#雑踏-HERE-(3/3)

 空に月。本当に絵に描いたような、一番高い所に白い円盤が飾られた空。

 おそらく冷たい風が吹き荒れているであろう天高く、そんな青みがかったねずみ色の空の真下で矮小な俺はドブネズミみたく駆ける。

 ペースを上げたお陰でなんとかまだ、点のようなミイラの背中を追えている。やつはこの林に挟まれた長い長い遊歩道へ逃げ込んだ。山道のような曲線を描いてどこまでも続く道。俺が足を踏み入れたことのない道だった。

 先生は来ない。ものすごい速度で後ろから追ってきてくれてるはずだが、もうじき縁条市の区域が終わってしまう。

「くそ――限界か…………!」

 これ以上は待てない。このままではアイツを見失ってしまう可能性もあるし、どこで一般人と出くわすとも知れない。どのみち潮時なんだろう。

「藍! 碧!」

「なんだあほ」

「やるなのですか、このくそったれ」

 風のように左右に現れる双子、この速度をものともしていない。

「ああ――今度こそ、決着つけてやる。だからお前らもちゃんと働けよ」

 意を決して短刀を抜き放った。助勢はない。双子が呪いを発動したが最後・あいつだけでなく、俺自身も孤独な戦いを強いられる。

 心細い。命が。エサを得られず夜道を彷徨う野良犬のような気分になった。そんな俺の弱気を、双子がそっくりな顔そっくりな声で嘲弄する。

「「おまえひとりでなにができる」」

 ――それきり、舞い散る花弁を残して消えた。

「………………さて」

 マンホールの上、俺はこの位置に足を止める。

 一瞬にして周囲を覆い始める霧、甘い、食虫植物の花のような香りがする。事実大差はないだろう。この無限回廊の呪いは、獲物を誘い込んで殺すためのものだ。

「頼むぜぇ…………もう、後がないんだ」

 遊歩道が変化する。水道管を繋ぎかえるように複製し、接続しぐにゃりと空間ごと歪ませ、長い道は終わりなき道にすげ替えられる。

 立ち位置は狂った。世界は無限のメビウスの輪で閉ざされ、俺とミイラだけを神隠しに遭わせてしまった。

 戦車のような暴速の足音が近づいてくる。俺の立つ場所へと、先行していたはずのミイラが駆け込んでくるのだ。

 

 ――――来た。


「らああああああ――ッ!!!」

『ミ ル ナァァァ嗚呼嗚呼嗚呼ああああああああ嗚呼あああ!!!!』

 予想外の、すさまじい打ち合いになって俺は後退した。なんだいまの、重い。危うく骨折する所だった。衝撃が、まだ両腕の骨に響いて振動してる。

「……おい……!」

 夜に、吠える。そのあまりの声量に俺はたじろいだ。

 垂れ下がる無数の包帯、正気を逸した血涙の双眸。バケモノはあろうことか、この無能相手に街灯ひきちぎって武装して来やがったのだ――!

「ぐぁあ――!?」

 苦鳴を上げて、足元をなぎ払いに来た街灯を飛び越える。鋼鉄の鞭だ。アスファルトを穿ったそれはマンホールの蓋を吹っ飛ばしめり込んだ。

 マンホールの内壁に刺さって停止している。俺はその街灯の中腹に着地し、しなる勢いのままに再度跳躍した。

「この……」

 上空から、両腕を振り下ろしたままのミイラに飛びかかっていく。

「馬鹿力が――ッ!」

 仕留めたかと思ったがそう甘くはない。いっそう獅子のように吠えるミイラは力任せに街灯を腰で持ち上げた。

「あ――」

 まずい、空中じゃどうにもならんぞ。横にハンマー投げの要領で一回転振り回された鋼鉄が、やはりハンマー投げのように俺めがけて投げつけられた。

 ――死を直感するっていうか、実感した。

 まとめて飛んでくる唸る豪風、あまりに重々しい圧力。ヘリのプロペラみたいなそれがまともな人間にはどうしようもない桁の質量なんだと目で見て理解できる。

 死因は分かりやすくただひとつ――剛腕のバケモノに比べて俺は、あまりにも低スペック過ぎたのだ。

 そこから先はみっともない話だ。腕を盾にしたものの紙くずのように吹っ飛ばされて、一瞬意識を刈られる。どっちが上か下かも分からないまま地面に激突して、転がって、あっさり動けなくなる。

 なんとか這いずって起き上がろうとしても、いまさっき衝撃を受け止めた両腕はまるで動きやしない。骨折でもしたのか。壊れたみたいにまったく俺の意思を受け付なくなっていた。

「ぐ……ぁ……」

 一撃で大打撃だった。額がぬるぬるしていて、見なくても流血してるんだと理解できる。短刀はどこへやった? ――もう、自分の視界さえどこにあるのか分からない。

 ――――逃げて!

