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 信長はスクッと立ち上がり、紅は視線を落としたまま、信長の後ろに続いた。


 もうこれで、紅と逢うこともないのかもしれない。


 寂しさに押し潰されそうになりながらも、私はその後ろ姿を見送るしかなかった。


 ――4月、長良川の戦い――

 信長は斎藤道三救援のために、紅と共に木曽川を越え美濃の大浦まで出陣。紅にとってこれが初陣となった。


 “しかし到着した時には、斎藤道三は子息である斎藤義龍さいとうよしたつにすでに敗れ戦死を遂げていた。”


 清州城にいた私にも、その訃報は届いた。蝮と恐れらた斎藤道三が、我が子に死に追いやられるとは……。


 偽りの間柄とはいえ、父である斎藤道三を失い、戦国の世の無情に涙した。


 紅も私の側から退き、信長と共に合戦に同行している。2人が常に命の危険に曝されていることを改めて痛感する。


 不安な私の心を慰め、心の隙間を埋めてくれたのは、帰蝶の従兄弟である明智光秀からのふみだった。


 光秀からの文は、信長に輿入れした翌月より年に数通届いた。その内容は、常に私の体調を案じ、文面の最後には【何かあらばすぐに馳せ参ずる】と書かれていた。離れていても、その言葉が何よりも心強かった。


(光秀殿……)


「於濃の方様、土田どた御前様のお成りでございます」


 襖越しに声を掛けられ、光秀からの文を急いで片付ける。


(土田御前様……)


 土田御前は信長の生母。

 信長と反りが合わず、弟信勝のぶかつを溺愛していた。


 土田御前の待つ座敷に出向き、私は深々と頭を下げる。


「そなたの父上であらせられる斎藤道三殿ご逝去に際し、お悔やみを申し上げまする」


 土田御前は私を真っ直ぐ見つめ、さらに言葉を続けた。


「このような時に酷ではあるが、そなたはいまだに子が授からぬ。侍女に聞くところによると、信長ともう何年も夜伽をしておらぬそうじゃな」


(……申し訳ござりませぬ)


「正室が子を成さねば家督争いの火種となりましょう。それはお分かりですね」


(……はい)


「この度、信長が見初めた女子おなごを正式に側室とすることと相成った。名は生駒吉乃いこまきつのと申す。吉乃が男子おのこを産めば、織田家の世継ぎとなる。それが意にそぐわねば、信長を引き止め夜伽に励むがよい」


 土田御前はそう言い放つと、侍女と共に座敷をあとにする。


 信長に側室……。

 戦国の世に複数の側室を持つことは珍しいことではないが、信長が見初めた女性であるならば、体だけではなく心まで奪われたも同然。


 土田御前は斎藤道三が亡くなり、子も生めない人質は、もう価値はないと仰られたに過ぎない。


 子が出来ないなら信長と離縁しろと、遠回しに宣告されたのだ。

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