第95話 5101
「慧ちゃん、もう大学まで決めるの?」
部室では相も変わらず、伊緒菜が大学情報誌を開いていた。しかし、それを熱心に見ていたのは慧の方だった。部室にやってきたみぞれは、二人のそんな状態を見て首を傾げた。
「まだ決めないけど……でも、もう方向性は決まったから」
「方向性?」
「うちから遠くて、数学科のある女子大に行く」
慧は決意のこもった声で言った。伊緒菜が何かを察したように言った。
「割と選択肢は絞られそうね。そもそも、数学科のある女子大自体が少ないし」
「なんでそんな風に決めたの?」
みぞれはまだあまり状況が飲み込めていなかった。慧は端的に答えた。
「家族と距離を取ろうと思って」
「え」
「その方が数学しやすいと思ったの」
決意した、というより、悟ったような態度だった。決して後ろ向きな姿勢ではなく、前向きな決断だと二人には伝わった。
「そうなんだ……じゃあ、その方がいいね」
みぞれは慧を肯定した。状況はやはりよくわかっていなかったが、慧が数学を好きなことはとてもよく知っている。その慧が数学に打ち込めるのなら、そっちの方がいいに決まっている。
「ありがとう」と慧は微笑んだ。「みぞれちゃんならそう言ってくれると信じてた」
「え、そ、そう?」
「うん」
慧は長い髪を指先でいじった。
「私、みぞれちゃんには感謝してるんだよ」
「え? なんで?」
「だってほら、私が数学が好きだとわかっても、引かないでいてくれたでしょ? そのおかげで私、堂々と数学をやる決心が持てたの」
みぞれは驚いていた。みぞれにとって、「数学好き」は引くようなことではなかった。むしろ尊敬することだった。それが慧を勇気づけられていたのだと知って、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった。
「全然気づいてなかった」
「やっぱり」
と笑う慧も、照れくさそうだった。指先に髪の毛を巻き続けている。
ふと気付くと、伊緒菜がにやりと笑いながら慧を見ている。慧もそのことに気付くと、伊緒菜はなお一層笑った。
「じゃあ、私は? 私も引かなかったけど?」
「伊緒菜先輩は……からかってきりしたからダメです」
「なんでよ」
わざとらしく唇を尖らせる伊緒菜を見て、二人とも笑った。
「そういう伊緒菜先輩は、大学決まったんですか?」
慧が聞くと、伊緒菜は腕を組んで情報誌を見た。
「それがねー……」
とだけ言って、黙ってしまった。
「決まらないんですか?」
「選択肢が多すぎるのよね。そのせいで目移りしているわ」
みぞれは意外に思った。
「伊緒菜先輩、いつもはなんでもすぐ決めちゃうのに……」
「そうね。でも原因もわかっているわ。単に情報不足なのよ。私が大学についてまだほとんど詳しくないだけ。冬休みにでも本腰入れて調べれば、遠からず決められると思うわ」
伊緒菜は楽観的だった。自分という人間をよく理解しているのだ。だから対処法もわかるし、焦らずに済んでいる。
みぞれとは大違いだった。
「さて、そろそろ部活を始めましょう。試験前にできるのは、もう今日と明日だけなんだから」
試験前の一週間は、部活禁止である。来週はいよいよ学年末試験なのだ。伊緒菜は「まずはウォーミングアップの一戦」と言ってトランプを配った。
みぞれは手札を見た。QKと出会って八ヶ月ほど。この手札から出すべきカードの選択も、いまだに迷うことが多い。それでも、進路選びよりは簡単だと感じていた。
「っていう話をしたの」
その夜、みぞれは津々実との電話で、今日のことを話した。慧の決断のこと、伊緒菜の理解のこと。
「二人ともすごいよね、自分のことをしっかり自分で決められて。わたしなんて……」
『真似ばっかり?』
「うん」
『それが必ずしも悪いことだとは思わないけど』
う〜む、と津々実は唸った。
『でもさ、QKの試合中は、自分が出すカードを自分で決めてるでしょ? あれはどうやってるの?』
「あれは……」
答えようとして、みぞれは詰まった。説明が難しい。
すると津々実が先に答えを言った。
『たぶんだけど、結果から逆算して決めてるんじゃないかな。相手に勝つためには、最後にこれを出さないといけない。だからそれを出せる状況を作らなきゃいけない。そのためにはこれを出さなきゃいけない……って感じで』
それは腑に落ちる説明だった。みぞれは電話口で大きく頷く。
「うん、うん! そんな感じだと思う!」
『じゃあさ、今回もそれをやってみればいいんだよ。みぞれが得たい結果から逆算して、行動を決めればいい』
「それ、前にも聞いた気がする」
『そうだっけ? 覚えてないけど、あたしが何か決めるときは大体こうやって決めるからね。言ったことあるかも』
