第三話「そして私は幸福の姿を知る」
あたしは腕時計を見る。
時間は夜の十時。我が家に門限はないとはいえ、確実に母さんに怒られる。
今日は「喫茶がじぇっと」のバイトで遅くなったわけではない。
ついさっきまで、高校時代の友人二人とお茶をしていたからだ。
ただのお茶会ではなく、ましてや女子会という名の飲み会でもなく、友人の一人のアイナの人生――というか、恋愛相談に五時間も付き合わされたのだ。
アイナの相談は「好きな人ができたんだ。どうしよう」というものだった。
「あれ、アイナ、彼氏いなかったけ?」
あたしともう一人の友人ユウリは、首をかしげる。
「いるよ。でももう一人好きになったの」
地味なワンピース姿のアイナはハンカチを取り出し、目元を押さえる。
「選ばなきゃいけないのはわかっている。でも、どちらも選べないの」
アイナは両手で顔を覆い、肩をふるわせる。
「どっちも好きなら、どっちともと付き合いなよ」
イケイケでプリン頭のギャル、ユウリは笑いながらコーヒーゼリーを口に入れる。
「いやあ、それじゃあ二股じゃないの?」
あたしは氷が溶けきって結露でぬれたグラスのアイスティーをストローですする。
「ひびきってば、かたーい! それだから彼氏できないんだよ!」
ユウリはあたしの背中を思い切りたたいた。見事な音と同時に痛みが走る。
「で……でも、それじゃあ相手二人がかわいそうよ。それに誠実じゃないし。どちらか選ばなきゃだめよ」
あたしはこの持論を繰り返し繰り返ししつこくしつこく二人に話した。しかし、結論は「人を好きになったことがない女がとやかく言うな」だった。
腕時計を再び見た。現在十時五分。結論がそうなっちゃうなら最初から呼ぶなよ、という怒りがこみ上げてくる。
なんだかもやっとした感情が拭えない。明日、大学もバイトも休みだし、いっそ飲んじゃおうかしら、とうっすらと考える。
明るく煌々としたバルや居酒屋の間をすり抜ける。まぶしくて目が痛い。
「あれ、ひびきさんじゃないですか。こんな夜遅くまで外を出歩いちゃダメですよ」
聞き慣れた落ち着きのある男性の声が聞こえた。
あたしは振り返る。
そこには、黒い癖毛に薄暗い中でもわかるぐらい色白い肌、そして綺麗な金の目を持った男性がカフェテラスで座っていた。手元には弁当箱のようにごついパソコンがある。コースターの上には銀のカップにストローと氷がいくつか入っていた。
「店長! 店長こそ何を?」
あたしは、喫茶がじぇっとの店長で、人の願いを三回だけ叶えてくれる神様、小夜鳴カナタに話しかける。
「店で新しいメニューについて考えていたのですが、煮詰まったので気分転換でここまで。ここのカフェ、Wi-Fiがあるから、ネットにつながるんですよね。がじぇっとでもWi-Fiいれようかと思うのですが、ひびきさんはどう思いますか?」
「店長が決めてくださいよ。店長の店なんですから」
あたしの不機嫌さに店長は何かに気がついたようで、
「ひびきさん、こんな夜遅くまでなにかあったんでしょうか。話ぐらいは聞きますよ」
といつもの仏頂面ではあるものの、あたしに椅子に座るように促した。
あたしは、アイナとユウリについて話した。
店長は足を組むと、
「あなたのご友人は欲張りなんですね」
とぴしゃりと言い切った。
あたしは、人の願いを叶える神様が言うセリフか、とツッコミたかったけど、そんな言える雰囲気じゃなかったので、ただ頷くだけした。
「欲というのは少なすぎてもダメですが、多すぎてもダメです。どちらも身を滅ぼします」
「多すぎても、少なすぎても?」
あたしの疑問に、
「実は適度に欲張りだったから、ボクはひびきさんを雇ったんですよ」
店長はうっすらと笑みを浮かべる。
「て……適度……」
あたしは若干ショックを隠せない。
店長は、
「何事も適度ですよ。食事も腹八分目というじゃないですか」
店長は足を組み直すと、
「欲望、願い、願望。これらがないと人は幸せに過ごすことができません。幸せとは希望のことです。そして希望は食事と同じです。持ちすぎて楽観視してもダメだし、日々感じていかないと、人間は死んでしまいます。絶望の中では人は生きていけないのですから」
店長は急に影のある顔を作った。
「本当はボクは希望を持って欲しいがために、人の願いを叶えているのですが、どうしてもみんな欲張ってしまうんですよね」
夜だからかもしれないけど、店長の暗い顔を見るのは初めてだった。
そして、そんな顔を見るのがちょとつらかった。
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