竜になるまで逃げないで!

坂神京平

1:竜の吐息で、徒労の溜め息。

 光輝く黄金竜は、大きく上下に口を開いた。


 次の瞬間、かすかに巨体を震わせたかと思うと――

 喉の奥から、めくるめく一条の光芒が放射される。

 それはさながら、灼熱を高密度で束ねた槍だった。


 ああ、これぞ伝説の「竜の息ドラゴンブレス」。


 恐るべき死の一撃は、地表に接触した途端、周囲を巻き込む爆発と化した。

 炸裂した閃光を追い掛けて、地鳴りめいた轟音が響き渡る。


 ドラゴンブレスは、標的とした獲物を、その内側に一刹那で巻き込んだ。

 小鬼ゴブリン食人鬼オーガ巨大鬼トロル……

 破壊の渦に飲み込まれ、断末魔の絶叫と共に、次々と不浄の生命が刈り取られていく。


 圧倒的な光景を目の当たりにして、さすがに俺も肝が冷える心地がした。

 まるで、抗う術のない災厄を、遠目に眺めているような感覚だ。



 ――やがて、苛烈な爆炎が収まったとき。


「竜の息」で焼かれた場所には、もはや身動きできる魔物の姿は存在しなかった。




     〇  〇  〇




<ねぇ、アシュリー>


 頭上から、脳裏へ直接語り掛けるような声が聞こえてくる。


 振り返って仰ぐと、巨体の黄金竜がこちらを見下ろしていた。

 いましがたブレスを吐いた頭部は、地面から一〇マルトル近く離れた高所にある。


<今の攻撃で、ちゃんと敵を全滅させられたのかしら……?>


「わからない。――だから、こうして辺りを調べてるんだろ」


 俺は、竜の問い掛けに答えると、正面へ向き直った。


 周囲の一帯――

 ウォーグレイブ丘陵を、改めて見回す。

 爆炎で焼かれた空間には、半径約二〇マルトルに渡り、いまだ熱気が漂っていた。草木は燃え、大地は部分的に捲れて、細い煙が立ち昇っている箇所もある。

 ドラゴンブレスの凶悪な破壊力を、ありありと物語るようだ。



「――おぉい、アシュリー」


 再び、俺の名前を呼ぶ声がする。

 焼けた地形の一隅いちぐうから、おもむろに歩み寄って来る人影があった。


 言葉遣いは男っぽいけど、すらりとした身体つきは紛れもなく若い女性のそれだ。

 ミスリル製の鎖帷子チェインメイルを纏い、腰には長剣ロングソードを下げている。腰まで届く長い黒髪が、風に吹かれてなびいていた。

 彼女は、仲間の剣士レティシアだ。


「あっちには、の死骸は見当たらないみたいだ」


 レティシアは、軽く肩を竦めてみせる。

 その顔には、いささか困惑が滲んでいた。


「そうか、お疲れさん。――こっちもまだ、それらしいものは見付かっていない」


「なあ、アシュリー。ひょっとしたら『竜の息』で、ヤツの身体なんて跡形もなく、すっかり吹き飛んでしまったんじゃないのか」


 やや呆れたような口振りで、レティシアは彼女なりの見立てを述べる。

 まあ、あの強烈なドラゴンブレスを見せ付けられたら、そんなふうに考えたくなる気持ちもわからないではない。


「それならそうで、依頼クエスト達成ってことになるから楽なんだが……」


 俺は、苦笑混じりに応じつつ、傍らの黄金竜へ話し掛けた。


「メルヴィナは、どう思う?」


<残念ながら、そういう見込みは薄いと思うわ>


 巨体の黄金竜は、相変わらず頭上から脳内に響く声で即答した。


<今回の討伐対象は、曲りなりにもメタルラットの上級種でしょう。たしかに掴みどころがない魔物ではあるけど――元々の物理防御力や魔法耐性の高さを勘案すれば、『竜の息』が直撃していたとしても、人間界に顕現した痕跡が短時間で完全に霧消すると思えない>


