第96話 3+1+1+1
翌日から、部活は試験休みに入った。ということで津々実と一緒に帰れるのだが、みぞれはひとりで帰ることにした。津々実と違う道を歩いてみたかったからだ。
「いや、そういう物理的な話じゃなくない?」
と津々実は指摘した。みぞれも、そんなことはわかっている。だが何か具体的な行動を起こさないと、先に進めない気がしたのだ。
津々実とも部活メンバーとも一緒でない帰り道は静かだった。周りの声や車の音がよく聞こえる。道路の色や住宅の植込みがよく見える。感覚が研ぎ澄まされたような気持ちになった。
なにより、悩みと向き合うのに都合がよかった。頭を使わない単純作業は、頭を使うときのお供にちょうど良い。駅まで歩くという行為は、まさにそれだった。
みぞれにとっては、懐かしい感覚でもあった。津々実と出会って以来の自分は、ほとんど常に誰かと一緒にいた。津々実と一緒にいるか、慧や伊緒菜と一緒にいるか、あるいはQKの試合相手と向き合っているか。誰とも一緒にいない時間は久しぶりだった。
だからこそ、みぞれは自分自身の変化に気がつけた。
以前の自分なら、ひとりでいるときは、どこか不安だった。元々友達の少ないみぞれは、ひとりでいることが多かったので、ほとんどの時間を鬱々として過ごしていたことになる。
だが今は違う。ひとりでいても、前向きな気分だった。それは、津々実が、伊緒菜が、慧がいてくれるからだ。物理的にそばにいなくても、心の支えとしていてくれる。三人ともみぞれを心配してくれて、相談に乗ってくれることを、みぞれは信じている。だから安心できた。
この変化にみぞれ自身も驚いていた。自分も、ほんの少しだけ、前へ進めていたのだ。
今までは、誰かの真似をすることで安心していた。でも、そんな必要は、もうない。みぞれは安心して悩みに向き合えた。
とはいえ、ひとりで立ち向かった経験の乏しいみぞれは、まだ誰かのアドバイスに頼るほかなかった。だから伊緒菜の言う通り、津々実にできないことをやってみようと思った。
津々実は、何ができないだろうか?
それを考えるうちに、みぞれは、自分が津々実のことを半分しか知らないことに気がついた。
津々実にできることはよく知っているが、できないことはほとんど知らない。できないときには誰かに相談していることすら、つい二日前まで知らなかったのだから。津々実のことをよく観察しているつもりで、片面しか見えていなかった。
もっともこれは、みぞれの観察力が低かったからではなく、津々実の演技力が高かったからである。津々実はずっと、みぞれの前で見栄を張っていたのだ。みぞれはやっと、そのことに気が付いた。
「つーちゃんの苦手なことってなに?」
『またストレートに聞くね……』
その夜もまた、みぞれは自分の部屋で津々実と通話していた。スマホの向こうの津々実は、恥ずかしそうにしていた。
「この間、自分にできないことは人に相談するって言ってたよね。今まで、どんなことを相談してたの?」
みぞれが具体的に尋ねると、津々実は、
『できなさそうなことにはそもそも手を出さないから、相談する機会も少ないんだけど』
と前置きした。話しているうちに思い出そうとしているようだった。
『みぞれのことを慧に相談したし、服の作り方なんかもよく部長に相談してるけど。あとは、うーん……』
津々実はしばらく考えてから、『ああ、そうか』と閃いた。
『こうやって、すぐに答えが出なさそうなものは、どんどん人に聞いてる。その方が楽だし早いからね』
それもまた、みぞれには意外な回答だった。
「つーちゃんでもすぐに答えが出ないことなんてあるんだ」
『たまにね』
「いつも、なんでもパッと閃いちゃうのに」
『逆にそのせいだと思うんだ。たいていの問題は、すぐに答えが閃くか、いくら考えても全然わからないかのどちらかなんだよ。スポーツとかも、ちょっとやればすぐコツを掴めるけど、そのあと特訓して上達するのは苦手、って感じかな』
言われてみると、津々実は勉強もスポーツもゲームも、人並み以上にできる。でも、「津々実が得意なスポーツは何か」と聞かれると、これと言ったものはない。
