誰にも迷惑をかけない高尚な死

 私は自身の死に際して、ここに遺書を記す。

 老体にすでに語るべきことなどないが、最後だと思って取り留めのない駄文にお付き合い願いたい。


 私は思想家として、常々「他人に迷惑をかけない生き方」をするべきだと説いてきた。古来より日本人というのは、自分や自分の家族の面倒を自分たちで見てきた民族である。それは今に残る、あるいは歴史上に見られる様々な文化から垣間見ることができる。

 その最たる例は、諸外国に比べ日本に使用人や女中の類が極めて少ないという事実である。欧米ではベビーシッターが一般的な職業であり、学のない移民たちにとって体のいい金儲けの手段となっているが、日本では未だにベビーシッターが普通の職業として定着しておらず、その立ち位置は金持ちが雇う特殊な職業かどうしても子供の面倒を見ることができないときに雇う例外的な職業といったところである。これはまさに、自分の子供の面倒を他人に任せず自分で見るという日本人の考え方を反映する事実といえよう。

 ベビーシッターだけでなく、家事代行サービスの流行らないこともこの事実の根拠となっている。「大掃除」という日本特有の考え方からもわかるように、日本人は家のことならば大抵のことは何でも自分でしてしまう。歴史ある寺院が年末に行う煤落としはこの極地であろう。並の人ではとてもではないが手の届かない高いところに溜まった煤や埃を、道具を使いながら僧侶たちが綺麗に落としていく。欧米諸国であれば無粋にも伝統的な城壁に足場を組んでシステマチックに片づけてしまうところだ。

 あるいは、日本人は自分で自分の面倒を見ることができるように文化を構築してきたと言い換えてもいいかもしれない。日本の家屋には煙突がない。これは長く狭い筒状の空間に溜まった煤を落とすことは並大抵の技術では不可能であり、誰かの手を借りなければできないことを昔の日本人はよく知っていたことの証である。日本の家が平屋ばかりであるのも、建物の高さが高くなればなるほど自分たちの手に負えない状態となることをよくわかっていたためであろう。

 自分の面倒を自分で見るということの終着地点は武士の生き様に現れる。切腹である。自身の失態を自身の命をもって償い、そこで終わりとする思想は日本独自のものである。諸外国であれば一族郎党皆殺しにしているところだが、日本人は寛容にも当人の命のみをもって幕引きを図るのである。

 面白いことに、ある犯罪心理学の研究によればこのような考え方は現代のテロリズムにすら見られるという。日本の伝統を重んじそれを死守することに命を賭した保守派のテロリストは犯行後に自ら命を絶つことが極めて多い。一方、海外の人権思想にかぶれ日本の伝統を軽んじる左翼テロリストや独自の世界を築くことで日本古来のありようを否定せんとする宗教テロリストの類は潔く命を絶つことをせずにおめおめと生き残る傾向にある。これは日本から逃げ出し生き永らえた日本赤軍のテロリストや、未だに拘置所で生き恥を晒税金を食い潰している某宗教団体の教祖を見ればよく分かることである。


 このように日本人は自身の面倒を自身で見るという美徳を生来より兼ね備えているのだが、しかし嘆かわしいことにこの美徳は失われようとしている。

 最大の原因は人権派の台頭である。神が与えたとする人権は西洋特有の思想であるにもかかわらず、無批判に我が国にこれを持ち込み絶対的正義であるかのように掲げる連中の増殖により今やこの国のありようがズタズタになっている。

 人権派の主張は基本的に他力本願である。金が足りないとなれば国にせびり、何か問題が起これば国に責任があるのだと責め自分たちでは何もしない。西洋の人権思想ですら権利の対価として義務を求めているというのに、私がある雑誌でそのこと説いたら「権利に義務は必要なし」とする反論(論をなしていないものに反論という言葉を使用するのはいささか不適当だと思われるが)が山のように押し寄せ眩暈を覚えたことがあった。そのときはこの国は終わりだと真剣に思ったものである。努力なくして成果なしという当然の理屈を弁えない者が国を占めることになれば日本は沈没するだろう。

