国民の象徴

 それは彼にとって初めての朝だった。そして日本にとっても実に二百年近くぶりの朝でもあった。

 一世一元。少なくとも日本が近代国家の仲間入りを果たしてから、天皇は即位したら死ぬまで天皇であった。高齢になろうが大病を患おうが、おそらく手足が二三本吹っ飛ぼうが命ある限り天皇は天皇であった。

 しかし、彼は偉業を成し遂げたのである。タブーを犯した、政治的発言をしてはならぬという禁忌を破ったと非難されるリスクを負って、生あるうちに天皇の座を退くという困難に挑み、成功させたのである。

 故に、その日の朝の目覚めは爽快なものだった。その日の公務に頭を悩ませることもない。これほど気楽な朝はいつ以来であろうか。

 とはいえ、彼の老体に昨晩の儀式はいささか堪えた。時計を見やる。すでに普段の起床時刻に迫っていた。しかし、と彼は思いなおす。もう自分は天皇ではないのだ。公務もない。上皇という立場上、公衆の面前で好き勝手するようなことはできないにしても、朝早く起きだしていそいそと支度を整える必要はないだろう。今日一日くらい、昼まで眠ったって誰にも迷惑はかかりはしないはずだ……まぁ、老齢の自分が普段の時間に起きなかったら、すわ何事かと侍従が心配するかもしれないが。しかし、そのくらいだ。よし、今日は思い切り朝寝坊を決めこもう。それがいい。新元号初日にすることはそれだと彼は心に決めて、布団を自分の口元にまで引き寄せた。


 しばらくまどろんでいると、寝室の戸をノックするものがあった。きっと侍従であろう。普段の時間に起きなかったから様子を見に来たに相違ない。そう思った彼は、声を上げてノックに返事を返し、侍従を中へ招き入れた。侍従は真面目腐った顔をして口を開く。

「陛下、時間です。ご支度を」

「いや、私はもう少し眠ります。昨日の式典で疲れましたし、もう公務はないでしょう」

「いえ陛下。本日も公務がございます」

 その一言を聞いて、彼は思い切り起き上がった。普段から丁寧な所作をすべしと染みついていた彼の動作としては、史上最も速い動きだったかもしれぬ。

「そんなはずは」

「上皇様にはまず、上皇になられたことを国民に知らしめるためのいくつかの行事に出ていただきます」

 あぁそうかと彼は考え直した。天皇交代に伴う儀式は残っていたのか。いささか気が急いて、うっかり忘れてしまっていたのかもしれない。そう彼は思った。

 だが。

「翌日からは帝都交響楽団八十周年記念式典への出席、アメリカ大統領との会食会。来週からは東南アジア各国の歴訪、それが終わりましたら東北の訪問を……」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 さすがに彼も侍従の言葉を止めた。そのようなことは初めてだったので、侍従は目を丸くした。

「私はもう引退しましたが」

「はい、それはもう」

「ではなぜ、公務があるのですか」

「なぜといわれましても」

 侍従が困ったように頭を掻く。

「皇太子さまには皇太子さまとしてのご公務がありましたように、上皇様には上皇様としてのご公務があるというだけですが……」

 彼は目が回るような思いだった。



 そこから、いつかの未来のことである。

 そこはニュース番組を撮影するセットなのだが、いやに陰気臭かった。普段は明るい色調のライトも暗く変えられていて、出演者はみな葬式帰りのような恰好をしていた。非業の死でもなければ大往生というわけでもないような、中途半端な葬式帰りの一団である。

 彼らは一様に何かの映像に見入っていた。セットのモニターには、かつてこの国で天皇と呼ばれ、ここ最近はずっと上皇と呼ばれていた者の姿を映していた。

 映像が終わった。一団の中でも一際陰気な顔の、というよりは陰気な顔をしようと努力していると思しき中年男が口を開く。

「映像を見ていると、陛下のお人柄が偲ばれるようです。宮崎さん。陛下が崩御されたときの状況というのは、どういうものだったんでしょうか」

 男の言葉に応じて、宮崎と呼ばれた男がしゃべりだした。この男は映像が流れているときからずっと難しそうに顔をしかめていたが、話し始めてみるとキンキンする声を無理に低く保って威厳のある話し方にしようとしていて、かえって滑稽だった。

「はい。陛下が倒れられたのは、公務で帝都交響楽団の九十周年記念式典にご出席されているときだったと聞いています。陛下は具合が悪いと周囲のスタッフに言われまして、そのまま急激に体調を崩されたとのことです。陛下はこの式典に出席される前日にも七つの公務をこなされるなど、精力的に活動されていましたので、まさかこのようなことになられるとは……」

「なるほど。突然のことに我々も驚き、また非常に悲しい思いです。上皇陛下崩御の影響で、各地ではイベントや式典の中止が相次いでいます。その様子を伝えてもらいましょう。現場の松田さん!」

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