「お裁縫やお料理は?」
『あれも部活じゃ苦戦してるよ』
津々実は照れ笑いで誤魔化しながら続けた。
『今まではずっと、みぞれが喜ぶ服やお菓子を作ってただけだから。そのラインを超えるのは、意外と難しい』
「そ、そうだったんだ」
みぞれも急に恥ずかしくなった。
『みぞれに似合う服はいくらでも作れるけど、他の人に似合う服ってなるとね。ただ、服作りは楽しいから、続けたいと思ってる。あたしが初めて、特訓したいと思えたことかもしれない』
みぞれは照れ臭さを隠すように言った。
「じゃあ、わたし、何かひとつの問題を考え続けてみる」
『あたしの苦手なことをやるならそうなるけど……なに考えるの?』
考え続けるといっても、テーマがなければどうしようもない。目下の悩みは進路だが、その悩みの解決のために、別の何かを考えたい。
不意にみぞれは、最近気になった問題があったことを思い出した。
「五つ子素数が六つ子素数にはならないのって、なんでかな?」
『なんて?』
みぞれは問題を説明した。
「四つ子素数の中には、
『それはそうでしょ、だって……』
言いかけて、津々実は口をつぐんだ。
『いや、なんでもない』
「むう、すぐわかっちゃうことなんだ」
『で、でも、みぞれはわかってないんでしょ? なら考えてみたら? それで何か掴めるかもしれない』
進路票の提出まで、あまり時間もない。他になにも思いつかないみぞれは、この問題に挑戦してみることにした。
ひとつの問題を一週間考え続けたことなんてなかった。もちろん、常時考えていたわけではない。生活の隙間時間で、思索を巡らせただけである。それでも、みぞれにとっては初めての体験だった。
そして試験は、明日に迫っていた。いまだに白紙の進路票は脇に置き、みぞれは英語の勉強をしていた。
時刻は深夜。机の真ん中に問題集とノートを広げ、左端に津々実と通話中のスマホを置いていた。繋がってはいるが、話してはいない。時々、津々実が紅茶を飲む音が聞こえてくる。みぞれがノートを捲る音や、外を走る車の音も、津々実の方に届いているだろう。
みぞれは勉強に集中していた。それは半ば現実逃避だった。進路票のことはあとで考えることにしていた。勉強が済んでから、問題が解けてから……。
だから、津々実が、
『あ、みぞれ』
と話したとき、みぞれは驚いてペンを取り落とした。
『大丈夫? なんか落とした?』
「へ、平気。なに、つーちゃん?」
『時計見てごらん』
スマホ画面を見た。時刻は深夜0時を回っていた。
『誕生日おめでとう』
みぞれは16歳になっていた。今日は12月13日、みぞれをQKと出会わせた日付だった。
「なんか今日はあんまり嬉しくない……テストだし、締め切りだし」
津々実は苦笑した。
『あとでプレゼントあげるから元気出して』
「出ない〜。問題も解けてないし」
『六つ子素数のやつ? どうやって考えてるの?』
津々実は、答えを言いたいのを我慢している風だった。
「ひとまず、四つ子素数の中でKをつけても素数になるやつを探したの。あまり多くなかったけど、8272Kとか、9784Kとかは素数になった」
『ふんふん、それで?』
「そういうののKをJに変えてみたら、たしかに素数じゃなくなった。しかも、全部3の倍数になったの。でも、なんでそうなるのかがわからない……」
津々実は何かを考えていた。ヒントを出そうとしているようだった。
「なにも言わないで。自分で考えるから」
『そう? わかったよ』
それからしばらく話したあと、通話を切った。みぞれはノートと問題集をしまうと、寝支度を始めた。
結局、問題はまだ何も解決していない。六つ子素数のことも、進路のことも。このまま津々実と同じ文理コースへ進むのが一番だろうか……。
自分のことを自分で決めるのが、こんなに悩ましいことだとは思っていなかった。今までずっと、誰かの真似をしていたから。みんなすごいな、とみぞれは津々実たちに改めて尊敬の念を抱いた。
そしてみぞれは夢を見た。三人に置いていかれる夢だ。津々実も伊緒菜も慧も、遠くへ行ってしまう。