 どこからか、恐らくはすぐ近くから誰かの声が聞こえて俺はようやく気付く。そうか、やっぱり、気のせいじゃなかったんだな。

 ずしん、ずしんとバケモノがやってくる。頬を地面につけたまま、アスファルトの振動だけで死が近づいてくるのを感じていた。

 朦朧としている。抵抗なんてできない。ようやく目の前に、包帯に包まれた足が現れた。

 振り上げられた腕は当然、あっけなく俺の頭蓋をプレスして叩き潰すんだろう。

(…………くそ)

 どうして勝てない。どうして死ぬ。どうして、俺はこんなにも惨めで無様なんだ?

 死ぬのか。ここで、こんな冷たくて真っ暗な場所で俺の人生は終わるのか。

 本当、まったく、なんにも救えやしなかった。

 バケモノの遠吠え、最後の狼煙。いよいよ豪風が俺の頭部めがけて――


「――――おい待ちな。そこまでにしておけよ、この、クソ化物。」


 ……そのとき、加害者と被害者の間に突風が割り込んだ。すぐそばで、火薬が弾けたかのような音を聞いた。ミイラがおもちゃみたいに吹っ飛んでいく。

「――――え……?」

 俺は見上げている。誰とも知れない、顔も名前も知らない男の背中を。恐らくはそいつがブーツの底を叩き込んだのだろうが、スポーツカーでも凹ませそうな重すぎる一蹴だった。

