江戸時代(1600~1867)  儒学大好き封建制度 上が絶対 でも平和

徳川家康1600年征夷大将軍に

15代続く間内情は火の車である。

「続くこと」「逆らわせないこと」を基本に、様々な政策が立てられている。

「花と実は同時に与えない」政策で、格式の高い家には収入を低く設定し、

「大名は鉢植えにせよ」の政策で、転封・改易により、大名の土着を防ぎ、

「百姓は生かさず殺さず」で、年貢はぎりぎりまで上げた。

将軍家に対する信用度合いによって、旗本/御家人(直属)・譜代(関ヶ原以前)・外様(関ヶ原以降)に分けられていた。重要な奉行などの職は旗本から選ばれる。

結婚・城の増改築は許可制であり、

妻子は江戸に住み(人質)、大名は参勤交代で一年ごとに大名行列を作って江戸と国許を行ったり来たりする(余計な出費を抱えさせる)。「入り鉄砲に出女」を関所で警戒して反乱を起こしにくくする。

ときどき「お手伝い」と呼ばれる土木事業が言いつけられて、ひどい財政難をもたらす。

基本嫡男が後を継ぎ、次男以下は部屋住みと呼ばれて居候で結婚もしにくい。

将軍家が絶えてはいけないので、予備に「御三家」が存在し、尾張・紀伊・水戸の三藩が控える。8代将軍吉宗は紀伊藩の藩主である。

さらに吉宗が立てた「御三卿」(田安・一ツ橋・清水家)も存在する。藩主にならず、いざというときに将軍家を継ぐための家である。

大名家の多くは多額の借金を抱え、藩政改革で借金を返しきった藩が、幕末に「雄藩」として力を持つようになる。

借金の貸主となったのは「札差」である。

年貢米は蔵物と呼ばれて大阪の蔵屋敷に集められ、蔵元・掛屋という商人が保管・送金を受け持つ。そして代理で売買を行うのが「札差」で、儲かったらしく、お金持ちが多い。ただし大名貸しに手を出すと返してもらえなくてつぶれる者多数。

蔵物の反対は「納屋物」。民間の流通で、米なら「納屋米」

【法律】武士、朝廷・公家、寺、農民用にそれぞれある。

武士→武家諸法度

公家・朝廷→禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと) 

*これで問題が起こる 沢庵の「1627紫衣事件」(沢庵はたくあん漬けを作ったお坊さん) 幕府に許可を取らずに天皇が紫衣を与えた事件。抗議した沢庵は流罪、天皇は譲位した。

寺→寺院法度 本山末寺の制

*大事なのは寺である。

幕府は寺請制度を用いて、寺に人口把握と身元証明をさせた。これでキリシタンも防げる。

「宗旨人別帳」は家族の宗派を書いたもので、戸籍になった。

農民→田畑永代売買禁止令(田畑は売るな。質入れは可)

田畑勝手作りの禁(商品作物を作ってはいけない。五穀の生産を減らさないため。新田畑には作ってよし。)

慶安の触書(着て良い服、家、食べてよいもの、事細かに規制している。)

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【百姓は国の基本である】

江戸幕府は米で給料を支給する「俸禄制」を取っていたので、米の生産は大変重要だった。

だからこそ決まりをたくさん作って統制した。

「士農工商」では、農民を工商よりも上に置いている。でも実際は貧しかった。

村方三役(庄屋・名主)→本百姓→水呑み百姓 と身分も存在する。

5人組を作らせて、相互監視も行う。犯罪が起きれば連帯責任である。

「結(ゆい)」というまとまりを作って田植えや屋根葺きを行い、絆は固いが、

村掟に違反すれば葬式火災以外は無視される「村八分」にあうこともある。(2分だけ付き合うという意味。) 

年貢の名前が時々テストに出る。

・本途物成(ほんとものなり):年貢 家、田畑にかけられる。

・小物成(こものなり):山野河海の利用にかかる税金 つまり雑税

・伝馬役・助郷役:街道周辺で人馬が足りない時に近隣から補助する。

・当然一揆はよくおこる。

その形態は前期中期後期に分けられる。

前期 代表越訴型(代表者が領主などに直訴 聞き入れられても代表者は殺されがち) 

佐倉惣五郎一揆 年貢減免を将軍に直訴して死刑 年貢は減免された。

中期 惣百姓一揆(団体抗議)

国訴(商人の指導で独占に反対したりとか 菜種 綿)

後期 世直し一揆(世直しを求める) 打ちこわしとか

[道具で収穫力UP!]

