第三章 夜闇に白い影
真菜との約束の時間がきて、空也は煉瓦づくりの小さな詰め所から自分の提灯と棍を持って出た。あれから真菜は本当に仕事の依頼を事務所に持ってきてくれたのだ。
明衣さんの家は、駅のまわりの商店街と、その奥の住宅街、ちょうどその境目あたりにあった。道は舗装がされておらず、隅にススキが揺れている。
頑張れば中をのぞけそうな高さの木の塀が、提灯に照らされて微妙な影を作っている。
竹で作られた門をくぐる。ちょっと荒れ気味の狭い庭を通ると、玄関先で真菜と明衣が待っていた。
「まあ、かわいらしい送り提灯さん。これじゃ逆に私が守ってあげないといけないみたいだわ」
淡い紫の着物を着た明衣がくすくすと笑った。短い黒髪に、泣きボクロがいかにも大人といった感じの、艶っぽい女性だ。
「初めまして明衣さん。空也です。安心してください、これでも棒術は仕事仲間でも上のほうなんですよ」
嘘ではない証拠に、ビシッと棍をかまえて見せた。
「まあ、それは頼もしいわ。では行きましょう」
明衣の言葉にしたがって、空也は駅にむかって歩きだした。
まるでハッカをふくんだように冷たい風が、着物の生地を通して体の熱を奪っていく。
上空で枝に切られた風が笛のような音を立てていた。空也は上に羽織っていたコートの前をかき集めた。
いつもなら火の用心の拍子木が聞こえる時間なのだが、通り魔のせいで中止になったらしい。足音がやたら大きく響いた。
「でも、ずいぶんと大胆な犯人よね」
自分は斬られない自信があるのか、明衣がおもしろそうに明るくいった。こんな暗闇で犯人談義なんて勇気のある女性だ。
「真っ昼間に、人様を手にかけるなんて」
「や、やめてくださいお師匠さん。恐いです」
真菜と空也の頭に、昼間見た白い布を染める赤い斑点が浮かぶ。あの下には、無残に殺された人の顔があったはず。
「あら、恐がりね真菜ちゃん。ほら、空也君をごらんなさい。さすが男の子、全然恐がってないわ。ねえ?」
「え、ええ。恐くないすっよ、ぜ、ぜんぜん」
そのわりには声が震えている。明衣がくすくす笑っているのが聞こえた。
職業がら、空也は暗いところは慣れているが、今日は昼にぶっそうなものを見たばかりなのだ。
空也をからかうのにも飽きたのか、明衣は話題をころっとかえた。
「明日は楽しみねー、真菜ちゃん。絶対勝ちましょうね。これが最後の交流会になるかもしれないんだから」
「最後? 真菜さんお琴やめちゃうんですか?」
訊いてきた空也にいたずらっぽく明衣が笑った。
「結婚するのよ、真菜ちゃん。あら、知らなかった? そうしたら、習いごともできなくなるでしょ?」
「ええ? 本当ですか!」
大声を出して思わず立ち止まる。
「明衣さん。申し込まれているだけです。私はまだ承諾してません!」
目を丸くしている空也と、にやにやしている明衣に、真菜は手をばたばたと振ってみせた。
「あら、なに言ってるのよ。相手は青年実業家。こっちにゾッコン。しかもいい男! 逃す手はないでしょう」
「で、でもぉ」
真菜はちらりと空也を盗み見た。
暗くてよくわからないが、空也は微笑んでいるように見えた。真菜は、すぐ顔をそむけ、うつむく。
「よ、よかったじゃないですか。おめでとうございます」
空也の声が震えているのに、真菜は気づかなかった。
また歩き始めながら、やたらと明るく空也は続ける。
「もし結婚することになったら一番に教えてくださいね。なにか、お祝いを持っていきますよ。ああ、本当にびっくりしたな。初めてききました」
「え、ええ」
真菜は力なくうなずいた。
それから会話が途切れてしまい、三人は黙って歩き続けた。
どこか、遠くで犬の遠吠が聞こえた。月が雲に隠れ、また姿を現す。
「さて。ここまでくれば平気ね。どうもありがと、空也君。お駄賃は詰め所の方に前払いしてあるからね」
その言葉で、空也はハッと我にかえった。
いつのまにか、自分が駅の近くまで来ていたのに気がつく。どうやら無意識のまま案内をしていたらしい。
砂色のレンガが敷き詰められた駅前広場は、いつもよりも広く見えた。通り魔事件で皆外出を控えているせいで、人がいないからだろう。広場の奥を横切る線路は闇に沈み、レールだけが冷たく光っていた。
いつもなら提灯の火を消す風をさけ、改札近くでたむろっている客待ちの送り提灯もいない。あまりに暇なので、詰め所の方へ戻っているらしかった。片付け忘れた人力車が、すみにポツンと置かれている。
