第30話 乾杯
私には十歳上の、年の離れた兄がいました。
兄は弓矢の名手で、国が主催するアーチェリーの大会で優勝するほどの腕前でした。
父が王宮の兵士だったこともあり、将来はアーチャー部隊の隊長にもなれるだろうと期待されていたのです。
兄はよく小さな果物を的にして、私に技を披露してくれました。射抜いた果物は、必ず兄と一緒に食べていました。私はその瞬間が大好きでした。
事件が起きたのは私が四歳、兄が十四歳だったころです。
その日、両親はなんらかの用事があって、兄と私は家で留守番をしていました。
留守番にも飽きてしまい、私は兄の弓矢の技が見たくてたまらなくなりました。ですがその日は、家に果物がありませんでした。
そこで私は兄の目を盗んで家を飛び出し、近所にあった森へと入ってしまったのです。森になら木の実があるだろう。そんな安易な考えによる行動でした。
その森は野犬がうろつく、とても危険な森でした。そして案の定、私は野犬と遭遇してしまったのです。
ですが、弓と矢を持った兄が駆け付けてくれました。ただ、兄はなぜかその弓と矢を使わず、襲ってくる野犬にナイフで応戦していたのです。後になって知ったことですが、このとき兄は野犬に恐怖してしまい、弓と矢を構える動作が遅れてしまったらしいのです。
兄はナイフを振り回していましたが、凶暴な野犬は臆する様子もなく襲ってきます。そしてついには、兄の左腕を野犬が噛みつきました。
そのとき、噛みつく野犬の顔にナイフを突きたてようとした兄は、誤って自分の腕を刺してしまったのです。
野犬はどうにか追い払うことができましたが、兄は刺してしまった左腕を右手で押さえながら、その場にうずくまってうめき声をあげました。
私はというと、何もできずにただただ泣いているばかりでした。
しばらくして、兄は顔全体を汗で濡らしながらも、どうにか立ちあがったのです。
しかし、さらなる不運が起こります。というよりも不注意といえばそれまでですが、兄も私も街の方向を見失ってしまったのです。
左腕から大量の血を流しながら、兄は森を彷徨いました。そんな兄の後ろを、私は泣きながらついていくことしかできませんでした。
家にいない私たちに両親が気付いたのは、私たちが森に入ってから五時間以上経ってからでした。それから街の捜索隊が編成されて、私たちが発見されたのは十時間後。兄がナイフで腕を怪我してから、十五時間も経過してしまったのです。
あの事件で兄の左腕から自由が奪われ、弓を持つことができなくなりました。
それ以来兄は、事あるごとに私を責めるようになりました。責めた後に必ず、「ごめん。クランベルのせいじゃないんだ。本当にごめん」と言って、泣きそうな顔で笑いながら、私の頭を撫でました。
そんな日々に耐えられなくなったのでしょうか。それとも生き甲斐を失ったからでしょうか。兄は三年後、自らの命を絶ってしまいました。
四歳だった私にはわからなかったことですが、年齢を重ねるにつれて知ったことがあります。
兄の腕が治せなかったのは、発見の遅れが最大の原因だったこと。もしも応急処置がしっかりしていれば、左腕の自由を失わずに済んだかもしれないこと。
真実を知るにつれ、私は自分を責めました。落ち込みすぎて、体調を崩してしまうほどでした。そんなとき、マリス先生のいた病院を訪れたのです。
当時、マリス先生は王宮の近くにある大きな病院に勤めていました。
精神的に沈んでいた私に、マリス先生はこう言いました。
「立ち止まって過去を見つめ直すのはいい。だけどそれは、前を向いて歩きはじめてからにしなさい」
意味はわかるけど、意味不明。私はそう思いました。当時の私は、前向きな考え方が一切できなかったのです。
私の病気は精神的なもので、完治には時間がかかるだろうと言われていました。そのため、私は何度も病院へ通うことになったのです。
そんなある日、偶然にも兄と同じような怪我を負った兵士さんが、病院に運び込まれてきました。いや、兄よりもひどい状態でした。怪我をした左腕は今にも千切れてしまうのではないかと思うほどの、深い傷だったのです。
ですが一ヶ月後、私がもう一度診察を受けに病院を訪れたとき、その兵士さんがマリス先生の手を取って感謝の意を述べていました。マリス先生の手を取っていた兵士さんの左腕は、何事もなかったかのように繋がっていたのです。
医療術師になりたい。そのとき私はそう思いました。
医療術師を目指すことは、マリス先生の言うように前を向いて歩くことに繋がるんじゃないかって。
その瞬間、ずっと沈みっぱなしだった私の心が、宙に浮かんでしまうかと思うほどに軽くなりました。
そして私は、マリス先生の言葉の真意に気付きました。前向きに生きろという啓発的な意味ではない。過去という名の足かせを外し、前を向いて歩いてもいいのだと諭してくれていたのです。
「なぜそこで、医療術師になりたいと? 死んだ兄が返ってくるわけでもないのに」
「え? それはその……。兄と同じような傷を負った人を治せる技術をですね……身につけられればってことでして……」
私としては話せる過去は全て晒したし、医療術師を目指した理由だって、話を聞いていればわかるはずだと思っていました。それなのになぜか、ストラツさんは理由を追及してきます。
「で? こうやって医療術師として仕事をしたわけじゃん。それなのになんで昔と変わんないとか言っちゃってんのよ、クラちゃま」
クラちゃま……。いつの間にかオライウォンさんに、変なアダ名を付けられてしまいました。
「えっと……。つまり……。兄が腕を怪我したとき、私は泣いてばかりで何もできなくて。今回だって、その……結局デリミタ君を助けることができなくて……」
「兄の怪我のときは何もできなかったんだろ? それが悔しくて、クランベルは努力した。その結果、今回の治療では最善を尽くせたじゃないか。結果がどうあれ、できることは全てやりきっただろ。それを見届けたから、俺たちはクランベルを称賛してるんだぜ」
アグラさんの言葉が耳に届いた瞬間、泣きたくもないのに涙があふれて止まらなくなりました。
ストラツさんもオライウォンさんも、そんな私に微笑みかけてくれています。
懸命に医療魔術を学んできたけど、結局はデリミタ君を救えなかった。私は無力だった四歳のあのころと、何も変わらない。そう思っていました。
いいのでしょうか。できることはすべてやり遂げたのだと、思ってもいいのでしょうか。あのころとは違うと、思ってもいいのでしょうか。
泣き続ける私に向かって、オライウォンさんがジョッキを掲げました。
「今日一番の功労者に乾杯!」
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