「ケ――!」

 そいつは王道に銀のロングソードなんかを背負っていて、白髪の、ひどく鋭利な顔つきの無精髭の男だった。

 やせ細った犬のような、高身長の背丈をレザーやなんかの真っ黒い服が覆っている。

 射殺すような目で、向かってくるミイラを睨み返す。恐らくはもともとそんな眼なんだろう。

「璃々!」

「あいよッ!」

 再度街灯を振り上げて襲いかかってこようとしたミイラの前に立ちふさがるのは、あまりに小さな低身長――獅子の子を連想させる粗暴な金の髪の少女だった。

 その小さな腕が引きずっている武装を見て俺は自分の目を疑った。黒塗りの墓石みたいな形の鉄板、明らかに少女の身長以上ある特大武装だった。

 叫ぶミイラ、振り上げられる長い長い鉄柱を見上げて獅子は笑んだ。

「だッ!」

 街灯がすっぽ抜ける。体ごと投げ飛ばすような横殴りの一撃に、鉄柱はあっさりと切断されてしまったのだ。

 しかし遠心力は止まらない。一瞬の竜巻のようだった少女は、ニヤリと嗜虐に唇を歪めて再度・鉄板をぶん回し襲いかかっていく。

 繰り広げられる、地面を叩き割るような死闘の音色。その背景がいつの間にか、遊歩道ではなくその先にあったはずの公園に成り代わっていたことに気付く。

 ここ、もう縁条市じゃない。

「あんたらは――……」

「ああ。湊市所属狩人だ。」

 やはりか。男は、死闘を眺めながらタバコに火をつけた。

「ご苦労だったな坊っちゃん。危ういところだったが、こっからは俺らの領域だ。――――あとは任せとけ」

 しゃん、と銀の音色のロングソードを背負う。その大きな黒服の背中は凶悪で、けれどあの人を連想させる力強さだった。

「ああ――」

 頼む、という言葉を発しようとしたら、ぐらついて突っ伏してしまった。その隙にもう男は戦闘の渦中へ駆け戻る。

「隙だらけなんだよ」

 ずしん、と重々しい音を立てて獅子のような少女と拮抗していたミイラを軽々蹴り飛ばす。あの男の蹴りは防火扉でも吹き飛ばせそうだ。

「終わらせっぞ、璃々!」

「うっさいヒゲ! 指図すんじゃねぇっての!」

 双方が力強く剣を構える。その時、ゴミ箱を薙ぎ飛ばして起き上がったミイラが、強く強く吠えた。

『                    !!!!!』

「ぐぉ――!」

「っつ……呪い!?」

 大気を沸騰させる紫電。津波のような感電に巻き込まれて、一歩も動けなくなる。全身を痺れさせる激情の奔流は、形容する言葉が存在しないほどに底なしの地獄。

 バチバチと、ミイラの姿を霞ませる。見るな。見るな。耳を突く絶叫の最中に、誰かの泣き声が混ざっているのが聞こえた気がした。

 ――――苦しかった。苦しかったのだ。

 呪いが、ミイラと化した女の感情が流れ込んでくる。

『ワ・タ・シ――――は……………………た、だ…………』

 孤独が悲しかったのだ。

 こんな姿になってもそばにいてくれる人たちがいればどんなに救われただろう――なのに。

 あのひとは、私を捨ててどこかへ行ってしまった。きっと好きな人でもできたのだろう。家族でさえも私を捨てた――こんな、どうしようもなくなった残骸を誰が肉親と認めてくれるだろう?

 みんなみんな、私の前でだけは態度を繕って――――

 でもその実・最初こそ哀れんでいたけれど、次第に私の存在が疎ましく感じるようになっていったことを私は知っている。

 見るな。

 見るな。

 ねえお父さんお母さん、お願いだから。ねぇ看護婦さんも仲のよかった友達もみんなみんな。

 そんな目で、そんな汚物を見るような目で、私を―――――見ない、で……。

「…………そうかい。そいつは辛かったな」

 男はたばこを噛み締め、剣を握り直した。津波のような呪いの紫電の中で。

「けど――いや、だからこそ終わりにするよ。ここで終わらせてやる。その終わりのない地獄をさ」

 獅子の少女も、立ち上がった。その手が引きずる身長以上もある巨大剣。そして、俺は初めてそれを視た。その物語を、初めて傍観する側に立ったのだ。


「「狩人が、お前の呪いを終わらせてやる」」


 斬、と終末の音が鳴る。ミイラの銅に殺到した二条の剣が、地獄に堕ちた怪物の嘆きを終わらせた。

『う…………うゥ…………』

 幾百の燐光を散らし大気に還っていく。最後の最後にほんの一瞬、透明な涙を流した姿が哀れだった。

「………………人間扱いされない日々が、地獄だったんだろう。自分自身の尊厳さえ失われた世界ってのはひどいもんだ。そんな視界を一生引きずって生きていく。呪いを発現し得るに足る、底なしの絶望だ」

 俺の背後から、誰かが声を発した。黒セーラー服の、夜が形になったような魔女。先生だった。獅子の少女が、不機嫌そうに答えた。

「ふん。私には分からないよ。分かりたいとも思わないね。そんなの、知らないでいられるんなら幸福ってもんさ」

「お。さっすが璃々、残酷だねぇ」

「うるさい」

「いでっ」

 男と、少女がどつき合っていた。そんなものを見ながら先生が言った。

「余所の街の狩人を見るのは初めてだったか? どうだった少年、感想は」

 お師匠様に問われて、俺は胸に湧いた小さな憧憬のような感情を素直に吐き出した。

「そうっすね。凄腕っすね」

「ま、お前のような新人にアレを望むのは酷かも知れないがな。どちらも湊市の腕利きだ」

「……………………」

 これが、湊市。俺たち縁条市の隣で毎日繰り広げられている、狩人たちの物語。

 どうして知らなかったのだろう、こんな目と鼻の先だったっていうのに――こんなにも身近に、こんな凄腕の狩人たちがいたっていうのに。

「………………そうか」

 縁条市狩人だけでは守り切れない市外を、湊市っていう区域を実はずっと前から湊市狩人たちが守っていて、他の街も、ずっとずっと遠くの街にもまた別の誰かがいる。

 俺の知らないところにも物語がある。顔も名前も知らない他人たちと、俺たちは常日頃から役割分担しあって生きていたのだ。それは、まるで、いつかの掃除当番表のように。人の世界はこうして回っている。