千歯扱 踏車 千石簁(せんごくどおし) からさおうち 唐箕 備中鍬

*増収を目指して新田開発にも力が入れられた。

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【江戸の流通を支えた船の輸送~航路開拓】

覚えるのは2名

・角倉了以(すみのくらりょうい) 川の治水 朱印船貿易の貿易商

・川村瑞賢(かわむらずいけん) 東廻り・西廻り海運を整備 材木商 

(東廻りも西廻りも東北からの北前船を運ぶ海路 東は江戸へ、西は大阪へ)

*江戸―大阪間は南海路 「菱垣廻船」「樽廻船」で、しょうゆや酒を運んだ。

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江戸幕府の「4つの窓」

・沖縄 中国・オランダ 朝鮮 蝦夷地(北海道 アイヌ) 

【沖縄(琉球)】

貝塚文化 弥生時代に沖縄など南方で展開 貝符など 貝の文化

1429 尚巴志が北山・中山・南山を統一

1609 薩摩藩の島津家が征服 以後支配下に 黒砂糖が取れるので、大きな収入源に

慶賀使(将軍の代替わりのお祝い) 謝恩使(国王の代替わりのお礼)を幕府に送る。

ちなみに琉球は中国にも服属し、冊封を受けていたので、中国との貿易の中継地点になった。

【中国・オランダ(長崎出島)】

長崎はキリシタン大名大村氏の領地だったが、秀吉も江戸幕府も直轄地とした。

中国人は「唐人屋敷」に

オランダ人は「出島」に収容して、出入りを厳しく監視した。

そうはいっても、オランダにはヨーロッパの進んだ知識があるので、その情報は貴重だった。「長崎貿易」と特に呼ばれる。

オランダ商館長は「カピタン」と呼ばれて、新任のたびに将軍に拝謁する。

オランダ東インド会社の日本支店長で、純粋に交易目的である。

入港のたびに「オランダ風説書」を幕府に提出して、海外の情報を伝えた。

輸出 銀 海産物「俵物」(ほしあわび ふかひれなど)  

輸入 生糸 木綿 本 薬品 香木

当然輸入の方が品物だから有利で、銀で支払うしかない日本側の方が損をしている。

新井白石はこれを問題視して、長崎貿易での銀の支払いを制限し、オランダ船中国船の入港も制限する法律を作った。(「海舶互市新例」)ために、長崎貿易は衰退した。

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【朝鮮】

対馬の宗氏が受け持った。

「己酉条約(きゆうじょうやく)」というものがあり、日朝貿易の取り決めをした。

「朝鮮通信使」が聞かれる。

もともとは秀吉の朝鮮出兵で拉致されてきた朝鮮人を帰国させる目的だったが、そのうちに将軍の代替わりごとに朝鮮から送られてくる使者の一行になり、将軍の威光を高めた。

朝鮮には知識人も多く、漢文でのやり取りができるので、通信使と日本の知識人との間で交流が見られた。

ちなみに朝鮮も鎖国中。

【蝦夷地 アイヌ人】

ひどい搾取を受ける

アイヌの歴史

縄文時代後も朝廷の支配が及ばず、寒くて米作もできなかったので、独自の文化が発達していた。

続縄文文化 8Cごろまで。縄文土器

擦文文化(さつもんぶんか)13Cごろまで。鉄器の使用あり。櫛の歯の文様のある擦文土器を作る。

オホーツク文化 擦文文化の中オホーツク海沿岸に展開した独自文化 北アジア系漁労民

オホーツク式土器 竪穴住居 貝塚 墳墓

1457 コシャマインの戦い 鎮圧

蠣崎氏の所属に

蠣崎氏が松前氏に改名

1604 家康が松前氏の蝦夷地統治を認める。

俸禄の代わりに、アイヌ人との取引場所(商場)を家臣に与えたので、搾取がひどくなる。(商場知行制)

1669 シャクシャインの戦い 鎮圧

江戸後期には家臣は商人に取引場所の運営を任せて運上(年貢)をとったので、搾取はさらにひどくなった。(場所請負制)

*蝦夷地ではにしんや昆布がとれた。こぶだしを使うことを発見されてからは、昆布はなくてはならない食材である。また、にしんは肥料にもなる。北前船で大量の物資が上方に送られた。

