メメント・モリの記憶

藤堂梓音

第1話


 せせらぎの音が耳に残る。緩やかに流れる水が瞳に残る。私を癒す湖は、いつも私の傍に居てくれる。だから、安心するんだ。心が満たされるんだ。ただ、傍に居てくれるだけで。だから、どうか、どうかどうか私から、私の元から離れて行かないで。私を、忘れないで。私は貴方に、与え続けるから。ずっと、永遠に、与え続けるから。私は、忘れないから。貴方を、忘れないから。約束。約束でいい。また会える。そんな約束。

私たち、二人だけで。この湖の中で、この水の中で。、契りを、交わそう。ひとつの、契りを―――。

雫がポタリと一滴、湖に落ちた。水が揺れ、木が揺れた。

ひとりの女性が、湖のほとりで立ち尽くしている。

そこには、ひとつも感情はなかった。


 

 赤い光が差し込むベッドにひとつの人影がある。

綺麗な顔をした少女はまだ夢の中。だけどその顔には悦びはない。まるで何かに苦しんでいるようだ。ゆっくりと、その美麗な瞳に世界が広がる。目を覚ました少女は起き上がり、ベッドの上で凝り固まった。少女の見つめる先には、一体何が映っているのだろう。

少女は何を想っているのだろう。

懐かしい夢だった。あれは確か、五つのとき。私が湖に近づこうとしたら、お父様に止められて注意を受けた。

「いいかい、フレイヤ。湖はね、とっても危険な所なんだ。近づいちゃいけないよ。もちろん、雨も危険だ。水がある所へは決して行ってはならない。古から伝わる大事な教えだ。いいね。」

お父様は、優しく私に教えてくれた。そして帰りには、私に首飾りを買ってくれた。ずっと、私が欲しかったもの。お父様はどんなときでも怒ったり、感情的になったりしない。いつも落ち着いていて、冷静で、でも優しい。私はそんなお父様が大好きなんだ。

ふと気づくと、もう朝食の時間だ。私は急いで支度をして、部屋を出た。広間へ行くと、もう皆集まっていた。

「フレイヤ、こっち。」

そう私を呼ぶ声は兄のフレイ。神々の中で最も美しく、才知にたけている。才色兼備の天才だ。だが、性格に難あり、らしい。優しい面も持ち合わせているが、どうやら私の事になると面倒くさいらしい。よく周りの神々に云われるが、私はよく分からない。普通……だと思う。おっと、そんな事を云っている場合じゃなかった。大切な朝食は食べれなくなってしまう。私はいそいそと自席へ向かった。

「今日は良い夢が見れたかい、フレイヤ。」

いつもの様に、兄が陽気に話しかけてくる。そんな兄を余所に私は食事をする。ほとんどその話を聞いていないにも関わらず、兄は話を続ける。

「今日は薔薇が満開に咲いていて、とっても綺麗だよ。食事が終わったら一緒に行こう、フレイヤ。」

云っている内容は大体分かるので、私は頷いた。



 一面に広がる薔薇。それはまるで、太陽のようだ。私は思わず見惚れてしまった。

「とっても綺麗だろう。まるでフレイヤみたいだ。」

女を口説くように私にも口説き文句を云うフレイ。私はそれにも触れずに、薔薇に近づく。

綺麗。吸い込まれていく程までに美しい薔薇は罪だ。薔薇に触れようと手を差し伸べた瞬間、大きな影が私を包み込んだ。荒い息遣いが耳元を掠めた。

「危ないよ、フレイヤ。」

私の体を抱きしめながら、甘く囁いた。その手が握るのは、薔薇へと差し伸べた右手。

「分かったから。もう大丈夫。」

そう云い、掴まれた手を振りほどく。うん、と了承した兄だったが、そこには不安しか残っていない。私は兄の手に、自分の手を絡めた。すると、一瞬にして兄の表情は悦びに変わった。単純な人。まあ、そこがいいのか。そう思いながら、私は薔薇を見つめた。

「この薔薇、何本あるか分かるかい、フレイヤ。」

兄は私にそう尋ねた。ざっと見て、千本以上はあるんじゃないだろうか。それをそのまま伝えると、兄は笑った。何故だろう。普通の事を云ったのに。

「フレイなんか、知らない。」

私は少し、怒りの感情を露わにした。すると兄はすぐに私に誤ってきた。

「フレイヤ。違うんだよ。これはね、何て云うのかな。可愛かったから、つい、ね。本当だよ、本当。嘘じゃない。ね、信じてくれるよね。フレイヤなら、信じてくれるよね。ね?」

必死な兄に私は、心の中で笑いをこぼした。そんなに必死にならなくても。激怒した訳じゃないのに。兄のこういう所は私にしか見せてくれない。というか、見ない気がする。そこが好きな所だけど。まあ、一生云ってやんない。私は、さっきまでの偽りの怒りの表情とはまるで変わって、楽しげな表情に変わった。すると兄も笑顔になる。

「ごめんなさい。そんなに気にしてないから大丈夫。」

そう一言告げると、兄は私に抱きついてきた。思わず驚いた私に気にも留めずに兄は私をきつく抱きしめる。私はおとなしく、兄に抱かれていた。

「この薔薇はね、九九九本あるんだ。そのうちのふたつは、蕾のままだけれど。」

悲しそうに云った兄の瞳には薔薇しか映っていない。この薔薇、きっと、神を惑わす力がある。私はそう、確信していた。確信する心の中に、私が惑わされない理由が眠っていることをきっと私は知らない。いや、知ることはないだろう。それが、それ自身が、薔薇なのだから。そして、それはひとつではないんだ。

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