第2章_第22話_死に場所
夕闇。ようやっと辿り着いた白樺邸は、白く塗られたコンクリートに緑の窓が点々と配置されたビルだった。裏口は目の前、薄紅色に暗い雲が垂れ込める空の下、案の定人影はない。冴えた静けさは、茜の不安を一層駆り立てる。戦地から帰った雪白が合流し、ノ風が混乱渦巻く楠邸に向かって、現在3人。恐らく野良はすでにこのビルを占拠している。と、すれば、すでに武器も彼奴等の手に渡っていることだろう。遮蔽物に身を隠してここまで来たが、ここからは身体を階上に晒して入り口に向かわねばならない。上を仰ぐ、人影はないが、それがいつ覆されるかは分からないのだ。そして、その場合……逃げ場はない。
茜の緊張の糸は限界まで張り詰めて、いつぷつんと切れるとも分からなかった。乾いた唇を湿らせて、そうっと言葉を滑らせようとして、口を閉じた。後ろをちらと振り返る。2人の目の端は固かったが、その瞳はじっと茜を伺っていた。息を飲む。と、同時に逡巡は消えた。大きな瞬きを二つ、茜は強い眼差しを2人に向け、軽く頷いたのだ。そして上を振り放け見る。人影はない。ならば一瞬で駆け抜けろ。そこに使命がある限り、それしか手立てはないのだろう。そして、そんな自分についてくるしか、彼らの道はないのだから、と茜は拳銃を抜きはなち、スライドを引いた。
茜くん、と呼ぶ声が聞こえた気がしたが、それが耳に届いた頃には茜は裏口の戸を開け放ち、室内に銃口を向けていた。2、3秒……レスポンスはない。茜は壁に体を寄せると、2人を手で招いた。何故だか苦い顔をしながらも、2人が顔を出す——茜はそれを見ていた。一瞬の出来事だった。雪白に向かって幾筋もの熱線が降り注ぎ、その内の一本が肩に突き刺さり抜けた。
「雪白っ!」
樒が悲鳴をあげる。ざっと身体中の血が抜けたような気持ちを味わいながら、茜は叫んだ。
「止まるな走れ!」
続く銃声が今度は樒の足を撃ち抜いた。あぐ、と声が潰れる。咄嗟に雪白が樒に肩を貸し、駆けると、茜のそばに半ば倒れこむように飛び込んだ。
——やってしまった。やってしまったやってしまった!
裏口はどこかから見張られていたが、武器までは構えられておらず、手薄だった。姿を見せない1度目が1番安全だったのが、それを茜が消費してしまった。そのせいで2人が傷を負って……「反省があるのなら」
荒い息の隙間、雪白が上目遣いに茜を睨んでいた。
「勝手に命を賭けないでください。お前の死に場所はここですか」
「何のためにボクらがいるのさ」樒も続く。
茜は限りなく弱々しく息を吐く。
「お前の代わりに生かされても嬉しくありません」
茜はの顔はその瞬間真っ白になった。その色に気付いた雪白は頰に触れようとしたが、その前に茜は無理に微笑んだのだった。
「そんなつもりじゃねえさ。さ、急いで手当てをしよう。相手は装備を整えて待ってるはずだからまだ降りてこねえだろうよ」
1階。敵はいない。物資なし。多数の死体。
2階。敵はいない。物資なし。部屋が荒らされている。
茜は考える。倉庫らしき場所のドアがこじ開けられ、中身が空になっていることから、ことが済んだことは明白と見える。それだのに奴らが未だこのビルに留まり、見張りを立てていたのは何故か。籠城? 否、それはないだろう。ここを本拠地にするため? そうは考えるも、どうもしっくりこなかった。
「本当に銃弾は4階から降ってきたんだな」
場違いにま白い壁に手をついて、茜は雪白に念を押した。雪白は神妙な顔で頷く。確かです、と。
「今までいなかったが次はいるかもしれない。今までに見てきた下の階から奴らが襲ってくるかもしれない。そういう心構えで行こう。行くぞ」
そうして次の階に足を踏み入れたと同時、ゆったりとした低い声が、突如降って来た。
『ああ、やっぱり来たんだね。流石だ』
総員総毛立った。その声は、頭上のスピーカーから届いていた。声はひい、ふう、みい、よ、と何かを数えている。茜は小声で「動くな、声も出すな。放送に集中しろ」と2人に片手を掲げた。樒がそれでも何か身じろぎしたが、茜はそれに気付かなかった。
『初めまして、番犬さん。オレのことは……トラと言えば伝わるのかな』