【先につぶしておこう 儒教】

儒教は江戸幕府の重んじた学問であるが、いろんな学派に分かれて学者も本も多い。それも難しい漢字が多い。それがテストでよく聞かれる。ゆえに、先に説明。

[幕府が保護した朱子学 京学]

朱子学は君臣の別や上下関係を重んじたので、幕府に採用された。

江戸幕府の重んじたのは、朱子学の中でも「京学」と呼ばれる。

藤原惺窩(せいか) 相国寺の僧侶 五山の禅僧が学んでいた朱子学を広めた 家康に朱子学を講義した。

林羅山 惺窩の弟子 家康に仕えた 上野に塾を開くことを許される。

林鵞峰(がほう) 羅山の子 親子で編年体の歴史書「本朝通鑑」を編纂

林信篤(のぶあつ) 鵞峰の子 塾を湯島聖堂に移して「聖堂学問所」にしてもらった。湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)

木下順庵 新井白石と室鳩巣を教える 「木門」学派とも。

新井白石 政治改革を行う 「正徳の治」あまり成功せず。自伝「折りたく柴の記」

室鳩巣(むろきゅうそう) 白石の推薦で将軍吉宗に教える。

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[四国で発展した朱子学 南学]

南村梅軒 土佐で朱子学を起こした。 谷時中を教える。

谷時中(たにじちゅう) 南学を大成

野中兼山 谷時中の弟子 土佐藩家老 藩政改革を推進

山崎闇斎(やまざきあんさい) 谷時中の弟子 神道と朱子学を融合し、垂加神道という道徳的な神道を設立。

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[儒教なのに批判的 幕府ににらまれがち 陽明学]

儒学だが、「知行合一」を説き、実践を重んじる。ので、幕府に批判的である。ゆえに陽明学者の行く末は大抵よくない。

中江藤樹 近江聖人といわれる。 日本の陽明学の祖

熊沢蕃山(くまざわばんざん) 中江藤樹の弟子 経済政策論の「大学或問」で、武士の帰農・参勤交代の緩和を主張して幕政批判の罪で幽閉された。

大塩平八郎 幕末の陽明学者 なんといっても武士なのに幕府に反旗を翻そうとしたことで有名。私塾「洗心洞」

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[孔子に帰ろうとする 古学派]

朱子学・陽明学を批判し、原典に帰ろうとする。

やはり処罰の対象となるが、将軍吉宗の教師となったこともあった。

流派がやたら多い。が、細かい点で何が違うのかよく分からない。

山鹿素行(やまがそこう) 孔子に帰ろうとして朱子学を批判 「聖教要録」赤穂に流されて兵学を教えた。赤穂浪士はこの流れをくむ。

伊藤仁斎・東涯(じんさい・とうがい) 親子 孔子孟子の原典にあたる「古義学」を唱える。塾「古義堂」

荻生徂徠(おぎゅうそらい) 経世論の本が有名「政談」 武士の土着を説く。吉宗の教師 「古文辞学」を始める。

太宰春台(だざいしゅんだい) 徂徠の弟子。「経済録」経世論を発展させる。

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【町人も勉学に励む「心学」】

懐徳堂(かいとくどう) 大阪にあった町人出資の朱子学・陽明学の町人の入れる塾。

石田梅岩(いしだばいがん) 儒教・仏教・神道の融合 町人の生き方を教える。正直・倹約・堪忍を説く。京都。

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【意外にも儒教以外の他の学問も発展した】

江戸時代の人たちは学問好きであったらしく、役に立つ本草学(博物学) 農学のほか、数学もかなりのレベルまで発展。聞かれます。

[本草学(薬物学)]

貝原益軒(かいばらえきけん) 「大和本草(やまとほんぞう)」本草学の基礎

稲生若水(いのうじゃくすい) 「庶物類纂(しょぶつるいさん)」博物学的本草学の大著


[農学]

宮崎安貞(みやざきやすさだ) 「農業全書」農業技術を記す 体系的農学書 武士なのに帰農した。

大蔵永常(おおくらながつね)「農具便利論」(農具の紹介 図入り)

「広益国産考」(お金になる作物を紹介して殖産興業を図る。お茶とか)

[数学]

吉田光由(よしだみつよし) 「塵劫記」(問題集)

関孝和(せきたかかず) 「発微算法」(代数計算)

安井算哲(やすいさんてつ)天体観測で「貞享暦」を作る。

[医学]

山脇東洋(やまわきとうよう)解剖図巻「蔵志」

[国文学]

