妖精王の娘
万里ちひろ
第1話 呼んでいる
──呼んでいる。
ときに夢見るは、大草原にその身をゆだねて思う自分。
ときに語らうは、まだ見ぬ世界に生きる者たちとの邂逅。
ときに戦うは、その身の危険を顧みず守るべき人々。
ときに旅立つは、すでに亡き者へ鎮魂歌を捧げるために。
〈クリア〉
この世界ではない自分の、目覚めの刻は、瞬く間にやってくる。
†
夕暮れに染まった住宅街の空を見上げ、制服姿の
「……何?」
だが、彼女に話しかける者など見当たらない。
「もう? 今すぐなの? ……ええ。確かに今日で十六歳だけど。……うん。準備ならできてるから、大丈夫だよ」
誰かと会話でもしたかのような仕草を見せたあと、暫し見上げていた空への視線をおもむろに切り上げる。
腰まである長い髪をさらりと揺らしながら、再び道の先を歩き始めた。
ザワリとした風だけが、駆け抜けていく。
†
「……」
そんな紅里亜の姿は、近所に住む者たちには不気味な姿として映っているらしい。井戸端会議に花を咲かせていた主婦たちが、ここぞと囁き始める。
「……ほんと、変わった子よねぇ」
「今のも見たでしょ……。誰と会話してたのよ、あれ」
「うちの子の話だと、学校でもあんな調子なんですって」
「ああ、聞いたことあるわー。成績はいいし、素行も悪くはないみたいだけど、普段がああだから『気味悪い』って誰も近づかなくて、いつも一人。先生もあまり近寄らないみたい」
だんだん遠くなっていく道の向こう。一〇〇メートルほど先を歩いていく紅里亜の姿を、そっと追いながら話を続け──
「そうそう。あの子の世話してる更科さんご夫妻も気味悪がっていてねぇ。正直なところ、あの子が怖いって言っ……」
そのタイミングで。
「──」
くるりと、噂の当人が踵を返したのである。
「ひゃっ」
「あ、えっ」
暫しじっと見つめられた主婦たちが焦って視線を外せなくなったさなか、紅里亜はニコッと笑って深くお辞儀する。
「えっ──」
まさか、あの距離で聞こえていたのかと。いやまさかと。ただ驚きで口をパクパクと青ざめるしかなかった。
†
〈クリアさま~。聞こえたからって、アレはどうなん?〉
「だって……。今夜が最後なら、ご近所さんにご挨拶くらい当然じゃない」
〈じゃあ、更科のおじさん・おばさんには、どーするん。いちおう世話になった人間たちなんでしょ?〉
「そうね。置き手紙だけしてく。今夜は旅行でいないんだもの、仕方ない」
紅里亜の周りには、おそらく他の人間には見えないであろう小さな人型の何かが飛び回っている。
「ええと、あなたはチュララ……だっけ。あとどのくらい、時間残ってる?」
〈夕陽が沈む前に行かないと。人間の言い方で、五分ね〉
「あ、けっこう忙しい?」
〈だから、急いでって言ってるの! アタシは《扉》の準備するから、早くね〉
「ん、すぐ済ませる」
家につくなり、二階の自室へと駆け上がった。
机の引き出しから便箋を取り出した紅里亜は、サラサラと走り書きの短いメッセージを残し、その場にペンとともに置き去りにする。
「ねぇ、チュララ。着替えとかはどうしよう?」
〈何も持たなくて平気よ。必要なものは一式準備してるって、フォース様が言ってた〉
「フォース様? ……って?」
〈向こうへ行ったら紹介するよ。──さ、時間が迫ってる。行くよ!〉
「うん、お願い」
紅里亜の同意を得たチュララは、先ほどから準備を始めていた《扉》に手をかざす。すると、小さな鍵のような光が現れ、紅里亜を照らし。
〈この光が、《妖精界》へと続く認証キーだよ。触れることで、あなたが妖精界の者であることを認め、たった一度だけの《扉》を開く〉
「……」
〈さあ、クリア様〉
促されるままに、光の鍵に手をかざす。一瞬だけ、ほんの手前で止まるが。
「──……」
(私が本当に帰るべき、在るべき場所へ)
少しだけよぎる人間世界への念を断ち切る決意とともに鍵に触れ、新しく生きる世界への《扉》を開くのだった。
[つづく]
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