 例えば、悪魔や幻獣の類だと、絶命した際に遺骸が実体として人間界に留まり続けることは少ない。ほどなく幻影化して、物質的には分解され、存在自体が消失する。

 だが、それでも数時間程度ならば、人間界で実体化していた証拠として、残留魔力が感知できるはず――

 と、メルヴィナは主張しているのだった。



「そうは言っても、あの魔物の消息は現にわからないんだ」


 レティシアは、黄金竜の頭部を見上げ、渋い表情を浮かべた。


「このまま撃破が確認できないのなら――標的の魔物は、ドラゴンブレスの範囲攻撃を寸前で逃れ、まだ生き残っているということになるぞ」


 女剣士の言葉に対して、メルヴィナは何も答えない。

 暗に「その可能性が高い」と示しているのだろう。

 俺とレティシアは、思わず互いに顔を見合わせた。


 ――標的とした魔物を、仕留め切れなかったかもしれない。


 仮に事実とすれば、好ましからざる展開だ。

 実はもう、かれこれ同じ魔物を、二度討ち逃している。

 しかも俺たちにとって、メルヴィナのドラゴンブレスは「切り札」とも言うべき攻撃手段だったのだから。



 さて、そんなやり取りを続けていると。

 メルヴィナの推測を、さらに補強する情報がもたらされた。

 あともう一人の仲間が、焦土化した範囲の側端から戻って来たのだ。


 合流したのは小柄な少女で、名前をプリシラという。

 一行パーティでも最年少の一四歳だが、れっきとした神官である。

 とはいえ、ふわふわした栗色の髪も、つぶらなすみれ色の瞳も、愛玩動物めいた愛らしさを想起させられずには居られない。ぶかぶかの白い法衣を着用した姿が、殊更あどけなさを印象付けているかに思われた。


「プリシラ、どうだった? 例の魔物を倒した形跡は、見付かったか」


「……ううん」


 念のために訊いてみたけれど、プリシラは小声でかぶりを振っただけだ。

 この子が見て回った周辺も、やっぱり空振りだったらしい。



「どうするんだ、アシュリー。いったんエザリントンの街まで戻ってみるか?」


 レティシアは、腕組みしながら提案してきた。


「このまま、本当に倒したのかわからない魔物の死骸を探してばかりいても、埒が明かないかもしれないぞ」


「そうだな……」


 決断を迫られて、俺はその場で沈思した。


 俺たちが今、討伐対象としている標的は、かなり特殊な相手だった。

 街で依頼を請けた際には「どうして、そんな魔物が丘陵地帯で頭目としての役割を、魔王から任されているのか?」と、酷く不思議に思ったものだ。


 しかし実際の討伐に挑んでみて、が並みの悪魔なんかより、かえって面倒な相手だったことを、今更のように思い知らされている。

 まったく、これまでの冒険を振り返っても、こんな事態は初めてだ。


 やや迷ったけれど、こうなってはレティシアの意見を採用するのも致し方あるまい。

 エザリントンへ引き返して、冒険者の店で戦闘結果を依頼主に伝えてみる。

 それから改めて、今後の方針を練り直してはどうか。

 いやむしろ、もはやそうするしかあるまい。


 俺は、考えをまとめ、皆にそれを伝えようとしたのだが――


 まさしく、そのときのこと。



<――待って、アシュリー>


 不意にメルヴィナが、またしても脳裏へ語り掛けて来た。

 黄金竜の眼は、僅かに離れた地形を見詰めている。


<ここから西の丘を見て!>


 うながされて、メルヴィナが眼差す方角を振り向いた。


 視線の先は、「竜の息」が焼いた範囲を、少しだけ外れた場所だ。

 疎らな野草が繁茂する他は、見通しが良く、なだらかな丘だった。


 そこの上に、一匹の奇妙な生き物の姿があった。

 幾分距離を隔たっているので、注意して目を凝らす。


 その生物は、身体の大きさで比較するなら、小型の哺乳類と大差ない。

 それでいて外見は、むしろねずみに近かった。

 とはいえ、すっかり相似しているわけじゃなく――

 面妖なことに、

 該当する部位は、代わりに不定形の軟体器官になっていて、波打つように蠢いている。

 おまけに全身体表は無毛で、硬質な鉛色に覆われていた。


 おそらく「金属製の鼠の彫像をこしらえて、後ろ半身を高熱で溶かした」としたら、この生き物と酷似した形状になると思う。



「やっぱり、生きていたのか」


 レティシアが舌打ちして、長剣を鞘から抜いた。


「逃がさんぞ、め!」



 そう。

 この奇妙な生命体こそ、依頼クエストの討伐対象たる魔物。


 ラット族の希少種「まぐれメタル」なのだった。



 俺も続いて抜剣ばっけんし、プリシラは両手で戦槌ウォーハンマーを構える。

 素早く目で合図を交わすと、皆で一斉に地面を蹴った。

 まぐれメタルに対し、各々全力で突撃を仕掛けようとする。


 ……けれど、その思惑は不調に終わった。

 標的の魔物は、俺たちの接近に気付くや、すぐさま身体を翻したのだ。

 そして、甲高い鳴き声を上げたかと思うと、猛烈な勢いで逃走を開始した。

 あの不定形な半身を揺らし、まるで地面を滑るように移動していく。


 その速度は、到底人間の走力が及ぶようなものじゃない。

 こちらも必死に追い縋ったものの、彼我の距離は一方的に広がるばかりだ。

 ほどなく敵の姿は、遠方で茂る灌木の中へ消え、そのまま見えなくなる。

 それがこの戦闘の、呆気ない幕切れだった。



 俺たちは、まぐれメタルに逃げられてしまったのだ。

 