北村季吟(きたむらきぎん)「源氏物語湖月抄」

*日本古来の道を探る国学に発展していった。

賀茂真淵(かものまぶち)「万葉考」

本居宣長(もとおりのりなが)「古事記伝」

平田篤胤(ひらたあつたね)復古神道を唱えて国粋主義 尊王攘夷に影響

[歴史書]

徳川光圀(とくがわみつくに)「大日本史」(水戸のお殿様 「黄門様」はこの人)

[洋学]

*西洋の学術を学ぶ。基本自然科学

ただし名前が変わっていく。蛮学(南蛮)→蘭学(オランダ)→洋学(英独仏)

新井白石(正徳の治でも出てきた学者 なぜこの人が?長崎貿易を衰退させた人だ。)

日本に布教のため密入国した宣教師シドッチを尋問していろいろと西洋事情を聞き書きした。ただし幕府内で限られた人しか読めなかった。 「西洋紀聞」(西洋の地理・風俗) 「采覧異言」(世界地理)

青木昆陽(あおきこんよう) さつま芋を普及させる。(飢饉対策になった) 吉宗の命令でオランダ語を学ぶ。

前野良沢&杉田玄白 解剖書を翻訳「解体新書」 苦労して和訳。あまりにも苦労した苦労話を「蘭学事始め」に記した。(「一文に数日かかった」とか。)

大槻玄沢(おおつきげんたく) オランダ語入門書「蘭学階梯」 塾「芝蘭堂(しらんどう)」

稲村三伯(いなむらさんぱく) オランダ語辞書「ハルマ和解」

志筑忠雄(しづきただお) 天文学・物理学の訳書「歴象新書」

平賀源内(ひらがげんない)本草学者・物理学者・戯作者 エレキテルの実験 石綿の発明など。多芸多才で有名。

*この時代は翻訳するだけで歴史に名が残るほどの大事業。だから…翻訳所を作る。

1811 蛮書和解御用 政府によるオランダ書の翻訳局。高橋景保(シーボルトに地図を渡した人)が提案。幕府末期で外国ともめていた頃。名前がよく変わる。

→1855「洋学」→「蕃書調所」→「洋書調べ所」→「開成所」→「開成学校」→1867幕府滅亡→1869「大学校」→1877「東京大学」

というわけで、東京大学の元となる。旗本の子弟や藩士が英学・蘭学・科学技術を習得。

【幕府歴史の流れ】

一口に幕府といっても、ずっと同じではない。

文化も違うし、後半は何度も改革も起こる。その流れ。

【寛永文化(初期)】

幕藩体制の確立期

戦国の気風が残ってきらびやか

権現造りの「日光東照宮」

徳川初代三代が基礎を築く。

【元禄文化】

華麗な町人文化

尾形光琳「杜若図屏風」「紅白梅図屏風」「八橋蒔絵螺鈿硯箱」 菱川師宣「見返り美人図」 友禅染 

「4代家綱」由井正雪の乱があり、末期養子の禁をゆるめる。殉死も禁止し、戦国の気風を取り除き、文治政治に転換させる。保科正行が補佐

「5代綱吉」生類憐みの令とか、側用人柳沢吉保とか、荻原重秀が金を少なくした元禄小判を作ったりとか、が大変評判良くない。

「正徳の治」6代7代で新井白石の改革

やたら体面にこだわる改革を行う。が、生類憐みの令は一番に取り消す。

・朝鮮通信使の待遇の簡素化

・正徳小判の鋳造 綱吉が金を減らした小判の金の含有量を戻した。

・海舶互市新例で、長崎貿易を制限し、衰退させる。

・閑院宮家の設立

「享保の改革」8代吉宗の改革

吉宗のあだ名は「米将軍」 米価の安定に力を入れ、税金も重くした。

・年貢重く「五公五民」 検見法→定免法(作柄にかかわらず税率一定へ 安定収入)

・上げ米の制 税収が足りないので米を上納させて、代わりに参勤交代の期間を短くした。

・足高(たしだか)の制 地位の低いものを役につけるとき、その間だけ給料の不足分を支給する。人材登用

・倹約令 使う量を減らした。大奥の大量解雇とか。

・株仲間・米市場公認(株仲間市場を公認した。座を認めたのは田沼意次)

・目安箱(将軍が直接読むので意見を言える。)

・町火消

・小石川養生所(薬草を育てる)

