15.辛い記憶と隣の席の男の子

 GW明け、6年生になって初めての席替えで由香利の隣になったその男の子は、休み時間になるといつも俯いて、本ばかり読んでいた。

 ぼさぼさの頭、よれよれの制服といった、だらしない格好。そして誰も近寄らない、むしろ近寄らせないといった風情で、黙々と本のページをめくっている。4月に1回だけ、声をかけた事があるが、無視されてしまった事がある。それ以来、由香利も積極的に声をかける事はなかった。

 授業開始のベルが鳴り、友達の席から帰ってきた由香利は、ふと隣の席を見た。男の子は―確か、榊乃さかきの優人ゆうとという名前だった――いつもどおりの無表情で、次の授業の用意を出していた。

 しかし、ほんの少し優人の表情が翳った。机の上に出ているのは筆箱とノートだけで、肝心の国語の教科書がない。先生が教室に入り、日直が号令をかけたので、由香利は慌てて立ち上がる。挨拶が終わり、着席したときにちらりと横を見たが、やはり教科書は出ていなかった。

 何か諦めたような、うつろな目をした優人が気にかかった。

「教科書、忘れたの?」 

 由香利は思い切って、ひそひそ声で優人に話しかけた。しかし、優人は由香利の言葉に答えようともせず、うつむいたままだった。

 由香利は困ってしまった。親切心から声をかけたのに、顔さえこちらに向けてくれないのだ。意地悪な気持ちが浮かんで、このまま先生に注意されればいい、とまで考えたが、自分が同じ立場だったらと考えて、止めた。

「朗読の時にきっと困るから、一緒に教科書見ようよ」

 由香利は優人の返事を待たずに、椅子を隣の席に寄せ、教科書の半分を優人の机に広げた。

 すると優人は俯いていた顔を、重そうにもたげると、由香利を見た。無表情に見えたけど、目はほんの少しびっくりしているようにも見えた。しかしすぐに顔を教科書に向けてしまった。

 お礼の一言もない事にほんの少し憤りを感じたが、これ以上授業中におしゃべりをするのもはばかられたので、由香利も同じように教科書に顔を向けた。

 その時、後ろの方から誰かのクスクス笑いが聞こえてきた。気になった由香利が少し後ろを向くと、後方に座っているクラスメイト数人が、自分の方を見て笑っているのが見えた。

 微笑ましい笑いではなく、人をバカにする時の嘲笑の類なのが分かり、由香利の気分は悪くなる。

 なぜ笑われているのか、理由はすぐにわかったが、由香利はあえて気にしない振りをした。



 国語の授業が終わり、先生が教室から出た後だった。由香利は教科書を自分の手元に戻そうと、優人の方を向いた。彼は相変わらずの無表情でノートをしまい始めていて、机半分に置かれた由香利の教科書には、一切触る様子が無かった。

 由香利はどう声をかけていいのかわからず、結局無言のまま教科書を閉じて、自分の手元に寄せた。そのとき、こちらを見た優人と目があった。ちょっと珍しい琥珀色の瞳は陰りが見え、生気が感じられなかった。そして、小さく口が動くのが見えた。

「何で、教科書貸してくれたの」

 すごく小さな声だった。ぽつりとつぶやくような、ともすれば独り言のようでもあった。

「授業で困ると思って!」

 少しだけムッとして由香利は答える。感謝の気持ちが見えなかった事に、純粋に腹を立てた。しかしすぐに、このおせっかいは自分が勝手にやった事だと思い出して、少しだけばつの悪い気持ちになった。

 優人の琥珀色の瞳が、ほんの少し潤んだ気がした。しかし、すぐにそっぽを向いて、黙って本を取り出した。ハードカバーの表紙を開いた瞬間だった。小さく、本当に小さく囁くような、自然に出てしまったような声がした。

