第2章_第23話_地獄
それは、穏やかで低い、どこまでも凪いだ声だった。
雪白はその声を聞いた。直後、奴隷はピタリと動きを止めて、勢い余って振り抜いた刀が目の前の奴隷の意識を刈り取る。
『大分やられたね。これは、番犬様大勝利ってところかな』
奴隷たちがスピーカーを一斉に仰ぐので、雪白もそうする、瞬間少し後方から鋭く息を吸う音が聞こえた。茜だ、そして叫声が響き渡る。
「てめえ! 高みの見物決め込みやがって! 降りてこい! 俺を殺したいなら! 降りて戦え……!」
それは血を吐くような、振り絞るような叫びだったのだが、当然、その声は届かなかった。
『番犬の皆々様はまだまだ元気だね。政府の奴隷って意外と無能なのかな。ねえ、処刑されたくなかったら』
その声は淡々として涼しげで、楽しそうな響きすら雪白は感じ取った。やはり脅されていたのか、班長の言っていたことは正しかったのだ……と再認識すると共に込み上げてくる怒りに溺れそうになる。
『——口にある薬を飲むんだよ』
ざ、と。雪白は自分の顔から血が引いたのを感じた。声はひたすら穏やかに駄目押しの一言を口にする。
『そうすれば今だけ強くなれるから』
「飲むな!」
雪白の上司の短い悲鳴。雪白は有無を言わせず近くの奴隷に飛びかかった。口元に手が届きそう、というところで、どこか得意そうな顔をした彼は喉をひとつ、動かし、て。武器を持ち直し、ふりあげて。
——地獄になった。
地獄とは在るものではなく作られるものなのだと雪白は知った。もがき苦しむ彼らしかいない光景は、どこか懐かしい『あの場所』にも似ていた。
1人はビクビクと瞼を痙攣させてのたうっている。
1人はもう動かない。
1人は喉奥に手を必死で突っ込んでいる。
1人はなりふり構わず叫び、走り回っている。
雪白の目の前にいた彼は持っていた武器で彼自身を殴り始めた。そしてしばらく経つと大量に泡を吹いて、ばたんと倒れ込んで、2、3度痙攣した。死んだ。
茜はまだ踠いた。必死で目の前の人間に飛びつき、茜より背の高い彼が薬を吐き出そうとするのを手伝った。だが、奮戦虚しく彼は頭から倒れ込んだのだ。
そして、静かになった。
あちこちで吐瀉物やら喀血した跡が広がっていた。男女問わず入り混じった人々は様々な格好で、だが一様に倒れ込み、白目を剥いて死んでいる。
声にならない声をあげたのは樒だった。
「この……!」
階段に向かってだっと駆け出す。下には人はいなかった。ならば館内放送をかけている『トラ』は今、上階にいるはずだ。雪白も当然それに続こうとして……肩の痛みが警鐘を鳴らした。
さっき、撃たれたのはどこからだった?
「行くな!」
茜が声高に叫ぶ。樒が振り向いた、瞬間。スローモーションに思えるほど、いっそのこと淡々と、弾丸が樒の胸元を撃ち抜いていった。
樒、と悲痛な声が呼ぶと同時、階段の向こうにいた奴隷が倒れた。茜の撃った銃弾に倒されたのだ。その場には黒百合隊以外、本当に誰もいなくなった。
僅かな音に雪白が反応する。班長と言ってそちらを指差した。その方向、窓の向こうにはロープが下がっていた。そして、一瞬だった。一瞬で、男性二人がラペリングして降りていった。顔立ちは面で見えない。ただ一つわかるのは、二人が野良の一員だということだ。
茜が窓に駆け寄った。窓がはめ殺しであることに気づくと、体ごと体当たりしガラスを割る。そして銃を構えると、撃った。2、3。5、6と、やり場のない怒りをぶつけるように何度も撃つ。その姿は、迷子の子供がいつまでも他人の袖を引いているような、頼りなさを感じさせたのだ。「許さねえ。地獄の果てまで追いかけて、必ずあんたらを潰してやる」そう叫んだ声はほとんど悲鳴だった。雪白が肩を叩くまで、茜はいつまでも下を撃っていた。当然地面には誰もおらず、血痕が点々と残っている。茜の瞳孔は開かれ、肩で息をしていた。雪白は茜の目を覗き込み、どこに当たりましたか、と聞く。そして、段々と視線が現実に戻って来るのを見た。
