第35話 凍る現世と壊れる異世界
古いゲームの裏技で、ちょうどこんなのを見た覚えがあった。
ある地点からある地点までキャラクターを移動させた後、そのデータをセーブする。そしてセーブの途中でわざと電源を切る。
すると、次にゲームを起動したとき――どういうわけだか、移動前と移動後の地点の両方に、同じキャラクターが存在する。
増殖バグ、というやつだった。
この事態も増殖バグと名付けようと思った。
1.四月十二日、蓮川は死亡。その魂は異世界に転生する。
2.たまたま現場に居合わせた紅本が、殺人を阻止すべく時間を巻き戻す。
3.現世の時間は丸一日巻き戻り、「蓮川がまだ生きている時間」まで戻る。
4.が、最初に死んだ蓮川の魂は既に異世界へ転生している。これにより、
5.「現世と異世界の両方に蓮川が存在する」という状況が完成。
備考:その世界で使った魔法は、その世界にしか影響を及ぼさない。
紅本に戻せるのは現世の時間だけで、その間、異世界は通常運行。
上記の工程を繰り返した結果、異世界には四人の蓮川が同時に存在することとなった。いや――
リンカネくんとミスフォーちゃんを謎のケーブルでホワイトボードに繋いで、大写しになった映像を僕とエビルはふたりで見ていた。
「現世で幸せになれなかった人間を、異世界に転生させて、そこで幸せになってもらう、ってのが、基本思想だったんだ。そのために必要な力、幸せになるための力を与えるのが、このシステムで。だから……」
エビルはちらりと僕のほうを見て、それから苦々しげに眉根を寄せて続けた。
「こんなときでもなきゃ役に立たない、限定的な能力を……転生のときに与えられた、っていうのは。おかしいとは、思った」
「……『他の転生者の記憶が見える』……」
他人の記憶ではなかった。
それは自分の記憶だったり別の自分の記憶だったりしたが、
とにかく僕は、蓮川創というひとりの人間の記憶を見ていたのだ。
特別な能力なんかじゃない。
数奇な運命のいたずらによって四人に分裂した蓮川が、自然な働きとして、その記憶を分かち合おうとしただけ――
「エビル」
「ああ」
「神様」
「ああ」
「教えてください。全部を」
「……ああ」
偶然に偶然を重ねた果ての、運命としか呼び表せない地平。
僕たちがたどり着いたこの場所で、ふたつの世界は滅びようとしている。
すごろくの盤と駒を作ったのも、最初にサイコロを振ったのも、神だ。
ならば、解決編は神のひとり語りから始めなくてはならないだろう。
「……落ちるとこだったんだ、隕石」
窓の外の青空を眺めて、エビルはぼそりとつぶやいた。
白い雲を突き抜けて下界へと降り注ぐ隕石を幻視しているように見えた。
もしかするとそれは幻ではなく、実際、過去に見たのかもしれない。
「2025年に宇宙人とか、んなこと言ってる場合じゃなくて。地球がまるごと消えるとこだった。気づいたときには現世がもう終末受け入れムードになってたよ」
あのときはほんと、泣きそうになった――さみしそうな顔をした後で、隕石ひとつどうにかすんのは神様でも大変なんだぜと、神は空々しくおどけた。
「なんにしてももう間に合わないから、ひとまずは現世の時間を巻き戻した」
そのときにズレた時間は、事が済んでから帳尻を合わせたそうだ。
ひとまず隕石落下前まで時間を巻き戻し、いろんな根回しをして、それでようやく「地球直撃」を「地球に最も接近した」程度の軌道まで修正できた、が――
隕石のかわりに落ちてきたのは、時を操る
星の名にちなみ都と名付けられたひとりの赤子のもとに、神の力は降ってきた。
自覚がないまま能力を行使することが紅本にはたびたびあった。
そのことに神が気づかなかったのはなぜだろう?
その答えはたぶん、エビルがどういう神様であるかを考えればすぐに出る。
神は、そうした異分子の存在に気づくほど、熱心に下界を見てはいなかった。
時計の針だけ適当に合わせて、それで世界を管理した気になっていた――
ともあれ、紅本は殺人現場に居合わせて初めて能力を自覚した。
自覚した紅本に戻せた時間は、殺人発生から丸一日、二十四時間。
ただし、その日の紅本は朝十時過ぎまで熟睡していたから、時を戻しても目覚めるのはその時間。スタート地点もそこになる。
そこから彼女の死闘が始まった。
間違いなく善行であるはずだった。
見捨てて逃げてもよかっただろうに、蓮川を救うため動いたのだから。
間違いなく善行であるはずだった。
結果、紅本は重い十字架を背負い、自死を選ぶほど追い詰められた。
それどころか、その奮闘は泥藤という大魔王を異世界へ送り込むことになり、
そして蓮川は四人に増殖する。
もしも、この結末は神の下した罰だと言われたならば――我々はたぶん前世でよっぽど罪深いことをしたのだろうと、嘆くことだってできただろう。
「……通すはずがないんだよ、あんなやつ。ほんとなら……」
でも、その神は僕の隣で頭を抱えてうめいている。
「転生先に魔王を希望する人間は、そりゃ、いるよ。でも、転生早々一直線に世界を壊しに行くような輩を、リンカネくんが通すはずないんだよ……! あいつがあそこで死ぬなんて本来リンカネくんの予定にはなかったし、死んだとしたって転生なんかするはずなかった! ……なかったんだよ。なかったんだよ、ほんとなら……」
突然の隕石に神はたいそう肝を冷やした。だから、二度とこんなことが起こらぬよう、『予定外の事態』をできるかぎり排除するルールを定めた。
『予定内の事態』を固定することで『予定外』を排する、それが固定力。
紅本に教えてやれればよかった。
ミスフォーちゃんが収集してリスト化した不幸な人間=転生候補者。その中に名前のあった僕が、あそこで死ぬことになると判明した時点で――