一番近いのは慧だった。でも、こっちは向いていない。どこか遠くの方を見つめ、そこへ向かって歩いている。目的地は見えない、でも確実にそこにあるのがわかっている。そんな足取りだった。
次に近いのは伊緒菜だった。どこに向かうのか知らないが、いつも通り余裕の笑みを浮かべている。どこへ行っても自分なら勝利を掴めると確信している、そんな顔だ。
一番遠くにいるのは、津々実だった。いつまで経っても、憧れの存在であることは変わらない。みぞれのことを気にかけて、手を伸ばしてくれる。でもその手は遠くて眩しくて、なかなか届かない。
みぞれは少し、道を外れようと思った。三人のうしろを追いかけるのではなく、違うところから三人を見つめてみたかったから。
次の瞬間、みぞれは空高く浮かんでいた。そうして、三人の歩く姿を、上から見下ろしていた。
不思議な道だった。赤と黒のまだら模様で、真っ直ぐな細い道だけど、すごろくの道のようにマス目があった。そこには順番に、トランプのカードが描かれていた。
A、2、3、4、5、6、7、8、9、T、J、Q、K、A4、A5、A6、……。
赤いのは素数で、黒いのはそれ以外だと、すぐにわかった。
三人とも歩いているが、四人の距離はずっと変わらない。みぞれが3の真上に来ると、慧は6、伊緒菜は9、津々実はQ。みぞれが5の真上に来ると、慧は8、伊緒菜はJ、津々実はA4。常に3ずつ増えていた。
三人の姿を眺めているうちに、みぞれは
TXは四つ子素数だ。そして今、TAとT7が同時に踏まれ、T3とT9がやはり同時に踏まれた。
このときみぞれは、あることに気がついた。
同時に踏まれる数には、共通点がある。
3と9は、どちらも3の倍数だ。そしてAと7は、どちらも3の倍数に1を足した数だ。同時に踏まれる数は、3の倍数に何を足すかが一致している。
じゃあ、
Jは3の倍数に2を、Kは3の倍数に1を足している。
つまり、素数の一枚目となりうる六種類のカードは、次の通りに分類できる。
{3、9}は3の倍数。
{A、7、K}は3の倍数に1を足した数。
{J}は3の倍数に2を足した数。
いや、この六種類だけでない。全ての数は、この三つのどれかのグループに属するはずだ。
ところで、六つ子素数の親になるためには、そもそも四つ子素数の親でないといけない。そのためには、後ろに3の倍数をつけても、3の倍数に1を足した数をつけても、素数にならないといけない。
親が3の倍数だったら、{3、9}をつけたときに、3の倍数になってしまう。
親が3の倍数に2を足した数だったら、{A、7}をつけたときに、3の倍数になってしまう。
つまり親は、3の倍数に1を足した数でないといけない。
ではそのような数の後ろにJをつけたらどうなるか?
3の倍数に1を足し、さらに1を二回足すことになる。すると、3の倍数に3を足すので、結局3の倍数になる。だから、四つ子素数の親にJをつけたら、3の倍数になる。
これが、六つ子素数が存在しない理由だ!
不意にみぞれは、目を覚ました。いま考えたことを、忘れないように反芻する。
六つ子素数の親になるためには、大前提として、四つ子素数の親にならなくてはいけない。そのためには、親は3の倍数に1を足した数でないといけない。でも3の倍数に1を足した数に
みぞれは何度も何度も頭の中で繰り返した。どこかが間違っていないか、何度も確認した。
十回か二十回確認したところで、みぞれはようやく確信した。
どこも間違っていない。
やがてみぞれは、身震いするような感動を覚えていた。
自分はいま、QKの、数学の定理を発見した。津々実はとっくにわかっていたし、きっと伊緒菜も慧も知っていた。だけど、それを自分で発見したことに意義があった。
だって、これは、絶対に正しい。自分は今、絶対的な正しさを手に入れた。
みぞれは枕元のデジタル時計を見た。
12月13日、午前6時39分。
16歳の誕生日の朝。
みぞれは、数学の道へ進むことを決意した。
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