 顔も名前も知らなくたって、俺たちは例えば電車で隣合わせた他人とさえも、どこか遠くで関わり合って生きているのだ。

「で、そっちの坊っちゃんは新人かい、七式さんよ」

 男が、たばこを噛んだまま言ってくる。七式ってのは先生のことだ。

「ああ。何の呪いも技能もない、ただの新人さ」

「そうか。そいつはいいな。――ああ、人間らしくていいじゃねぇの。無能力の坊っちゃん、名前は?」

「…………」

 男が、手を差し伸べてくる。力強い腕を、挑戦的に。

「……羽村。縁条市の最弱だ」

「俺は湊市の居候だ。こいつら狩人の本拠に世話になってる。ここだけの話――異世界から来た」

 手を握り返すと、白髪の男は冗談めかしてそんなことを言った。呆気にとられる。思わず笑ってしまう。

 ああ――そんな物語も、あるか。



 やあ羽村君、また会ったね。昨日とまったく同じ場所で顔を合わせるとはお互い、もうちょっと日々の過ごし方を考えないといけないかもね。え? 意味が分からない? はは、毎日毎日同じ場所ばかり行き来してちゃだめだ、って意味さ。

 え? なんだいその背中に隠してるの。マクドナルドの袋? まったく、ジャンクフード趣味もほどほどにしておきなよ。ところで羽村君あれ食べたかいあれ、あの、いやいやグランドキャニオンバーガーじゃなくてさ、新しいラスベガスのほうさ。グラキャニは昨日終わったじゃないか。

 え、グラキャニ買ってきたの? 嘘だろう? だって昨日まで――ああ。なんだよ、君はまた訳の分からない人脈を持ってるねぇ、さすが奥義・他力本願なだけあるよ。

 あバイトさんとお知り合いに? OK、今度一緒に行こうじゃないか、いやいやぜひとも紹介してもらわないとねぇあははは、あはははははは。

 ――――さて。なんだい、羽村君。さっきから何か、僕に話したいことでもあるふうだけど。

 相談? 君が僕にかい、珍しいこともあるもんだ。

 何々、霊視のコツ? ああ……なるほどね、把握したよ。しかしちょっと難しいかなーさすがに、アドバイスひとつでどうこうなるような問題じゃないと思うよ。

 ほら、霊視って曲がりなりにも視力だからサ。それりゃあ肉眼で物体を見るのとは勝手が違うし、他の要因もいっぱい絡んでくるけど、基本的に目でものを視るってことは変わらないんだしさ。

 ああ悪かった、いやすまない、だからそんなどうでもよさそうに去って行かないでくれ。

 分かった、本当仕方なくだよ? とっておきの、すごく効果的な方法を伝授してあげるよ。

 信用ならない? ――フッ、耳かっぽじってよく聞いて、そして僕を、この雨宮銀一を敬うことさ。

 いいかい? 霊視のコツ……それはね、いたって至極単純明快、


 ――――――こっちから声を掛ける、ことさ。


 何々、理屈がわからない? いやあそんな難しい話じゃないよ、ほら、人と霊って基本的に隔絶されてるものでしょう。一部の少数が運良くガン見できるっていうだけで、基本的に僕らにとってはただそこらを漂っている大気に近い。もちろんあの双子みたいなはっきりしたのは別だけど、一般的なイメージの幽霊ってほら、肉体的にはガスみたいなもんだろう?

 ただ霧散している相手を視認するってのは難儀なもんさ――その点、こっちから声を掛けてしまえばそのガスのほうが僕たちを意識して、向こうから姿を表してくれるようになる。

 いまのはまったくの喩え話だけどね、現実の霊視もそう変わらないさ――そうだな、やっぱり、意思疎通を試みてる状態と、ただ盗み見ようとしてる状態では大きな差がでてきてしまうんじゃないのかな?

 もしどうしても視認したい亡霊がいるってのなら、君の方から呼びかけてやることさ。どうだい? 実に単純明快だろう。

 そう、要するに――――――あれだよ、赤の他人同士だって、お互いに歩み寄りの心が大切だってこと。



 その日1日は何事もなかった。強いて言うなら昼間に商店街で銀一と会ったとか、先生が変わらず日本刀振り回してたとか、ゲーセンでアユミがぬいぐるみゲットして喜んでたとかそのくらい。平穏無事というのはいいことだ。