・公事方御定書 裁判の基準を明確化 大岡裁きで有名な大岡忠相があたる。

・漢訳本輸入制限の緩和 「漢訳洋書」は、中国経由の西洋の本 新しい知識が得られた。

1732 享保の飢饉 長雨とウンカの被害 西国で死者200万人 米の買い占めがあったために米価高騰 打ちこわしが起こる。

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【化政文化(動乱目前)】

本が多い。絵が少ない。

本は「黄表紙」(風刺) 「洒落本」(遊里小説) 「滑稽本」(庶民の滑稽会話)

風刺をすると弾圧された。手鎖をくらった山東京伝(洒落本・黄表紙)と財産没収をくらった版元の蔦屋(現ビデオ屋と同名)が有名。松平定信時代に弾圧。

川柳も始まる。(柄井川柳が始めたので川柳)

「田沼時代」老中田沼意次の改革 経済政策は偉かったが、浅間山噴火の天明の飢饉で無対策だったので、民衆にものすごく評判が悪かった。

・幕府の専売制(「座」) 銅・鉄・真鍮・朝鮮人参などの専売制を設け、「座」をくませた。

・株仲間も公認 税金(運上・冥加)をとった。

・南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん) 金本位制にしようとして、銀の計数貨幣(重さではなく数で計る)を作った。

・印旛沼・手賀沼の干拓 新田開発 商人資本を利用しようとしたが失敗

・蝦夷地開発計画 工藤平助「赤蝦夷風説孝」 最上徳内・蝦夷地探査

*商人を重く用いたために賄賂が横行した。

天明の大飢饉後に失脚

1782-87天明の大飢饉  長雨 浅間山噴火 冷害 水害による大飢饉 東北地方がひどかった。

「寛政の改革」松平定信による改革

松平定信は飢饉対策で実績を上げて幕政に呼ばれた。

農村復興と飢饉対策、堅苦しい言葉が特徴。

統制が厳しすぎて評判が悪かった。

*嫌われている証拠「白河の 清きに魚住みかねて 元の濁りの 田沼こひしき(松平定信は元白河藩主 田沼は田沼意次のこと)」

・囲い米 社倉 義倉 (飢饉に備えて米を貯える。)

・江戸に流れている農民を農村に返す「旧里帰農令」

・七分積み金 町費を節約させ、その7割を低利で貧民に融資する

・人足寄場 無宿人に職業訓練を付けて教化する。治安対策にもなる

・寛政異学の禁 上野の聖堂学問所は林家の家塾であったが幕府直轄にして整備。のちに「昌平坂学問所」と改名された。朱子学以外を教えることを禁止。柴野栗山が提案した。

・海防を唱えた林子平の「海国兵談」を発禁&林は蟄居。しかし海防は強化。

・棄捐令 札差の借金のチャラを強制した。

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「大御所政治」(1793~1841)

11代家斉(いえなり 一ツ橋家出身)が直接政治を取る。大奥がとても華やかだったので有名。社会不安増大

・関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)治安が悪くなったのでこういう役職を設けて関東の警察機能を強化した。

*1837大塩平八郎の乱 大塩平八郎は朱子学者で「洗心洞」という塾を開いて先生をしていたが、幕府の天保の飢饉への対応に不満を抱き、蔵書を売り払って蜂起したが密告されてすぐに捕まった。農民の一揆は多かったが、武士の義憤に駆られての蜂起は大変珍しかったので、影響が大きかった。同年大塩の門弟を名乗る男が「生田万の乱」という代官所襲撃事件を起こしている。

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「天保の改革」(1841~1843)

老中水野忠邦の改革。株仲間の解散で物価を上げてしまうなど、失政が多い。言葉ややり方がちょっと単純。

・人返しの法 寛政の改革の「旧里帰農令」と同じだが名前が違う。

・棄捐令 これも寛政の改革と似てる。札差の借金を無利子にさせたりした。

・株仲間解散→物価を下げるためだったが、かえって上がった。

・倹約令→景気を良くするためには消費を盛り立てないといけないのに逆である。

・上知令 江戸・大阪周辺の土地を幕領にして幕府の収入を上げようと計画したが、土地を取られそうになった旗本・大名たちの大反対で、水野忠邦の方が追い出されて改革終了。

*このとき外国船がたびたび入港したので、取り締まったり、アヘン戦争で中国が負けると取締りを緩めたりした。

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[ここで外国船何隻来たか、幕府はどんな手を打ったかをおさらい]