『ひとり転生者が出る』という結果は、固定されていたのだと。
がんばっても無駄だから逃げてくれと、教えてやれればよかったのだ。
むしろ、そこで妙に粘られると、
『ひとり転生者が出る』の枠が僕から泥藤にスライドしてしまって、
本来なら転生する資格を持たないはずの泥藤が、
どさくさまぎれにリンカネくんの関門を突破してしまうと。
「……教えてください。どうすればいいんですか、あの魔王は」
「無理だ」
「無理だじゃなくてですよ」
「無理だ。あいつはリミッターが外れてる。転生者の力……それも、魔王の規格外の力を、こうもまっすぐ破壊に向けるやつなんて今までいなかった。止めようがない」
「止めようがないじゃなくてですね」
「無理だよ。あたしが断言するよ。異世界でこれをどうにかするのは絶対に無理だ」
「――なんなんですか、絶対って!」
「異世界の内部戦力は黒竜相手に手を焼くレベルで魔王は単独で白竜を殺してる!!」
叫ぶような早口で言い捨ててエビルは荒い息を吐いた。ふうふうと上気した頬、振り乱された灰髪、僕を刺すような眼光――
捨て鉢になっているように見えた。
彼女はたぶんわかっていない。
自分の言う絶対がどれだけ重いか理解していない。
創造神が捨て鉢になるイコール
エビルはたぶん想像すらしていない。
でなければこんなことが言えるものかという苛立ちをなんとか飲み込んで、僕も大きく息を吐いた。
「……現世のほうは、どうなってますか。どうするんですか」
役者の正体が明かされたことで、現世がフリーズした原因もわかった。
苦しそうに、神は眉間を押さえる。
「……どちらかによる」
「何がです」
「狙ってやってるのか、そうでないのか」
より正確な表現を採用すると、現世の時間は止まってはいない。
小刻みに巻き戻り続けているのだ。
一秒時間が経った瞬間に、一秒時間を巻き戻す――そんな作業を、もっと細かく。 0.00000……0がいくつ重なるかわからない、超極小のスパンで行う。だから、止まっているように見える。
誰がそんなことをしている?
明らか。
なぜそんなことをしている?
不明。
1.暴走しているのかもしれない。
死に瀕した紅本の肉体が、紅本の意思とは無関係に、
生き残るために能力を発動させているのかもしれない。
2.紅本自身がそうしているのかもしれない。
やっぱり死ぬのが怖くなったか、それとももう一度やり直そうとしたか、
とにかく紅本はもう一度時間を巻き戻そうとしたのだが、
死の一歩手前、衰弱しきった体では短い時間しか戻せないのかもしれない。
エビルはふたつの仮説を立てた。僕の意見はどちらでもない。
「……迷ってるんだと思います。あの人は」
最期の瞬間、正真正銘の"死"を迎えそうになったあの瞬間、
やっぱり彼女はためらったのだ。
だから直前で踏みとどまった。魂が体から抜けてしまって、でも肉体はまだ死んでいない。リンカネくんが錯誤を起こして大爆発を起こすほどの、本当にギリギリのラインで止まった。
自殺しようと首を吊ったら、土壇場で縄がちぎれたような。
ともあれ彼女はまだ死んでいない。だから、このまま時間が戻れば、紅本都に関しては僕のようなバグが起こることもなく――普通に、生き返れるはずなのだ。
でも、彼女は迷っている。
繰り返す六日間の中で、
僕を助け出すことができずに四回も死なせてしまった上に、
泥藤を自分の手で殺したと責任を感じている彼女は――
こんなにも罪深い自分が、のうのうと生き返っていいのかと。
こんなにも罪深い自分は、死んで当然なのではないかと。
こんなにも罪深い自分は、このまま死なねばならないのだと――
耳元でささやく罪の意識と、
それでもやっぱり死にたくないという心からの叫びとの間で、
板挟みになっているのだと。僕は、そう考える。
でも、この推理に関しては、本人に確認を取る気にはなれない。
ずかずかと踏み込んで聞いていい領域ではないような気がした。
だから、それとは違うことを聞く。
「やっぱり、あなた自身にも……制御、できないんですか?」
「……すみません。どうしても」
白く、プロジェクターのような光をリンカネくんは空間に投射して、
その光の中に紅本は立っていた。
生と死の半端な領域でとどまっている紅本の魂は、現世と天国との間を不安定にふわふわと行き交っていた。エビルが念入りに直したリンカネくんはもう爆発することもなく、その魂を会議室にとどめ置くことができる。
ばつが悪そうに視線を落としている紅本に、なんと声をかければいいか。
この六日間の彼女の旅路はどんな言葉をかけたところで空しい響きを返すだけだ。
僕とエビルが、現状の整理にあれこれ語り合う言葉ですら――
「傍迷惑なことをしてくれた」と責めているように彼女には聞こえるだろう。
「私にも、なにを、どうすればいいのか、全然わからなくて。大変なことをしてるみたいだって、今、わかった……わかったんですけど、でも、どうにもならない」
紅本は力が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
震える手を恐る恐る持ち上げて、その手のひらが血に塗れている幻覚でも見ているのか、小刻みに揺れる瞳は焦点がまったく合っていなくて。
「わたしは」
ぶわり、とその目を涙が覆った。
「わたしは、生きてていいんでしょうか」
そして紅本は血に染まった両手で顔を覆って泣き出した。
世界を創った神様にすら、止めることのできない涙だった。
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