「胸を狙ったんだが……腹に当たった。それでも痛手だったと思う……そうだ、樒!」
茜はハッと気が付いて樒に駆け寄る。樒の顔はかなり青くなっていて、呼吸は弱々しかったが、まだ生きていた。茜は樒の服を割き、傷口を検分する。急所は外れているのに取り敢えず安堵の息を吐いた。弾丸が血管にめり込んでいる、だがこれならば、茜の技術で治療できる。
「雪白、樒の手足を押さえてくれ」
茜はポーチからピンセットを取り出した。
ノ風は大活躍の内に勝利を収めたらしい。だが、その顔は浮かなかった。警備隊の隊員達に感謝も感謝、大感謝されたことがノ風のしこりになっているようだ。
「ありがとう、って言われたんだ。たくさんさ」
「素直に喜べばいいではないですか」龍巳の選んだ人材はやはり性根がまっすぐで美しい、と雪白は思った。ノ風は首を振る。
「違うんだ……嬉しいなんて俺の中にないんだ……ありえねーんだよ」
なるほど、と雪白は思う。この自分を兵器だと思い込んでいる少年にも、何かが芽生え始めているらしい。それは、時の経過か。それとも、あの必要悪ぶった班長がもたらしたものか。彼が淡々と、だが惜しみなく降らす、何気ない日常の雨が、彼を少しずつ変えているのか。だが、雪白に出来ることはない。第一雪白自身、そう言った情感には近頃慣れ始めたばかりなのだ。いつぞやに樒が、茜と雪白を連れ出して、ノ風は脆いと説いたことがあった。だから、彼の言うことを否定してはならないと。彼ならば、今のノ風にかける言葉も見つけられるのだろうか、と床に沈む樒を思った。彼はまだ、目覚めない。
「怪我はありませんね」
あちこちが破けて惨状になったノ風の服の下は、つるりと卵を剥いたように(雪白はゆで卵を食べたことがないのだが)なめらかである。
その言葉に、ノ風はきょとんと首を傾げた。
「故障ならねーよ?」
灰色の滑らかな壁の中。設けられたスペースは広く、様々な障害物が設置されていた。目の前には裸の少女がいて、自分を恐怖に凍りついた目で見上げている。自分が刀を取り出すと、益々身体を竦ませる。自分は滑らかに走り出した。少女ももんどりうって駆け出す。少女は障害物を正直に乗り越えていったが、自分にはそれを迂回するルートが手に取るように理解できたので、残念ながら少女にすぐに追いついた。追いついて、しまった。なにやら超音波のようなものが肌を震わす。何かと思えば、少女が叫んでいるのだった。それが無性に怖くて、辛くて、刀を構えた自分はまっすぐに胸を突く——。
雪白は飛び起きた。胸の鼓動が痛い。眠れない夜だった。ようやっとうとうとした時に、悪夢を見た。だが、内容は何だったか。いやに鮮明だったような気もするし、ひどく遠いもののような気がする。ただ一つ分かったのは、あの夢を理解してはならないということだった。それはかの兵器じみた少年の地雷を、真綿で包んで保護するのにも似ていた。呼吸は速く、荒く、ぎゅうと心臓を締め付けている。起きよう。雪白は思った。
無意識にだろうか、それとも意識的にか、黒に柔らかく茶が差した丸い頭を探している。あの頭は驚くほど丸い。そして、小さい。だが、その懐は広く深く温かいことを雪白は知ってしまっていた。
苦い煙の香りが鼻をくすぐる。振り向くと、窓が開いていた。
「一服どうだい」
屋根の上によじ登ると同時、声が降ってくる。ああ、この姿だ。漫然とした安堵を雪白は受け止め、沈黙でそれに答えた。屋根の上に座った茜は、多少残念そうに差し出していた葉巻を戻す。そして一息吸った。この香りでは恐ろしく苦いだろうに、茜の横顔は涼しげですらあった。
「ジャンクですね」
覚えたての言葉を舌先で転がしてみる。確かになあ、と煙に囲まれて茜は呟いた。
「だがなあ、これを吸うと落ち着くんだよ」