この一言で茜側には、警備隊以外の武装集団が政府にあることが野良に割れていることと、トラと名乗る人物が今同じ建物内にいることが分かった。だが驕ってはいけない、あれだけ中央をぼかして来た野良がこんなにもあっさりと大将の存在を明かすとは考えにくいからだ。だが、大穴ということもありえなくはないし、中央に近付くことは確かである。3人は放送にさらに耳を傾けた。
『集中してくれてありがとう。でもこれは、聞いても聞かなくてもどちらでもいいんだ』
声は低く、ひたすらに穏やかだった。まるで水面のようだな、と場違いに茜は思った。ひたすらに穏やかな水面。そのようなものこの世界では滅多にお目にかかれないのだけども、とそう考えてしまうほど、あまりにその青年の声はこの場にも、この世界にもそぐわなかったのだ。
水面がわずかに揺らぐ。
『何故ならね、君達は、君達と同じく政府が隠し持っていた奴隷たちによって、皆殺しにされるからなんだ』
なだれ落ちて来た人々は武器を振り上げていた。
3人が警戒するまでもなく、悪夢はその腕を振り上げて殺到している。茜は打刀を斜めに構えて待った。雪白も鯉口を切り、樒は大きく後ろに飛び退っている。10、20、30……茜は階段から出てくる人々が50を超えた辺りで数えるのをやめた。持っている物は棒だったり、刀だったり、色々である。銃器を持っている者もいるはずだ。問題はこれらを本当に政府が所持していたのかということ。茜だけがわかること……地下の人々に収容されていた者らなのではないかと、茜は勘繰った。
政府は関係ない。政府に潜む悪趣味な悪意が、捕らえていた虫を今、飢えた猫の下に解き放っただけなのではないか。
「班長!」声は珍しく激しかった。「指示を」その声は何より速やかに茜の気持ちを引き戻す——黒百合隊、処分班、班長、の茜に。今はどう言う状況だ? ああ、命の危機だ。そうだろう? なら——蹴散らせ。いつものように。全て殺せ。でも、だってと声は煩い。この人たちは——。
ついに人の群れとぶつかった。茜は棒を振り上げる男の鳩尾に柄を叩き込んだ。咽せる彼を蹴っ飛ばして後方の何人かを押し潰す。……気絶はしていない。何れ這い上がってくるだろう。それでもそこまでの時間稼ぎはできた、と猛然と横からやってきた一撃を避けて代わりに鞘で殴りつける。ここまできてわかったことがある。彼らは、トラの言葉を借りるなら奴隷たちは、戦闘訓練を受けているわけではない。彼らは及び腰で、武器の扱いも稚拙だった。やはり、やはりと冷たいような疑念が大きくなってくるにつれて腕が重たくなる。稚拙にしても量は質に勝る、剣に現れた一瞬の迷いの隙間を、背後の大剣が穿ち抜こうとしていた。
「茜くん!」
突き刺さったのは樒のナイフ。致死性の毒に、男の取り落とした大剣が、茜の右腕を間一髪掠めていった。そのまま樒が身体ごとぶつかって来たと思えば、足元からぐんと浮き上がる。
「雪白! 撤退だよ!」
そう言われるまでもなく雪白はこちらに向かって来ていて、足元には豪奢な血溜まりが広がっていた。普段ならば茜もそうしただろう。政府に逆らう無法者は次々赤い花へと変わった筈だ。だがあの人々は。
階下に降りようとした矢先、登ろうとする人々に行き合った。その人らは同じく及び腰で、顔を青ざめさせた。そして怖気付くように得物を振り上げる。やはり違う。と茜は思った。
「あいつらが野良じゃない?」
逃げ込んだ部屋、ドンドンと木霊する音を背後に樒が聞き返す。ドアの前には簡易的なバリケードが積まれていた。
「茜くん、やつのそんな与太話を信じちゃあだめだよ」
樒は言う。力強く自信に溢れた声は、茜の心の強度からしてみれば思わず頷きたくなるものだったが、彼はそうはしなかった。
「気付いただろ。あの人たちは不慣れすぎる。それに、殺しを専門にしている輩は、ターゲットが来ても平静なんだ。あんな風に慌てない」
ぶつ、ぶつぶつ、口元で何事か呟いていた茜はうん、と頷いた。その瞳の焦点は静かに定まっている。
「これは予想だが、あの人たちはなんらかの手段で脅されてここにいるんだと思う。そして武器を持たされ、俺たちを殺せと命じられた」
「それで、どうするんです」
茜の隣で雪白の怒りが膨らんでいく。握った拳が白くなっていることは、確認しなくともわかった。
「俺たちに皆殺しにされる。政府が唯一持つ武装集団である俺たちに、政府への不信感を残して」
ギッと軋む音が雪白の口元で鳴った。同時にドアを叩く音は最高潮を迎える。茜は振り返り、今度こそ淀みのない口調で朗々と読み上げた。