煉瓦作りの駅舎は、防犯のためか全ての部屋に火が灯され、窓の形と同じ四角い光を石畳に投げかけていた。
「それじゃあ、お気をつけ……」
振り返った空也の言葉が止まった。
不思議そうな顔をした真菜と明衣の後に、白い霧が漂っていた。濃密な霧。昼に見たものと同じ。
「あ、あれ」
声が情けなく擦れていた。指す指が震えている。
女二人は、ゆっくりと振り返った。
三人の目の前で、白い霧は、少しずつ何かの形をとり始めている。
霧は、丸い塊になった。その表面に、コブのようなふくらみがいくつも出来る。それは伸び、くぼみ、人の頭に、両手に、両足に成っていく。まるで石膏の彫刻が出来上がっていくのを見ているようだった。腰あたりまである長い白髪。ほっそりとしたあごと頬、綺麗に通った鼻筋…… 色は,全て雪でできているような純白。どこか冷たい感じの唇までも。
狩衣を身につけている体は長身で肩幅が広い。そして、手に抜き身の刀をさげていた。べったりと、血のついた刀を。
「うわああ!」
思わず空也は悲鳴を上げていた。驚いたように白い影が消えた。ろうそくの火を吹き消したように突然に。
「きゃあああ!」
いつのまにか白い影が真菜のすぐ後にいた。通り魔は刀を振り上げる。銀色の光が糸を引く。
「真菜ちゃん!」
明衣が真菜の腕を引く。切っ先は、真菜の肩をなでていった。布地に細い切れ込みが入り、そこからじわりと血がにじんだ。真菜は明衣にしがみつく。
影は刀を振り、血を払う。飛び散った紅が、白い影に降りかかった。しかしそれは白い着物を汚さず、石畳にそのまま散った。
「このっ!」
恐がっている余裕はない。空也は棍を構えた。
放り出された提灯の火が消え、闇が訪れる。だが目をこらさなくても、人ならぬ影は鈍い光に包まれていた。
相手はまだ真菜を見ていて、空也に背をむけている。悪いが、問答無用で切り掛かってくる奴に、正々堂々と戦いを挑む義理はない。空也はその背にむかって突きを繰り出す。
だが、棍の先は男の体を突き抜ける。危うく明衣の横腹にめり込む所だった棍を何とか止める。
「危ないわね空也君!」
「ご、ごめんなさい。二人ともなるべく離れて…… う、うあっ!」
振り返った男は空也に切りかかってきた。棍で刃を払いのける。どうやら、刀だけは本物で、触れることができるようだ。
空也が棍を構え直すより先に、男は再び刀を振る。速い。第二撃を仕掛ける間もない。地面を蹴って後に跳ぶ。
「うっ」
急な動きだったため、着地の瞬間によろめいた。空也は無様に尻餅をつく。棍が地面に転がる。
真菜が悲鳴をあげた。影が容赦なく刀を振り上げる。
「真菜さ……!」
立ち上がろうと空也は腰を浮かす。その瞬間懐から鈴が落ち、石畳の上を転がった。
リィン……
小さく、清らかな鈴の音が響いた。鈴は硬い石の上を跳ねるたび、チリリと小さな音をたてる。白い男は動きを止めた。まるで何か恐ろしいものを見てひるんだように。しかしそれは一瞬で、再び光のない目で空也を見つめる。
「どうやら、これが苦手みたいねぇ」
明衣が足元に転がってきた鈴を拾いあげ、にやりと笑った。
「あ、あの、お師匠さん?」
明衣の不敵な笑みに、真菜は恐る恐る声をかけた。けれど師匠は聞いていない。影を見据え、鈴を真っすぐ突きつける。
「おっほほほほ、私の弟子をいじめた罪は重くてよ。悪霊退散、どっかにいっちゃいなさい!」
リンリンリンリンッ!
明衣の高笑いと一緒に、鈴が鳴り響いた。
男の体がかしぐ。ぼんやりと人の形が崩れ始めた。長い髪が横に伸び、狩衣も輪郭をなくし、歪な綿のような固まりになっていく。
「……」
この世ならぬ者の唇が、微かに動いた。
「え、何? 何か言った?」
空也の言葉に応えることもなく、男の姿はかき消える。実体だったはずの刀も消えうせた。
空也は痛くなるほど目を見開いて、霧の消えた空間を見つめる。今まで幽霊が立っていたところに、痕跡は何も残っていない。
オオオ、と上空で風が鳴った。
「ほほほ、この明衣様に牙を剥くからよ」
明衣は片手を腰に当て、高笑いした。
「た、たすかったあ」
空也がへたりこんで大きく息をした。
「そ、そうだ、大丈夫ですか真菜さん!」
慌てて真菜に駆け寄る。
「ええ。なんとか」
肩を押さえて微笑んでいるが、真菜の顔はまっ蒼だった。赤い血が着物を濡らし、腕を伝い指先から滴り落ちている。
「早く、早く病院へ!」
空也は提灯を拾いあげるとマッチで火を灯した。
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