いや、違う。津々実から直接聞いたわけではない。みぞれの頭の中でシミュレーションした津々実がそう言ったのだ。みぞれはそのことに気が付き、自分の観察がかなり正確なものであることを知った。
『問題は、みぞれの得たい結果が……』
津々実は言い淀んだ。
文化祭のとき、みぞれは言った。自分は自信が欲しいのだと。しかしそんなものは、選ぶ進路で左右されるものだろうか。
「……ごめんね、つーちゃん。変な相談に巻き込んで」
『いや、いいよ。たしかにかなり抽象度高くて、難しい問題だけど』
哲学的には面白い問題だが、現実的な問題として立ち向かうには、二人はまだ未熟だった。
『もっと頭の良い人に相談したいところだね』
津々実がぽろっと吐いた言葉を、みぞれは意外に思った。
「つーちゃん、誰かに相談したりするの?」
『たまにはね』
みぞれはしばし、次の言葉が出てこなかった。津々実が誰かに相談しているところなんて、見たことがなかった。
「なんでもかんでも一人でできるんだと思ってた」
『そうだったらよかったけどね』津々実は恥ずかしそうに答えた。『あたしはたいていの場合、自分でできることしかしないから。だからあまり人に相談することはないんだ。でも、自分にできないことをどうしてもやりたいときは、誰かを頼ることにしてるよ。……みぞれのこととか』
「え、わたし?」
『うん。ごめん、実はみぞれの進路とかのこと、一度慧に相談してるんだ。具体的な解決策は出なかったけど……』
「全然気づいてなかった」
津々実は苦笑した。
『だからさ、みぞれ。あたしの真似をするんなら、伊緒菜先輩にも相談してみたらどうかな?』
伊緒菜も進路に悩んでいたが、みぞれよりは余裕がありそうだった。今度折りを見て相談しよう、とみぞれは思った。
翌日は、試験前最後の部活だった。
いつものように始まったウォーミングアップの一戦は、ウォーミングアップとは思えないほど白熱していた。
伊緒菜が一度、A729で革命を起こした場を、慧が再び革命を起こし、元に戻していた。伊緒菜は読みが外れたようで、珍しく追い詰められていた。それはみぞれも同様で、絵札をほとんど使っていた。
今はみぞれの手番。場にあるのは慧の出した825
みぞれの手札も四枚。4、7、8、9だ。これはドローで勝てる見込みが高い。
山札から一枚引くと、Jが得られた。みぞれはそれを、そのまま並べて出した。
「9784
伊緒菜は見るなり言った。
「ふぅん、手札がないのね」
「え?」
自分が出した手札を数秒じっと見つめて、みぞれは「あっ」と言った。
「間違えました……」
すごすごと手札を戻す。
9784は、後ろに1、3、7、9のどれをつけても素数になる。さらにKをつけても素数になる、五つ子素数の“親”である。だが、Jをつけたときだけは素数にならない。
みぞれがペナルティを引き終わると、伊緒菜も一枚ドローした。そして、
「助かったわ。Tが引けた」
と言って場に五枚出した。98T37。素数だ。
「ぎりぎりで私の勝ちね」
「手番が回っていれば勝てたのに……」
慧が広げた手札は、 4、8、J、ジョーカー。分の良い賭けだったが、伊緒菜のドロー運の方が良かった。
「今のはどうしたらよかったんでしょう?」
「その手札なら、革命を返す必要なかったんじゃないの?」
感想戦を始めた二人の横で、みぞれは普段よりも落ち込んでいた。と言っても、負けたことに落ち込んでいたのではない。ここ最近、自分が何にも集中できなくなっていることに気がついたからだ。
五つ子素数の“親”にJをつけても、決して素数にならない。理由は知らないが、それはQKプレイヤーにとって常識だ。それを忘れるくらい、みぞれは集中力を欠いていた。
「なんだか元気ないわね?」
みぞれの様子が普段と違うことに、伊緒菜は気がついた。
「そうですね、少し……」
とみぞれは認めた。
「まだ、進路希望が決まってなくて。来週、提出なのに……」
「なかなか難航してるわね」
「つーちゃんに相談したら、『やりたいことから逆算したら?』って言われたんです。でも……」
「やりたいことがわからない?」
みぞれは首を振った。
「やりたいことは、わかってきたんです。でも、それをどうやればいいかが、わからないんです」
「……詳しく」
「わたし、やっぱり、自分に自信がないんです。だから、自信をつけたい。自分が正しいと思えるようになりたいんです。……どうしたらいいですか?」
「……」
伊緒菜ですら絶句した。
「それは……難しい問いね」
腕を組んで首をひねった。一方で、慧はその問題に答えを持っていた。
「正しいと思う必要がないと思う」
「え? でも……」
「私は、自分が正しいことをしているなんて、思ってない」
慧の物言いは冷たかった。冷たいというより、冷めていた。その問題について、慧は既に散々考えてきた後なのだ。
