秋雨

Snow姫

第1話

雨が降り出したようだ。

風も吹いているようだ。

昭和初期の薄いガラスが音をたてている。何かが窓ガラスに当たっている。


「おい」


部屋の中にわたしの声だけが響く。薄い空気の中に、その音だけが壁にあたりながら何度も小さく聞こえて来る。まるで体育館に一人でいるような気分だ。

暗闇が全てを閉ざし、闇に全てが溶け込んでいる。あの中に明代も小さく呼吸をしているのだろう。わたしだけがその闇に溶け込めずに、目を光らせて、この空間に浮かんでいる。

今日もこれからしばらくは、眠ることができない。


ガタンと音がした。誰かが下にいる。

目蓋の裏が明るくなっている。目を開けると残酷な光が無理やり飛び込んで来る。

下階の台所から、動き回る音がする。聴きなれた音だ。昨夜は雨だったのではと窓に目をやるが、霜が結晶を作って窓に張り付いている。

窓を開けて見ると外は秋の光に包まれた林の中だ。雨が降った様子はない。ただ、カラマツの葉が外側の桟に積もっている。また、下から音が上がって来る。今度は包丁の音だろうか。


「竹屋の婆さんか」


吉沢幸恵は、看護師だ。わたしがこの別荘に幽閉されたときに、妻が探してきた。少し目がつり上がっていて、優しい笑顔とは裏腹に何か油断できない感じがした。妻から幸恵を紹介されたその日、彼女のがっしりした体格は、わたしを軽々とベットに運んだ。女性に抱えられたのは、私の記憶がごく曖昧な幼年頃以来、初めてだった。

幸恵は、別荘で療養する度に、やってきた。

玄関のドアを勢いよく開ける。大きな声で挨拶して妻を呼ぶ。

私は、その度に他に仕事はあるだろうにと思う。

幸恵はわたしを持ち上げた女だ、油断することはできない。

医者と一緒にいるときは如何にも白衣の天使ぶりを発揮して慎ましやかなのだが、私と二人になると私の手をひょいと持ち上げてズブリと点滴の針を刺す。眉を寄せて、身体中の力を込めるが、不思議と痛くない。その上幸恵は私の痒い所に手が届く。これが欲しいと思うと、しばらくすると欲しいものが枕元にある。とても重宝なのだ。特に妻とは気が合うのだろう楽しげな笑い声が二階にいてもよく聞こえてきた。。

幸恵が嫁いだ先は、この別荘から数キロ先にあるこの辺りでは竹屋と呼ばれている古い農家だ。昔は竹林に囲まれて、家屋の屋根が見えないほどだったらしい、舌切り雀の話に出て来る屋敷のようだったと幸恵が話していた。だが、戦争が始まって伐採したのか、戦争が終わった頃には、庭に竹が少し残っているだけだったらしい。それでも五月晴れの日には、きまって筍を何本か抱えてやってきた。大きな筍を見ると妻ばかりか子供達も喜んでいた。幸恵には正という息子がいたが、旦那は戦争が終わって数年後に戦地から戻ってはきたものの数日で亡くなったと言っていた。本当かどうかは定かではない。妻が生きていた頃は、そんな幸恵をわたしは「竹屋の後家さん」と呼んでいたが、近頃では、「ばあさん」と呼んでいる。わたしも爺さんになっているのだから、そう呼んでも差し支えないだろう。

しばらくすると、

「もう起きなよ。ご飯だよ。」


柔らかい味噌汁が喉に流れて来る。甘い香りが鼻の空洞を満たして行く。大根の甘さが好きだ。いつもと変わらぬメニュー、目玉焼き。納豆、おしんこは野沢菜だ。今朝はこれに切り干し大根の煮物がついている。娘達の好物だ。透明な優しい赤に箸が誘われる。力強くかむ、食感が気持ちいい。

「どうだ。うまいだろう。」

「うん うまい」


軽井沢でもこの辺りは、水がいい。空気がうまい。都会で仕事をしていてここに来ると特に水と空気の良さに感動する。








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秋雨 Snow姫 @fujisawasyuusaku2017

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