雪白はこの香りを嗅ぐとそわそわする。大量虐殺を成した夜、茜は決まって煙草を吸うから。現実逃避のつもりなのか。雪白は、茜に容赦はないと思っていた。普段殺しに躊躇はなく、指示は的確で、鮮やかですらあった。だが、違ったのかもしれないと、今日の姿を見て思ったのだ。そうだ、そもあんなに仲間に情け深い人物が、人を殺してどうもないわけがない。
そんなことを考えているのが伝わったのだろうか、茜はひとつ苦笑した。
「正義はな、人それぞれの心にある、生きようとすることに繋がる全部だと思っているんだ。例えば食料を手に入れる。そのために金を稼ぐ。……そのために人を殺す。それらは全部、正義だと思うんだよ」
「正義、とまでは言えない、かと」
「それは、あんたの正義に、人を殺す正義が反しているからだよ。でもあんたが間違っているわけじゃない。正義の間に善悪はないんだ」
「つまり?」
「俺は他人の正義を邪魔している。それも、自分の正義の邪魔だからという理由で」
「お前の理屈でいくと、誰でも多少はそうでしょう」
「そうかもな。だからこそ俺も、いつかは裁かれる日が来るんだろうな。俺が殺した全ての人のように」
ようやっと納得した。茜は、裁くべきでない人を裁いてしまったことを、持論に落とし込んで無理やり自分を納得させようとして、出来ず、落ち込んでいたんだろう。無理やり連れてこられて脅されていた奴隷の彼ら。気になったのは、その口調だった。それはほの暗い喜びを孕んでいるようで……思わず言い寄った。
「お前、死にませんよね?」
茜はうっすら笑んだ。それは、見るものを笑わせるためだけの、空虚な笑み。
「死なねえさ。俺は、死ねないんだ」
そうじゃないと叫びたかった。汲みたての水を啜る清々しさ、斜陽に伸びた影、五人で囲む食事の尊さ、雪白の舞うような剣戟、樒の隠密に長けたナイフの鈍い反射光、ノ風の豪快な剣舞、おはよう、と漏れた笑顔、どこまでも続く麦畑、本の中の深い蒼。そういったものに執着して欲しかった。雪白がそうであるように。死にたくないと言って欲しかった。悪寒は、正しかったのだ。
茜には、生への執着が、ない。
こんな世界で生き残り続けて、あんなに生き汚い剣術を披露しておいて、茜には死ねない義務感はあっても、死にたくない執着心がない。
「……班長は……何のために生きるのですか」
「難しいことを聞くな。そうだな、俺は……。昔話をするなら、俺は小さい頃弱くて、大事な人に護られ、その人を喪ってしまった。だから今度は強くありたい、護りたいと思って生きている」
煙草をぐりぐりと屋根に押し付けて、火を消すと、茜は振り向いた。それだけじゃだめかい。雪白は答える。
「答えになっていませんね」
「手厳しいな」
煙の残滓が四分五裂して、茜の腕から肩に侵食した。まだ苦い香りは引かない。
「生きろ、と言われたんだ。その人の死に際に。汚しても汚れてもいいから生きろ、ってな。だからそれを守っている」
頭をガンと殴られたようだった。だって、だってそんなのは……。
「呪いだ」
「そうかもな」
言った茜は諦めたような笑いを浮かべた。
「いくらここにいたって……あの人は帰ってこないこと、分かってんだけどなあ……」
たった一人。たった一人だろう、大切な人と引き裂かれて、それでも死ぬことは約束だから許されない。弱かったのに、人なんか殺せなかったのに、汚しても汚れてでも、生きなくてはならない。それはどれほど辛く、悲しかったことだろう。それでもそれを、律儀に達成し続けた、死人との約束を守り続けた茜は——なんて哀れで、愛しいのだろう、と。雪白は思った。
「明日からは奴隷街の見回りだ。忙しくなる。風邪を引いちゃいけない、戻ろう」
そっけなく呟き、表情を元に戻す。どれだけ回数を重ねればこうも感情を推し殺せるのか想像もつかない。雪白は新たに芽生えた感情——彼を守りたい——を胸に、屋根を降りる茜の後に続いた。
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