「だからと言って、間違ったことをしてる、と思ってるわけでもないわよ。正しいか間違ってるかなんてこと、気にしないことにしたの」
「それができれば、いいけど……」
その達観は、みぞれにはまだ遠かった。
「私も似たような考えかもしれないわね」
と伊緒菜も言い出した。
「進路について言えば、私は正しいと思って文系を選んだわけじゃないもの。数学をやりたくなかっただけ」
慧が不服そうに睨んだ。
「でも、結果的にこれで正しかったと思ってる。政治経済とか、歴史とか、かなり面白いし。将来はその方向に進んでもいいかもしれないね」
「伊緒菜先輩、政治家になるんですか?」
「そういうわけじゃないけど。何が言いたいかというと、まずは選んでみて、あとから正しい理由を探すのも悪くないんじゃないかしら」
「その考え方の人が政治家になるのはまずいと思います」
と慧が突っ込む。
「だから、そんなつもりはないって。なったらなったで、その道が正しかったと思うかもしれないけど」
「どうしてそんな風に思えるんですか?」
「そうね……」
伊緒菜は腕を組んだ。
「何か深く考えてるわけじゃないわ。選んじゃったんだから仕方がない、と思っているだけよ。その道で、自分にとってポジティブな要素を無理やり探してるだけ」
割り切った考え方だった。みぞれにそれができるだろうか。
「とはいえ、事前にできる限り情報を集めることにはしてるわ。そして、得られた情報の中で最善手を選ぶ。ゲームと同じよ。周囲の情報から最善手を推理して行動すれば、結果的にそれが最善であることが多いわ」
「わたしにそんなことできるでしょうか」
「できると思うわよ。QKやってるときはできてるでしょ?」
「トランプではそうかもしれませんけど……」
受け入れられずにいると、伊緒菜は一呼吸おいてから言った。
「みぞれは、自分に何もできないと思ってるようだけど……それってたぶん、津々実のあとを追いかけすぎてるからじゃないかしら」
「つーちゃんの?」
「ええ。津々実の真似をしようとしても、完全には真似できないせいで、劣等感を抱いているのよ。だけどそれって、津々実ができることを真似ようとしてるせいで、そうなってるんじゃない?」
似たようなことを、QK大会で肇も言っていた。人真似しても、劣化コピーにしかならないと。みぞれはそれを覚えていたが、それが自身の劣等感の理由とは思っていなかった。
「だから、津々実にできないことなら、みぞれの方が上手くできるかもしれないわ。ほら、初めてQKをやったとき、あなたは既に津々実に勝ってたじゃない」
たしかにあのとき、みぞれは少しだけ自信が湧いた。だから津々実と違う道を選んで、QKの道に踏み込む勇気が持てた。
伊緒菜の指摘は、一点だけ間違っている。みぞれは津々実に会う前から、劣等感が強かった。津々実と出会ったおかげで、自信を持つための道標を手に入れたように感じたのだ。
しかし今、その道標に逆らうべきときが来たのかもしれない。自分は既に、一歩だけ道を外れている。あともう一歩が必要なのだ。
帰り道は雪が降りそうなくらい寒かった。日は沈みかけ、空も曇っている。それを見上げて、みぞれは二人に言った。
「わたしの名前、『みぞれ』ですけど」
「そうね」
「前にお母さんに、なんで『みぞれ』なのって聞いたら、意味のない名前をつけたかったから、って言われたんです」
「うん?」
伊緒菜も慧も、文意を汲み取れなかった。「みぞれ」に意味がないわけではない。雨と雪が混じった天気のことだ。
「どういうことかしら?」
「子供の名前には親の願いがこもるけど、お母さんは願いをこめたくなかったらしいんです。親の願いを気にせずに、自分の考えで生きて欲しいからって。それで、わたしが生まれた日に見たものの中から名付けたんだって」
「ふぅん……良い話じゃない」
伊緒菜は相槌を打ってから、
「ん? でもそれって、結局願ってることにならない? 『自分の考えで生きろ』って」
「そうなんです。わたしもそう言ったら、お母さんは『あ、本当だ』って笑ってました」
「あのお母さんならそう言いそう」
慧はみぞれの母親を一度しか見てないが、笑って誤魔化す様子は簡単に想像できた。
「だけど、どうして自分の考えで生きなきゃいけないんでしょう。どうして自分で決めなきゃいけないんでしょう。誰かの真似をしてたっていいんじゃないでしょうか……」
何歩か歩く間、二人とも黙っていた。
「ダメってことはないでしょ」と伊緒菜が言った。「ただ、みぞれがそれで、満足できなくなってるってだけよ」
「わたしが……」
みぞれはそれきり、駅まで押し黙ってしまった。
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