白百合の君

霧島ジュン

第1話 名もなき恋の物語

 「『人生とはふしぎだ。人生では外見、偶然にみえるものにも、実は一つの意味があるのかもしれぬ。』か…」

 日曜日、閉館間近の図書館で、ミキは本の一文をぽつりと呟いてみる。

 秋になり、日が落ちるのが早くなった。読みかけのページがオレンジ色に染まっている。

 読書に夢中になっているうちに、自分以外の利用者はほとんどいなくなっていた。

 ―かえらなきゃ…ひとりぼっちの部屋に。

 本を返そうと書架の前に立ったとき、図書館の隅にある椅子の上に一つの茶封筒が置いてあることに気が付いた。

 ああ、誰かの忘れ物だ。施錠の時にでも職員が預かってくれるでしょ。

 きっといつもなら見なかったことにしてしまうだろう。

 面倒なことが苦手なミキのうしろ髪をさっきの一文が、ひいた。


 久々にむずむずとした感覚に動かされるまま、茶封筒に近づいてみた。

 手に取ってみると、紙の束の存在を感じる。

 封筒の裏に、住所と名前が書いてあった。


 白川静、持ち主の名前らしい。

 住所がうちの近所ということにどきっとした。

 町の図書館なんだから、同じ地域の人が利用しててもおかしくないが、そう考えるのは野暮な気がする。

 これは意味のある偶然かもしれない。

 退屈な毎日を書き換える物語が始まるかもしれない。

 ミキは茶封筒をそっとトートバッグに入れ、図書館を出た。



「趣味は読書です。」

 実際そうだし、それしかない。子どものころから読書が好きなんだからしょうがない。

 「ミキってつまんねえよな」

 彼氏にはそう言って振られた。確かにそうかもしれない。

 会社と自宅を往復する毎日。

 借りた本を通勤電車の中で読む。

 あと何年これを繰り返すのか、わからない。

 このループから抜け出す勇気もない。

 読書が好きなのは、少しの間だけ違う世界に連れていってくれるからだと思う。

 トートバッグの中にある茶封筒を取り出した。

 封はされておらず、少しだけ確認したところ、中身はどうやら原稿用紙で、今時珍しく手書きの小説のようだった。

 ―読んでもいいかな…

 読書好きなら興味をひかれるだろう。みんなそうだろう。

 自分にそう言い聞かせて、車内を見渡す。

 帰宅する人で車両内には結構人がいるが、居眠りやらスマートフォンに夢中で誰も他人のことは気に留めていない。

 原稿用紙の一枚目は白紙だった。

 もう一枚めくると本文が始まった。

 一マス一マスに丁寧な字で文字が収まっている。美しい字、美しい描写…

 電車に揺られながら、夢中で読んだ。

 ミキの降りる駅が終点でよかった。きっと乗り過ごしてしまうくらい引き込まれる作品だったから。


 結局、最後まで読み終わることができたが、残念なことに作品は完結していなかった。

 重い病気を抱える恋人にオーロラを見せるため、二人で病院を抜け出し北へと向かう…という物語だった。

 男性が主人公の作品だが、白川静さんは自然に表現していた。

 まるで自分が体験したかのように…


 スマホで時間を確認すると、もう8時を過ぎていた。

 いけない、原稿の続きを書きたくて困っているかもしれない。

 いつもは来ることない道を歩きながら、題名のない恋物語の作者に思いを馳せた。

 白川静さん…あんなに綺麗な文章が書ける女性なんだから、優しくて、知的な方なんだろう。

 なんとなく、黒髪で色白な美人が窓辺で万年筆を走らせる様子が想像できた。

 例えるなら彼女は百合の花。

 素敵な出会いにすっかり浮かれて、少し恥ずかしくなった。


 ミキは偶然出会った女流作家のファンになってしまっていた。

 おのずと歩調が速くなる。

 ―早く会ってみたい、白百合の君に。





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