2.秘密のどきどきと胸騒ぎ
学校での由香利は、少し気弱で運動オンチな、それ以外は普通の女の子だった。しいて得意なものと言えば、クラブ活動の「大道芸クラブ」でやっている、バトントワリングぐらいだった。
放課後、クラブ活動の休憩時間。体育館の隅に控えめに座った由香利は、体育座りのまま、小さなため息をついた。手に持ったままのバトンをゆらゆらと揺らしながら、心ここに在らずといった表情で、またため息をつく。
由香利の脳裏に浮かぶのは、夢で何度も現れた緑色の宝石だった。宝石は綺麗だと思うが、特に宝石が大好きという訳でもないのに、何度も同じ夢を見るのが不思議だった。
(なんか、とにかく、大切なものだってことは分かる……でも……)
宝石が放つ光の大切さも、誰かも分からぬ手の暖かさも、全て由香利にとっては嫌なものではなかった。それでも、それが何を意味するのか、はっきりと分からないことが、由香利を不安にさせた。
だが、他人には存在を知られてはいけないような気がして、友人にも、早田にも、そして父親にも話した事はなかった。
「……こういう時って、お母さんに話すものなのかな」
誰に言うわけでもなく、由香利は呟く。
何故か、母親には話してみたいと思った。お母さんなら、この宝石の事をどう思うのだろう。何か、知っているのかもしれない……。
(……? なんでお母さんが、知ってるかもなんて、思うんだろ)
ふと湧き出た考えに、由香利は首をかしげる。でも、大切な親友にも、優しい叔父にも、大好きな父親にも、何故かこの宝石の輝きを教えたくはなかった。
これは、自分だけの秘密のものなのだと。
【――ユ……カリ……】
(――!)
突然だった。胸の奥が突然熱くなり、夢とまったく同じ声が聞こえて、由香利ははっと顔を上げた。思わず、バトンから右手を離し、左の胸にあてがった。心臓がどくどくと波打つのを全身で感じた。自分の身体なのに、どうしてこんな風になるのか、分からなかった。
その気持ちを少しでも落ち着かせたくて、由香利は立ち上がった。二、三歩前に出た後、握ったバトンを顔の前に立てて、一瞬瞑想する。由香利が演技をする前に必ずやる動作で、由香利だけのおまじないのようなものだった。
親指と人差し指の間にバトンを挟み、回転。滑らかに回転したバトンをもう片方の手で掴む。腕と背中と首にバトンを伝わせる。そして空中にバトンを投げる。
くるくる回る銀のバトンが、照明に反射して、由香利はその輝きに心奪われた。
バトンを操っている時は心穏やかになれた。バトンがまるで自分の身体の一部なったように思えるからだ。
ふと、何でこんなに心が騒ぐのかを考えた。お父さんも早田さんも、妙に自分のことを心配している。確かに不審者は怖いが、だからといって少し過剰だった。それに、もやがかかったような夢の風景が、ただの夢ではないような気がして。
その時だった。きらきらと光る中に、ひときわ異質な緑色の輝きが弧を描くように流れ、由香利は目を見開いた。
夢の中で何度も見た、緑色の宝石の輝きが、何故かバトンの流れの中に見えた。由香利のバトンのおもりはオレンジ色の筈だった。
しかし、
(消えた?)
一瞬だった。見えたはずの緑色の輝きは消えうせていた。
それが気になって、由香利の意識がふとバトンから離れた瞬間だった。あっ、と声を思わず上げるが遅く、ほんの少し、降りてくるバトンと指の位置がずれ、カツーン! と派手な音を立てると、バトンが床に落下した。
転がるバトンを半ば放心状態でながめていると、バトンは体育館の隅にまで転がって、誰かのつま先にこつんと当たった。
白い腕と手が丁寧にバトンを拾い上げ、由香利に向かって声をかける。
「これ、由香利のバトンだろ?」
思わず由香利が顔を上げた先には、琥珀色の勝気そうな瞳を持ち、さらさらの黒髪を頭の後ろで一纏めにした少女が居た。
「
「どーしたんだ、珍しい。由香利がバトンのキャッチミスするなんて。はい、バトン」
恩と呼ばれた少女は由香利の隣まで駆け寄ると、拾ったバトンを差し出した。「ありがとう、恩ちゃん」と由香利はお礼を言って受け取った。
「ねえ、私がミスするって珍しいかな? そんな事無いと思うんだけど……」
得意とはいっても、所詮は学校のクラブ活動で覚えた技だ。バトントワリングの教室に行っている子と比べれば、実力の差は歴然としている事ぐらい、由香利には分かっていた。
「え、珍しいだろ、由香利ってノーミスが普通って感じだし。すげーよな由香利って。バトン回すと、まるで生きてるみたいに操るから」
恩は肩にかけていた巾着袋から、カラフルなジャグリング用ボールを取り出しながら、男子に負けず劣らずの男言葉で由香利を賞賛した。取り出したボールを操る姿も大雑把で、おおよそ「女の子らしい」という雰囲気からは、程遠い。
由香利と恩は一年生からの付き合いで、由香利が男子にちょっかいをかけられている所を、恩が助けたのがきっかけだった。
由香利にとっては、小学校に上がってから初めて出来た友達だった。
「ほ、褒めても何にも出ないよ……」
「別に、すげーもんをすげーって言ってるだけだよ。由香利のバトン見るの、私好きだから」
「……だからぁ」
またもあっさりと、ごくごく自然に感想を述べられて、由香利は顔を赤くする。
恩はいつでも、思ったことを素直に口にする女の子だ。それは時折、小さなイザコザを起こしたりもするが、それでも由香利は、恩のことを好ましく思っていたと同時に、消極的な由香利にとって、憧れだった。そして、友人である事を誇りにも思っていた。
母親がいないことについて、過度の同情も攻撃もしない、初めての友達だったからだ。
「恩ちゃんだって……その、ジャグリング、すごいもん。今だってボール一個も落としてないし」
「ありがと由香利。まあ、もう癖みたいなもんだけど」
由香利と話す間、恩の手にある三つのジャグリングボールは地面に落ちることなく、一定のリズムで左右の手を行き来している。
恩はボールジャグリングの中でも、複数のボールを空中に投げるトスジャグリングが得意で、大会では何度か入賞経験があった。由香利も試した事があったが、一つのボールを投げるたったそれだけでも、正確な高さ、一定の弧を描く必要があり、そう簡単に出来るものではなかった。
恩はボールをひときわ高く投げると、くるりと一回転した後、右手で全てのボールを受け止めた。
「おわりっ、と。そうそう由香利、最近なんかあったの?」
ごく自然な調子で、恩は由香利に問いかける。
「えっ?」
まるで、自分の心を見透かされたような質問に、由香利は息を呑んだ。
「な、なんで、そんな」
「なんか最近ぼーっとしてたりするしさ。言い辛いことだったらいいんだ。でも、由香利が不安な顔してんのは、私、嫌だから」
「恩ちゃん……」
苛められっこの自分を心配してくれているのが良く分かって、由香利は嬉しかった。高学年になるにつれて、男子からちょっかいをかけられることは少なくなったが、それでも恩は、由香利のちょっとした表情から気持ちを汲んでくれる。
「ありがとう、恩ちゃん。じゃあ本当に困ったら、相談させてくれる?」
「おう、もちろん! いつでも由香利の力になるぜー」
恩がガッツポーズをしながら答える。オーバーな仕草がなんだか自分の父親と似ているような気がして、由香利から思わず笑いがこぼれた。
不安だった心臓のどきどきが和らぐ気がした。
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