基本幕府は外国船を来させたくない。鎖国だからである。

しかし日本は捕鯨船の補給地として便利だったために船がたびたび来た。

国内なら、幕府の命令なら鎖国なのに流れ着いた難破船の乗組員を皆殺しにしても、大名行列を止めたという理由で通行人を殺しても何ら罪ではないが、

列強が植民地の奪い合いをしているこの時期には、戦争の口実を与える危険行為である。

アヘン戦争で中国が負けると、幕府の態度は軟化したが、

そうすると今度は国内で、「攘夷」(外国人を追い出す)運動が盛んになって、反対に開国運動も起こったりして、武力と理屈を磨いているのに使う機会のない武士たちが大勢この運動に身を投じた。

最後には不平等条約の締結で終わり、この条約の改正は明治まで持ち越された。

①田沼の対応→蝦夷地の開拓を計画・調査 

工藤平助 「赤蝦夷風説孝」→田沼意次 蝦夷地の開拓を計画

最上徳内 千島を調べる

②寛政の改革の頃 松平定信の対応→弾圧 しかし調査 東北海道を幕府が召し上げる

林子平「三国通覧図説」「開国兵談」→海防の必要性を訴えると蟄居 しかし幕府は海防強化

近藤重蔵・最上徳内 択捉島を調べる

東蝦夷地を幕府直轄地にする

伊能忠敬も蝦夷地を調べる

[ロシア]大黒屋光太夫(船頭)が遭難していたので、ロシアのラクスマンが根室に送り届けてついでに通商を要求した。

許可されたと思い込んで翌年レザノフが長崎に行ったが追い返された。

③大御所政治(文化文政)のころ→軟化しかし北海道を召し上げ

「文化の撫恤令(薪水給与令)」→漂流船には薪水を給与してよし。

蝦夷地をすべて直轄地に

間宮林蔵 樺太、間宮海峡を探査

*このころロシアとイギリスともめる

ロシア:ロシア南下政策のためにもめているが平和を保つ

1804レザノフが通商のため長崎に出向いたのに退去させられる。

→1811ゴローウニン事件 ロシア人ゴローウニンが千島測量中に捕らえられて幽閉

→1813高田屋嘉兵衛 択捉航路開拓中にロシア人に捕らえられるが、ゴローウニンと交換

イギリス:小競り合いあり 捕鯨船の補給基地に日本が欲しかった。

1808フェートン号事件:オランダ船を追って軍艦フェートン号が長崎に侵入 食料・薪水を強奪した。

1824 イギリスの捕鯨船が常陸・薩摩に上陸して乱暴を働く

結果幕府は硬化。

1825異国船打ち払い令 中国船・オランダ船以外は撃退せよと命令。

幕府は正しかった(と幕府は思った事件)。

1828シーボルト事件 ドイツ人シーボルトが長崎の出島で「鳴滝塾」を開いて医学を伝授。たくさんの弟子に西洋の医学・博物学を授けると同時に優秀な弟子から日本についての知識を吸収した。弟子の高橋景保がお礼に日本の地図をこっそり渡したが、帰路シーボルトの船が遭難して地図を渡したことがばれた。日本地図は国防のため持ち出し禁止 景保投獄・獄死。シーボルト国外退去

④天保の頃 水野忠邦の天保の改革の頃→外国の方が強いので幕府の態度軟化

1837モリソン号事件 日本の漂流民を助けたアメリカの船が届けついでに通商を要求しようと浦賀と鹿児島に近づくと異国船打ち払い令によりどちらでも撃退された。

1839蛮社の獄 外国を擁護するものを弾圧 蘭学者が逮捕された。

シーボルトの弟子(高野長英)と、モリソン号事件を無謀だと批判した(「慎機論」)絵もうまい洋学にも明るい三河藩家老(渡辺崋山) どちらも死亡。

ところが

1842 アヘン戦争 中国敗北 

1842 天保の薪水給与令 異国船打ち払い令を取り消して「文化の撫恤令」に戻した。

⑤幕末20年 ペリー来航後開国

1853 ペリー来航

1854 日米和親条約(不平等) 下田・函館を開港 なぜか英・露・蘭とも同種を締結。

最恵国待遇(別の国に許した条件はこの国にも許す)

1858 日米修好通商条約(大変不平等) 領事裁判権認める(外国人は治外法権) 関税自主権なし(関税を日本が決められない) これらを取り戻すのに明治までかかった。