 しかしその後の推移をみるとまだまだ日本は捨てたものではないのも事実らしい。ある調査によれば困窮者に生活保護を支払うべきであると答えた日本人はわずか十パーセントに満たない。この事実を報じるマスコミ(腐った人権派の根城である!)はとんでもないことが日本で起こっているかのように書いていたが、私はこのことを福音として受け取った。何もしていない人間が何も受け取らないのは当たり前のことである。金が要るなら仕事をすればいい。簡単な話である。そのことを私が昔あるテレビ番組で述べたところ病気で働けない人はどうするのだと厚化粧の女評論家が文句をつけてきたが、私は私の母は病気で一日のほとんどを寝ていたがそれでも毎朝の新聞配達と家事は欠かさず子供を育てたのだと言ってやった。その評論家の絶句した顔は今でも忘れられない。


 私自身のことに話を戻そう。遺書だというのに説教臭くなってしまうのは悪い癖だ。

 私は昨年、医師から末期のがんであると宣告された。余命は一年とちょっとであるとも言われた。抗がん剤治療をすればあと数年は人生を延長できると言われたが私はすっぱりと断った。抗がん剤を使えば金がかかる。副作用で満足に動けなくなり、最後には介護が必要になるとも聞いたことがある。私はそんな風にして誰かに迷惑をかけて死ぬのは嫌だった。なので残った人生を一年と定め、身辺をまとめた後にそこでキリよく終わらせることにした。

 私の後に続くもののために、自死を決めた後に私が苦労したことを最後に書き残そう。それは自死の方法を決定することだった。

 電車に飛び込んで死ぬのは言語道断だ。迷惑をかけないために死ぬのにその最後で迷惑をかけてしまってはとんだお笑い草だ。あんな死に方は最後の瞬間すら自分の面倒を自分で見られない愚か者の結末である。

 飛び降りも選びかねる方法だ。落ちた先に人がいて自分が助かり、下にいた人が死んだという悔やむに悔やみきれない結末を聞いたことがある。そうでなくとも私の墜落死体を見た人間にあらぬ恐怖を植え付ける結果になってしまうだろう。警察も一辺通りの捜査はしなければいけないだろうし、そうなれば私が最も嫌う税金の無駄遣いということになる。

 首吊り、服毒、割腹、練炭による窒息なども考えたがこれも問題があった。家でやれば家人に後片付けやらなんやらで迷惑がかかる。家が事故物件と呼ばれるのも不服だ。外でやっても警察のご厄介になるし、無関係な人間に死にざまを見せてしまってもまずい。これでは飛び降りと変わらない。

 いろいろと考えた結果、死体が誰にも目につかず自然に還っていくような方法が最も良いのではないかと結論を出した。手段としては森のような場所に入るか、入水である。しかし森は良くないだろうと予想できる。もし遺書に森で死ぬなどと書いてあれば警察やレスキューはやはり一応探してみなければということになるだろう。私はかつて遭難者からレスキューにかかる費用を徴収せよと書いたが、その理屈でいけば親族に私の死体回収にかかった費用が請求されることになる。迷惑千万である。

 入水ならその心配はない。深く流れの速い川であれば捜索は物理的に不可能である。救助隊はとりあえず探し出す手段を検討はするだろうが、結局早々に諦めることになる。そうすれば誰にも迷惑がかからない。死体が上がらなければ葬式をすることも墓を建てることもない。


 以上の結論をもって、私は都内のS川にその身を沈めることにした。こういう事情だからこの遺書を読んでも警察に知らせなくてよいし、葬儀屋に電話する必要もない。これを読んだ人はあぁついにあの爺は死んだのかと漠然と思ってくれればそれでよい。



…………

「いやぁ今回の捜索は大変でしたね先輩」

「全くだ。なんでこんな急流にわざわざ身投げするんだろうな。池とかなら楽に死体が上がったのに」

「長い間水の中だったからぶくぶくに膨れちゃって、しかも腐敗で散り散りになって最後の指一本まで探すの苦労しましたよ。あんな遺体を確認する遺族はたまったもんじゃないですよね」

「そうだなぁ。でもあの人は偉い先生なのか? テレビじゃ随分取り上げてたけど」

「知らないんですか? まああまり万人受けする人ではなかったみたいですけど……葬式にはいっぱい人が来たとか、墓にもお参り来る人がちらほらいたとか」

「それだけならいいが、ここ数日水死体の目撃件数が急増してるんだよなぁ。アイドルが死んだときにも似たようなことがあっただろう。群発自殺って言うんだって?」

「お、物知りですね先輩」

「そりゃこんな仕事してるとな」

「でもこのあの人が死んだせいで後追いした人がいるなら、周りからすればいい迷惑ですよね」

「本当だよ。素直に病死してくれればいいのに、迷惑なことだ」

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