「……なんか、どうでもいいのに」

 最初の言葉は聞き取れなかった。「何が」「どうでもいいの」か、由香利は分からぬまま、黙して本を読みはじめた優人から、目をそらした。



 帰り道、めぐみと別れた後、由香利は昼間の事を思い出していた。

 国語の授業の後、結局1回も優人と話をしないまま学校が終わってしまった。帰りの会が終わると、優人はいつの間にか姿を消していた。

 由香利はどんよりとした気持ちを抱えたまま通学路を歩く。あの時教科書を貸した事は良かったのか、悪かったのか、そんな思いが渦巻いていた。そして同時に、少しだけ昔の事を思い出しつつあった。

【ユカリ、嫌な記憶は、鮮明に思い出さない方がいい。君の心が、乱れる】

 囁くアルファの気遣う声に、由香利はほっとする。なんとなくまっすぐ家に帰りたくなくて、通学路の途中にある、小さな児童公園に入った。

 公園には、幼児とその母親であろう女性の親子連れしかおらず、とても静かな時間が流れている。由香利は、親子連れから離れているブランコの1つに腰掛けた。

(アルファなら話さなくても、私の心とか、記憶とか、全部知ってるんじゃない?)

 少しだけ意地悪な聞き方をしてみた。クリスタル・アルファは由香利の身体の中にあり、由香利の命そのものでもあった。そして、6年前の事件の記憶を封印していたのはアルファだった。

 しかしそれは、由香利の心を壊す事の無いように取った行動だった。

【いくら君の身体の中にいるからといって、むやみやたらと記憶をこじ開けて、君の心を乱すまねはしない。それに、私が君から感じるのは、感情の動きぐらいだ。君が嫌だとか、快いだとか、そんなな事くらいしか、分からない】

(そっか……じゃあ、ちょっと話をしたい気分なんだ。聞いてくれる?)

【分かった】

(あれは小学校4年生の秋くらいかな……)

 由香利の思考は記憶の奥底に沈んでいく。己で鍵をかけてしまった記憶に、恐る恐る鍵を差し込んで、傷つかないようにそっと開けた。


 由香利はクラスの中でもグループのリーダーだった女の子に、突然いじめを受けたのだった。


 そのいじめは、始めは理由が分からなかった由香利には辛いものだった。グループぐるみで「由香利に話しかけてはいけない」というルールを作り、由香利を孤立させようとした。いじめはどんどんエスカレートし、仕舞いには、持ち物も隠されるようになった。

 始めのうちはかばってくれた友達も、ほかの子からのいじめを怖がって、皆と同じように由香利を無視するようになった

 運の悪い事に、恩は別のクラスだった。それゆえに、クラスの中に、味方は1人も居なくなっていた。

(なんで自分がいじめられたのか、そのときはぜんぜんわかんなかった。他の人の悪口なんて、言ったつもりなかったのに。最初のうちはね、気づかない振りして、普通にしてるつもりだった)

 由香利は深くうつむいた。終わった事とはいえ、やはり思い出すのは辛かった。

(でも、それがいけなかったのかな、どんどんエスカレートしていって、そのうち私は、何も言わないように、何もしないように、何もかもに怯えながら、教室の中で過ごすようになった。誰の声にも耳を傾けなかった。返事もしないようになった)

 そしてひとりぼっちになってしまった。誰も自分の事を気にしてくれない、という不安でいっぱいになった。

 それでもなんとか学校に行けたのは、必ず休み時間に、廊下で由香利を待っていた恩の存在だった。

 1回だけ、由香利の状態に激怒した恩が、教室の中まで入って文句を言ってくれた事があったが、グループの女の子たちが「恩に暴力を振るわれた」と担任に告げ口してしまい、恩は由香利の教室に近づくなと言われてしまったのだ。

 実際のところ、恩は何も暴力などふるっていないのだが、激高した恩の言い方がまずかった。

(先生に怒られたのに、恩ちゃん、それでも私の味方で居てくれた。勝手に暴力女扱いしたリーダーの子が気に入らないって、言うだけだった。由香利がいじめられる理由なんて無いよ、当たり前だよ、って言ってくれた。だからあの時、休み時間になると必ず恩ちゃんのクラスの前まで行ってたんだ。1分1秒でも、あの教室に居たくなかった)

