第6話

ゆっくりと音をたてて水車が回っている。牧場の小屋の中で二人の夫婦が向かい合って座っていた。何をするでもなくただ牛の世話をして牛乳やバターを作り、そして週に一回パンを焼いた。

平凡な暮らしで体も弱く体には常に疲労が蓄積して生きていくのも大変だった。

おじいさんは牛の世話を終えると疲れた顔つきで、おばあさんの元へ向かった。

ソファにおばあさんがうなだれていた。顔つきが悪く、冷や汗をかいていた。おじいさんはすぐに医者を呼んだ。医者がやってくる。白衣を身にまとっていた。

医者はおばあさんの様子を見ていた。そして「問題ないでしょう」と言って帰っていった。

時刻は夜だった。おばあさんは相変わらずベッドの上で眠っていた。長い月日が経った。

夏の夜だった。通りには涼しい風が吹いていた。おじいさんは一人で外に出た。夜に外に出るなんて何年ぶりだろう。会社で働いていたときのことやそれ以外のことなんかを逐一思いだした。

いつだったかおばあさんと二人で旅行した時のことを思い出していた。

ゆらゆらと提灯の明かりが京都の町に見えた。二人でまだ四十代のころに旅行したのだ。

あたりは人がいて喧噪の中におぼろげな懐かしさや美化された記憶があった。時は流れていく。

もうじき死んでしまう。

「おばあさん」とおじいさんは人のいない牧場の中でつぶやく。

「どうして私たちは会い結婚しこれほど長い時を過ごしたのだろう」

おじいさんの目には涙がこぼれていた。

ふと空を眺めると星の光が見えた。牧場に牛の目が光っている。

「なんだ?」

おじいさんは牛に向かって問いかける。

牛はゆっくりとおじいさんに視線を移す。

コミュニケーションができるわけではないけれど、どこか牛の気持ちがわかるような気がしてしまう。

表情だったり触ったときの筋肉のこわばりだったり、牛の鳴き声だったり、長年仕事をしているとわかるものだ。

牛がこちらへやってくる。おじいさんはうなだれる。

「子供を。私たちが失った一人の子供を」

ずっと胸に秘めていた思いをおじいさんは打ち明ける。

「人生の中で求めていたのは人だった」

牛がゆったりと動き出すのをおじいさんは見た。

ふと振り返るとおばあさんが後ろに立ってこちらを見ていた。

その目にはもうおじいさんへの興味はなかった。

牛を眺めても牛はあちらへと言ってしまう。

いつまでも失くした子供の幻影を追い続けていたのだ。

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