神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港

⇒これがひどい抗争を産んで江戸幕府は滅びる。「幕末」へ続く。

輸入 毛織物・綿織物 武器 軍艦

輸出 生糸 茶

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【幕末】

何しろ政情不安なので、改革また改革の繰り返し。

特に最後の方は2年ごとに老中が入れ替わり、しかも暗殺や襲撃で変わるという動乱期。

1854 日米和親条約 ハリス着任

①堀田正睦(ほったまさよし)(1855~57)

ハリスに日米修好通商条約を結ぶように迫られ、老中は孝明天皇の勅許を得ようとして京都へ行ったが天皇がくれなかった。(孝明天皇は後に公武合体のため妹を将軍に嫁がせるが、条約には反対した。誰だって不平等条約には反対するだろうが、外圧のことは無視していた。)そして辞任。

②井伊直弼(いいなおすけ)(1858~1860)

1855 日米修好通商条約

勅許なしで強引に調印した。尊王攘夷派の大反発を招いた。

*このとき文書をアメリカに持っていくため、咸臨丸がアメリカへ。艦長勝海舟。オランダから購入した木造軍艦だったが、太平洋の横断に成功。

1858 将軍継嗣問題に決着 徳川慶福(よしとみ)が14代将軍家茂に。

13代将軍(篤姫の夫)に子供がないので、将軍を誰にするかでもめていた。

強硬派の慶喜(一ツ橋派・一ツ橋家)と、公武合体派の家茂(南紀派・紀伊藩主)で争っていたが、井伊直弼の大老就任で決まった。井伊直弼は南紀派。

1858 安政の大獄

井伊直弼に反対するもの(主に条約反対を唱える攘夷派)を100余人処断。

有名なのは「吉田松陰(よしだしょういん)」(松下村塾の先生)の処刑。

なぜこの人が有名かというと、この門下生が長州(山口)の攘夷派となり、討幕の中心となって明治政府を作ったからである。高杉晋作や伊藤博文が有名。

1860 桜田門外の変

井伊直弼の安政の大獄に怒った水戸の浪士と薩摩の浪士が井伊直弼を桜田門の外で暗殺。

③安藤信正(1860~1862)

1860 五品江戸廻送令

開国後、銀が大量に国外に流出した。そして、大量の物資(雑穀・菜種・蝋・呉服・生糸)も国外に流れた。その結果、物資が足りない上に物価が上がるという、深刻な不景気を招く。

これを防ぐべく、この5品を直売せず、問屋を通す決まりを作って、ついでに江戸の問屋を保護した。

1862 和宮降嫁

公武合体のため、許嫁のいる孝明天皇の妹和宮と将軍家茂を結婚させる。

尊王攘夷派が怒る。

1862 坂下門外の変

和宮降嫁に怒った尊王攘夷派の志士が今度は坂下門の外で安藤信正を襲撃。

安藤信正失脚。

④文久の改革 島津久光(1862~1864)

雄藩薩摩の殿様の父親が、勅命(天皇の命令書)をかかげて藩兵を率いて幕府の改革にやってくる。薩摩は財政再建に成功して多大な力を持っていた。公武合体を目指すが、結局藩の力を強めて、幕府の力を弱めた。

・参勤交代の短縮 妻子の帰国も許可

・留学生派遣

・「蕃書調所」→「洋書調べ所」(名前を変える)

・西洋式陸軍

・松平容保(かたもり)を京都守護に(尊王攘夷派の強硬取り締まり)

*藩主の父親がこのように幕府に食い込んでいたので、長州討伐で薩摩は長州を攻めた。

長州を攻めるあたりまで島津さんが改革の腕を振るう。

*島津は攘夷派だったので、攘夷派が次々と攘夷(外国人の排斥)を行動に移した。

そして手ひどい報復を受けて、外国人には適わないという事を悟り、外国の知識を受け入れようとする開国派に転じた。

つまり、攘夷を実行していた藩が、早く開国派に転じることができた。

1862 生麦事件 薩摩藩が大名行列を遮ったイギリス人を殺傷。

→報復 1863 薩英戦争 イギリス艦隊が鹿児島湾で砲撃。後に講和。

1863 長州藩外国船砲撃事件 朝廷が「攘夷決行日」といった日に、馬鹿正直に下関を通る外国船(フランス・アメリカ・オランダ)を砲撃。

→報復 1864 四国艦隊下関砲撃事件 英・仏・米・蘭の四か国が連合艦隊を作って下関を攻撃。下関が占拠される。長州で開国派が台頭。

尊王攘夷派の舞台は京都 朝廷を取り込むのがキーとなるため

1863 八月十八日の政変 長州が京都から追い出される。長州派の公家も追い出される。

1864 池田屋事件 新選組が池田屋で尊王攘夷派を殺傷

1864 禁門の変 池田屋事件をうけて長州勢が京都に攻め上るが薩摩・会津・桑名の藩兵に敗れて敗走。 以後長州は京都での勢力を失う。そのうえ、薩摩との仲も悪くなる。