「……や、やっぱり、駄目だったか……」


 俺は、左右の膝に両手を付いて、立ち止まった。

 やはり、あんなに逃げ足が速い魔物は、まともに追い掛けても捕まえられやしないと思った方が賢明そうだ。

 いや、仮に追い付いたとして、通常の物理攻撃が通用したかどうかは怪しいものだが。

 レティシアとプリシラも、息を切らしてへたり込んでいる。



 誰がどう見たところで、三度目のまぐれメタル討伐も失敗だった。


 あの魔物は、またしばらくすると、まとまった数の妖魔を引き連れて、群れを形成し直してしまうのだろう。

 これこそ、まぐれメタルが魔物の統率役であることの、戦慄にも値する煩わしさ! 


「標的を倒さなければ、周辺地域に棲み付く魔物の連携を、瓦解まで追い込めない。しかし、その対象が逃げてばかりで、どうしても倒せない」


 まぐれメタルは、だから頭目として厄介なのだ。

 もっと強力な戦闘力を誇る魔物なら、いくらでも他に居る。

 けれど、真っ向から勝負させてもらえるぶん、例えば上級悪魔グレータデーモンなどの方が、遥かに与しやすいと思えてならない――……



 しかし俺は、そんな思考を、このとき途中で自ら遮った。

 急にふと、メルヴィナのことが気になったからだ。

 そう言えば、どうしたのだろう、と背後を振り返ってみる。


 すると、巨体の黄金竜は、ついさっき直立していた場所で微動だにしていなかった。

 ……ただし、全身を包む光の輝きが、急に明滅しはじめて、変異の兆候を示している。


 その有様を見て、思わず呼気を呑み込んだ。


<――あ、ああっ――まっ魔法が、と、解けちゃう……!>


 メルヴィナのあえぐような声音が、突如として脳裏で響き渡る。


 どうやら、魔法が持続時間を過ぎて、効果を失おうとしているらしい。

 そう気付いたときには、もう手遅れだった。


 黄金竜を包む光は、大きく一際きらめいたかと思うと、瞬く間にまばゆまゆ状の塊と化す。

 次いで、それが内側から弾けるように飛散した。

 魔力の破片が無数に舞って、閃きながら中空へと吸い込まれていく。

 そのあとには、もう黄金竜の巨体なんて、消えてどこにもなくなっていた。



 代わりに同じ場所でたたずんでいたのは、ただ一人の女の子だ。


 さらさらした長い金髪で、深い海のような碧眼の、可愛らしい少女。

 そんな人間の女の子が、黄金竜と入れ替わるみたいにして、そこに立っている……


 白い素肌を曝して、で。


 いや、ここは改めて、事実を正確に述べよう。

 少女は、何も竜と入れ替わったわけじゃない。

 その女の子自身が、たった今まで黄金竜に変化へんげしていたのである。

 これまでの冒険で、彼女が努力の末に習得した遺失魔法の効果だった。



「……い、いっ、いやぁ……」


 その女の子――

 元の姿に戻った魔法使いのメルヴィナは、両手で自分の身体を隠して、その場へ屈み込んだ。

 人目から裸を覆い隠すように、地面の上で膝を抱えて丸まってしまう。


「――いやあああぁぁ――ッ!! お願い見ないでええぇぇ――っ!!」



 直後、ウォーグレイブ丘陵には、悲痛な絶叫が響き渡った。




     〇  〇  〇




 …………。


 ……メルヴィナも、伝説の竜化魔法「ドラゴンシェイプ」を蘇らせた際には、こんな試練が待ち受けているだなんて、思いも寄らなかったことだろう。

 おそらく、己の研鑽けんさんの成果を、胸に誇りとして刻みこそしたにしろ、である。


 だが、思い描いた理想と、じかに触れる現実とは、往々にして一致しない。

 あたかも、ようやく追い詰めた魔物を、望みかなわず取り逃がしてしまうように。




 ――だから、これはつまり。


 きっと俺やメルヴィナにとって、そんな努力と後悔の物語なんだと思う。

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