 そしてちょうど始まった大道芸クラブにも打ち込んだ。教室での悲しくて悔しい気持ちを払拭するかのように、バトンに意識を集中させた。

(さすがに3学期には担任の先生も気づいて、声を掛けてくれたけど、遅かった。1回、道徳の時間に「仲直りしましょう」なんて事があったけど、結局変わらなかった。5年生になったら、新しいクラスには、前のクラスの子はあまり居なかった)

 そこでいじめは終わった。恩と同じクラスになった事で、まるでいじめられた事など無かったかのように、振舞う事が出来た。

(……後で分かったんだけど、そのリーダーの子のお母さんとお父さん、4年生の秋に、離婚してたの。お父さんが家を出てったんだって。その子、お父さんの事、とっても好きだったって。そして、同じクラスだった子が言うには、私が自分の家族の事……お父さんと、早田さんの事を、すごく自慢してたから、生意気に見えたって)

 思えば、あの頃の自分は事あるごとに、父の重三郎がどれだけすごいのか、叔父の早田がどれだけ素敵なのかを、頻繁に話していた記憶があった。

(お母さんがいなくて、私はかわいそうじゃないよ、寂しくないよって言う事を、私は言いたかっただけだった。でも、それが他の子には、自慢に見えちゃったんだ。生意気なんだって)

 自分は幸せだった。母が居なくても幸せだと思う事が、いつの間にか無自覚な傲慢に変化し、誰かに守られ、愛され、そうされるのが、普通だと思っていた。家で愛されるのなら、外の世界でも同じだと思っていた。

(思い込みだったんだ、私の)

 それは傲慢だったと気づいたのは、本当に最近だった。

(お母さんは、私の事を、自分を犠牲にしてまで守ってくれた。お父さんや早田さんも、私を守るために、リオンスーツを作ってくれた。恩ちゃんも、あの時……本当は、私の事、少しは嫌な奴って思ったかもしれない。それでも、私の事を信じてくれて、傍に居て、守ってくれた。私はそれを当然だと思ってた。家族とか、親友とか、そういう、無条件の愛に……与えられる愛情に、甘えてた)

 ポケットに入れているリオンチェンジャーを握り締める。いつの間にか俯いていた顔を上げると、空には夕日が浮かんでいた。鮮烈なオレンジ色と青色が混ざるグラデーションを見た。

 もうすぐ夜のとばりが下りてくる。少女漫画で読んだ言葉が頭の中に浮かぶが、今の由香利には、少女漫画のような甘い言葉ではなく、異次元モンスターの出現を意味する、不穏な言葉だった。

 異次元モンスターは太陽の光に弱く、それ故、地球上から太陽が見えなくなる時間帯……すなわち、夕暮れ時から現れる――重三郎と、早田の研究データから導き出された推測だった。

 風が吹き始めた。生暖かい風が頬を撫でると同時に、由香利の胸が、痛みを覚えた。

【奴らの気配だ!】

 気配を感じたその瞬間、公園の中から絹を裂く悲鳴が聞こえてきた。風と共に現れたのは、全身黒色の鎧を纏った、五月人形のような姿をした怪人だった。ところどころに紫色の線が光るその姿が、薄暗い公園に佇んでいる姿は酷く不気味だった。

 由香利は親子連れを公園から逃げるように促した。母は突然の事態に混乱しながらも、荷物よりも、何よりも先に、小さい子供をしっかりと抱きしめて、公園を出ていった。

【鎧武者か……!】

 由香利が鎧武者に向き合うと、辺りに人の気配は無くなっていた。この不穏な空気が、辺りの人たちを遠ざけていた。ポケットからリオンチェンジャーを取り出し、胸元で握り締めて、思い切り叫んだ。

「超絶、変身ッ!」

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