*つまりは京都で2回争いがあり、2回とも長州が負ける。1回目は政変・追放で済んだが、2回目は戦闘があって負ける。

1864 長州征討(1次) 禁門の変の後、幕府が不服従な長州を攻めた。薩摩藩も入る。ちょうど討伐を受けている最中に長州は四国艦隊下関砲撃事件で外国艦隊に攻められて、下手を打った急進派の勢力が弱まり、保守派が強くなった。よって恭順。薩摩藩と長州藩の仲は悪くなる。

1865 条約勅許 天皇が1858年=7年も前の修好条約をやっと認める。でも近場の兵庫開港は認めなかった。(ただし認められなくてもすでに神戸は開港済み)

1866 薩長連合 仲が悪かったが、日本の2大勢力である薩摩と長州が仲直りすれば進歩を妨げて邪魔でしかない幕府も倒せる(討幕)と、誰もが望むところだったが、それを坂本竜馬が成し遂げる。彼は貿易をやりたがる人間らしく、利益で2藩をつないだ。外国貿易のルートを持つ薩摩藩が外国製の武器を長州に都合し、代わりに長州藩が兵糧米を薩摩藩に渡した。西郷隆盛(薩)&木戸孝允(長) 仲介 坂本竜馬(土佐)

1866 改税約書 外圧に弱い幕府が英・仏・米・蘭と輸入関税を20%→5%に引き下げる条約を結ぶ。日本植民地化の危機迫る。

1866 長州征討(2次) 幕府再び長州を攻める。この時長州は負けなかった。まず第一に、強硬派の高杉晋作(「奇兵隊」を組織して庶民も混ぜた外国式の軍隊を作った)が長州の実権を握っていて、武力的に強かった。第二に、攻める側の薩摩がすでに薩長連合で長州側についていた。幕府連戦連敗。将軍病死をきっかけに撤退。失敗するくらいなら最初からやらないほうがよかった。武士集団の幕府の権威は失墜する。

次の将軍には、将軍後継争いで負けていた、攘夷派の「徳川慶喜」がつく。

1867 幕府が倒れる運命の年 いろんなことが急激に動く。

・徳川慶喜「慶応の改革」(軍備拡充 やった年に幕府倒れる。ゆえにあまり出てこない)

・兵庫開港勅許 ついに天皇も外圧に屈する。

・「ええじゃないか」踊りの大発生。あまりにも不景気で社会も不穏なので自暴自棄になった民衆が「お札が降った」と踊り狂う。無法地帯発生。討幕運動が進展。

・討幕の密勅 天皇が「討幕せよ」というお墨付きを与える。薩摩・長州・安芸が受ける。

同じ日に先手を打って幕府が大政奉還した。

◎そしてついに「大政奉還」

戦争することなく、幕府が政権を天皇に返すという大英断。

ただし将軍慶喜のつもりでは、政治力のない朝廷は幕府に泣きついて、結局将軍家が権力を握るだろうという心づもりだったらしいが、「小御所会議」でそのもくろみは外れる。幕臣たちは静岡の小さな領地に押し込めになり、討幕に大きく力のあった薩摩・長州が明治政府で力を持って「藩閥政治」と呼ばれ、問題になるが、選挙制度のためにしばらくすると関係なくなる。

将軍が退けられたことに納得いかない忠義心の熱い藩(例えば新撰組を作った松平容保の会津藩)は、北上する政府軍にところどころで抵抗を続けた。

ちなみにこの時抵抗を見せた者は、たとえ優秀でも出世することはなかった。

北海道で抵抗した榎本武明は例外的に重く用いられるが、彼は投降したのである。

[社会不安が増大すると出てくるのは新宗教 幕末編]

黒住教 朝日を拝して陽気の修業を行う。黒住宗忠(岡山の神官)

天理教 天理王命を信仰 相互扶助と奉仕の「陽気ぐらし」の理想世界 中山みき(農婦)

金光教 天地金之神を信仰 川手文治郎(農民)

*これらの宗教は今でもあります。なので、変わった名前だと思っても絶対に一言半句も侮辱的なことを言わないこと。聞こえる場所に信者の方がいる可能性があります。

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