「彼らを殺すな! 上階に向かえ!」
応っと応えた2人がバリケードに向かう。ドアが壊れると同時、向こう側に押し込んだ。廊下で鈍い音がする、2人はそれに飛び乗って一閃、道を切り開いた。茜も続いて打刀を納刀せず出向かう。早速バリケードの下から起き上がってきた者が振り上げた鉈、その脇を潜り抜けると柄で殴ると、男は声もなく昏倒した。新手が横殴りに棒を振ってくる、がしゃがんで避け、鞘で顎先をぶち抜いた。鈍い呻き声、そして動かなくなる。
得物を持った者と殺し合いをする中で加減をすることは相当に難しい。それが今のように多対一ならば尚更である。樒はナイフの柄でほぼ殴りつけているが、あれは戦闘が続けば疲労しやすく、危うい戦法である。対して雪白は納刀したまま急所を殴っており、あれだと大した痛手にならないか取り返しのつかないことになるかの二択だ。かく言う茜も、この人数相手に柄と鞘を使っての大立ち回りでは、いつ得物を取り落とすかわからない。
(そんなことはわかってる)
歯ぎしりとともに腹にどうっと鞘をめり込ませた。痛みで暫くは動けないだろう、と捨て置く。何せ数が多いのだ。茜は連続で稽古でもつけているような気分になった、彼らにはひどく隙が見られて、急所がガラ空きなのである。と、倒した人数が6を超えた頃、茜ははたとあることに気付いた。次に鉈を振り上げて来た者は顎を打ち抜いて沈めた。全員癖が同じなのである。通常様々な体勢になった時に取る型は人それぞれだ。だというのに、先程から相手をしている人々は、稚拙なのに出す攻撃がみんな一緒だった。茜としては対応の仕方がパターン化出来て有難いのだが、こんな敵は初めてである。何故、と熟考に入る、
「っと……そう来るよな?」
伸び上がった茜は小気味のいい音を立てて頭を打った。そのままその体を蹴り倒すと道が出来た。先を行っていた雪白が2人を阻む壁を打ち倒す。階段はすぐそこだ。
「待って!」
茜と雪白を止めたのは樒の悲鳴だった。人と怒声に阻まれた中、樒の声が届く。
「死んでる……」
殺した、ではなく? 一瞬茜の思考は停止した。雪白に強く手を引かれ体の盾に収まると同時、茜の背後でがんっと打撲音がする。「しっかりしてください」雪白の声は厳しかった。ああ、と呻いて打刀を振る。しかしそれは昏倒させるには至らず、対峙していた男はさらに刀を振り上げた。こうなると仕方がなくて、茜は抜刀したままの刀身で殴りつけるように、男を、斬った。もんどり打って転がった男は、口の中で何かを動かすような仕草を見せた後、それを——「飲むな!」呑み込んだ。
茜はああ、と呻いたのだろう。微かに、だが濃厚な絶望の気配が広がる前で、男はぐ、だとか、がぶ、だとか、兎に角音にならない音を立てて、やがて泡を吹いて、首を斜めに落とし、死んだ。
「こいつら薬だと思って飲んでるんだ。でも違うんだ。毒なんだよ」
気付けば、茜や雪白が打ち倒した多くの奴隷たちも、同じく泡を吹いていた。
茜の目の前で、目を閉じていた男が薄く目を開いた。茜は雪白を振り切って駆け寄る。
「飲むな! 飲むんじゃない、それは——がっ!」
茜の足元にもう一つ影があって、それを転がって避け、起き上がった時、男は帰らぬ人になっていた。振り向き様柄を叩き込みながら茜は歯をくいしばる。そもそも先に自分達を殺そうとして来たのは奴隷たちである。ぱたぱた。頭から血が滴り落ちた。彼らは茜の邪魔をした。茜の正義の邪魔をした。だから排除するべきで、それが気絶か死亡か変わっただけだ、と理性は囁いて来るのだが、刀を振るいながら茜は、黒い気持ちがとぐろを巻くのを抑えられずにいた。
「全員気絶させろ」
叫びながらそれがどんなにか難しいかは分かっている。奴隷はまだ下からも湧いて来るし、上にも銃を持った人が数人はいるのだ。それでもそう言わずにはいられなかった。彼らの生活と全く無関係なところで殺人を要求されて、従っても口封じの3文字のためだけに死んでいく彼らが、哀れでならなかった。
戦場に哀れみを持ち込めば、それは命取りになる。10分もせず茜は血塗れになった。雪白、樒にも疲労が見える。よろけながら尚刀を振る中、それは訪れた。
どこまでも平静に凪いだ声は、やはりこの場には恐ろしく不釣り合いだった。
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