるんだけど!」


 そうでしょうね。


「すぐ行きます」


 なんか上野さんがニヤニヤしてるけど、この際気にしないでおこう。


「やっぱりアーサー君だ」


 フロントのソファに座っていたのはアーサー君だった。すぐさま立ち上がってつかつかとこっちに来る。恰好はいつもの通り、Yシャツの上に黒のパーカーとジーンズ、靴はいつものスニーカー。

 けど、顔がいつもよりも赤い。前髪がぺたりと額についてて、じんわりと汗をかいてる。走ってきたのだろう。そんなに急ぐほどの要件があったんだろうか。


「どうしたのアーサー君。遅くなることあるって言ってあったでしょ」

「言ってた」

「なら何で?」


 ちょっとだけ怒ってるように、それから呆れるようにため息を吐いてからアーサー君は言った。


「今日は帰ってこれるからって録画しなかった奴が録れてない。録画がいるのか聞きに来た」


 一瞬だけ間をおいて、言葉が脳に届いた。

 思考回路が正常に回ってアーサー君の言葉の意味を正しく理解する。



「ああああああああ!!!!」



 そうだった。そうだった! そうだった!!

 録画容量がもう尽きるから、今回はやめておこうと思ったのが一本あるんだった!!

 好きなアニメの特番で、たぶん総集編だとはわかっているからこその選択が裏目に出るなんて!!


「ひ、人吉ちゃんとりあえず。今日は上がりな?」

「あ、はい!!」


 有村さんありがとう!!


「待ってるから早く準備してこい」

「わかった!!」


 急いで退勤を切り、着替えてといっても制服はカッターシャツにネクタイだし、前掛けだけ外して、鞄の中に無造作に突っ込んだ。


 それで帰り際アーサー君は。


「普通に心配もするから、できるだけ連絡はくれ」


 そう言った。それから


「次にこんなことがあったら、ロフトに上がる」


 という脅し文句が付け足された。


「それだけは勘弁して……」 

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