 ――23時ジャスト。

 夕食も風呂も終え、今日のところは眠るだけっていう頃合い。夜に眠れるなんて何日ぶりだろう、つくづく狩人ってのはハードワークだ。

「………………」

 俺はベッドに腰掛け、意識を集中していた。テレビの雑音はそのままにしてある。まるきり静かにして余所の生活音を聞いてるよりかはこっちの方がいいと思ったのだ。

 明かりも落としきった部屋――この闇を深海に例えるのなら、ブラウン管の明かりは潜水艦みたいなもんだろう。

 じっと、部屋の隅の何もない空間を睨み続ける。茶のフローリングと90度で交わる2枚の壁で構成された場所。ひと一人分が立っていられそうな、そんな、誰もいない空間。

 ただ黙って、壁の凹凸を数えるように注視し続ける。次第に視界が狭くなってそれ以外何も見えなくなってくる。脳が痛くなるほどに、意識が研ぎ澄まされていく……。

 何か、流動する煙のようなものを幻視する。あるいはそこに在るのかも知れないし無いのかも知れない雑念の残照。そこから記憶や情報を引き出すなんて望むべくもなく、ただそこに“あるかも知れない”という所までが、羽村リョウジの限界だった。

 ここから先は未知の領域で、俺が手を伸ばせる限界地点。

 何かがあるかも知れないと察知できるのに、これ以上はどう足掻いたって霊視などできない。だが――

 思い起こせ。ここ数日で、俺は幾度となく“声”を聞いたはずなんだ。

「――――なぁ」

 呼びかける。今度はそちらが手を伸ばす番だと、こちら側へ歩み寄ってきて欲しいと懇願する。

 どうか警戒せずに、俺の前に姿を現して欲しい。

 そんな願いを込めて、俺は部屋の隅に向かって声を投げかけたのだ。


「……………………そこに、いるの……か?」


 ――刹那、

 ふわりと漂う布を視たような気がする。

 月から降りてきたかぐや姫のように、あまりにゆったりとした速度でそれは舞い降りた。

「ぁ…………」

 俺の部屋の真ん中に、音も立てずに素足を下ろす。それは美しく、ただただ不思議な存在だった。

 おそらくは、ひどく稀有なねがいを投影したがゆえの、少しばかり“普通”から外れてしまった亡霊。

 透けるような青光りする月光をその身に纏った、幻影みたいなやつだった。

『……………………』

 不安そうに、居心地悪そうに俺を見ている。そよ風が人の形をしているような、妖精に近しい存在だ。きっとどうすればいいのか分からないのだろう。それもそうだ、相手が亡霊とはいえ、いきなり呼びかけてしまったのは俺の方なのだから。

 そんな風に不安そうにしていると、こっちが逆に落ち着いてしまう。

「ああ――――そこにいたのか。よう、元気かい」

『へ……?』

 世間話のように声を投げかければ、そいつはたいそう面食らっていた。だが構わない。ようやく、そいつも笑ってくれたのだから。

『ふ………………ふふ……おかしなひと。ええ元気です、ありがとう――』


 わたしを、見つけてくれて。


「…………行ったか。」

 白布がはためいたと思ったら消えている。もう影も形もない。かすかな香りだけを残して去っていってしまった。

 テレビのノイズが聞こえ始める。ため息が出るくらい、あっという間にいつも通りの自室だ。

 それにしても――

「“見つけて欲しい”ってのはまた、ヘンテコな呪いだよな――」

 あるいは、そういう願望だったのだろうか。

 他人ばかりの世界で、誰と関わることもなくなってしまっていた亡霊。知っている。そのことをいつもいつも憂いでいた。そんな感情が俺に流れ込んできて、つまらない物思いを繰り返させていたのだ。

 あいつはきっと、誰にも気付いてもらえなくなってしまった伏せカードだったのだ。

 伏せられたまま生きていく。ストリートを流されながら、和気あいあいと楽しげにしている人々を見てあいつは何を思っただろう。誰でもいいから、誰かに気付いて欲しいという願い――それを、完遂させたのだ。

「え? …………ああ、やっぱ、そういうことか」

 買ってきていた最後のグランドキャニオンバーガーが消えている。いいぜ、好きに持って行けよ。食いしん坊の背後霊が離れたいまとなっては、俺はあんなソース味の濃いバーガーに未練も愛着もありはしない。

「…………ああ、ハラ減ったな」

 ぐぅと腹が鳴る。さて、ラスベガスバーガーでも食いに行くか。もちろんアユミを連れて。アドバイスくれた銀一におごってやってもいい。一人じゃないなら誰でもいいだろう。

 街に出れば、今日も商店街は見知らぬ人で埋めつくされている。そのことに不安を感じる人間もいれば、騒がしくて心地いいと感じる人間もいる。

「…………よし、」

 人生は長い。俺はせいぜい、伏せカードめくりを楽しんで生きていくとしよう。





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