6: And everything nice.

 魔法少女は夢を見る。

 高く落ちるそのときに、今は遠い誰かの記憶を、白い少女の夢を見る。

 変身とは『彼女』との同化だ。

 しかし『彼女』は知らなかった。己の記憶の欠片を、魔法少女が得ていたことを。

 

 今も、昔も。

 


 *


 初めて瞳を開けたその時に、少女は己の形をヒトと理解した。


 白い小さな手を結んでは開く。その手が小さいということも少女はまだ知らない。

 思考は未だ言語への分化を経ておらず、感覚で捉える世界は澄みきって、しかし確固とした輪郭を持ち得ない。


 美しい少女だった。

 一糸も纏わぬ肌は抜けるように白く、何にも染められることはないと静かに語るようであり、幼くも均整の取れた体は未成熟でありながらすでに完成された不変の彫刻のよう。

 そして大きな紅玉の瞳。そこには全てを包み込む光と、深い底なしの闇を同時に湛えていた。


 少女がいるのは庭園らしき場だった。

 ぺたりと座り込んでいる地面には長方形に整えられたタイルが敷き詰められており、円形にぐるりと花壇が少女を囲っている。


 色とりどりの小さな花たちが風に揺れた。 少女の長く白い髪もふわりと浮き上がる。 地平の景色はどこまでも若々しい緑色で塗られている。


 少女は上を仰ぎ見た。赤い瞳に空を映した。 淡い青空には縦横無尽に金属の棒が張り巡らされている。さながら鳥籠の中に鳥籠を入れたように、二重三重の檻のように。


 しかしそれになんの感慨も抱くことなく、ふらりと少女は立ち上がる。そのまま小さな足をそっと前へと出してみる。

 歩くというのはなんとも奇妙な感覚だ。

 己は決して、地と結ばれていないということだ。なんとも不安定で、良い気分がした。

 

 どこまでも行ける。

 一歩一歩、変わる感触を裸足の裏で確かめながら庭園の中を進む。

 足取りは軽かった。


 造られた常春の美しき風景は絶えることなく、少女が進む度に新たな様相を見せる。

 蝶が、蜜蜂が、道を開ける。


 道は唐突に終わった。

 青い芝生は一歩先から赤茶け乾いた大地となり、暖かな花壇は冷たい石の祭壇へと変化する。

 鳥の声も虫の羽音も全てが止んだ。


 少女は進む。音の消えた景色の中で、心臓の音だけがとくんと鳴った。

 冷気の刺す石段を変わらぬ速度で上り詰め、少女はそれを目にした。


 それは一輪の美しい花だった。

 ガラスの中に閉じ込められた白い花。

 豊満な花弁を幾重にも湛え、未だ咲き切らぬまま時を止められた純白。

 茎も葉もがくもおそらくは根も、同じ色。

 触れれば灰になってしまうのではないかと思うほどに儚く頼りなく、息を飲むほど美しい。


 だがそれは、決して正しい美しさではない。


 見てはいけないものを見た。

 そんな気がして少女は踵を返す。

 どこまでも行って、逃げて、忘れてしまおう。

 そう思った。


 この場所が檻である以上どこへ行くことも叶わない、なんてことさえ知らずに。


 逃げる少女の前に人間どもが立ち塞がる。

 白衣の女が悲鳴を上げた。

 あなたは何、と。

 白衣の男が怒声を浴びせた。

 お前は何だ、と。

 大人と大人と大人が少女の行く道を遮る。常春の庭を踏み荒す。

 混乱に耳を塞いで目を塞いで、少女は心に記憶に蓋をした。



 逃避させた心が帰ってきた頃には、少女は庭園に戻っていた。

 目覚めたあの日と同じ場所で、暖かな石畳の上で、花壇と青葉と青空と檻に囲まれて。


 しかしあの日と違うのは、いつの間にやら着せられていた白い服と、手足を繋ぐ重い鎖。 鎖の先はどこに繋がれているのかわからない。けれど確かめることもしたくはない。


 赤い瞳からはらはらと涙をこぼした。

 少女はこれが悲しいことなのだと理解した。

 立ち上がる。歩みを進める。足取りは重い。

 どこへも行けやしないと知りながら歩き続けた。

 許されたのは初めての時の半分の道程まで。

 最後の一歩を踏み出して、ぴんと張った鎖に引かれ少女は大きくつんのめる。

 地面にぶつかるまでは間もない。痛い痛い思いを覚悟して、力一杯目を瞑って──衝撃はとても柔らかだった。


 己が誰かの腕に抱き抱えられていると気付くのに時間を要した。

 少女はそっと顔を上げる。

 無感動な灰色の瞳と潤んだ赤色の瞳が交差する。

 髪も服も目も灰色の青年は口を開く。


 ──大丈夫か。


 世界が変わる音がした。

 息が止まる。

 初めてだった。初めてだった。それは初めて、少女に与えられる許しだった。


 心臓が高らかに鳴る。全身に血が巡る。

 心が騒いで仕方がない。

 それは恋だった。いずれそのことに気付くだろう、しかし今はまだ名前を抱かぬ淡く熱い感情だった。

 少女は欲する。

 この感情を語り得る、言葉を。


 ──ぁ、ありがとう、ボクは、ボクは、


 しかし言葉は、少女に輪郭ある気付きを要求する。

 甘い恋心は急速に冷え、疑問が不安が首をもたげる。


 ──ボクは一体、なんなのだろう?



 *




【──ツバキ──ツバキ!】



 頭の中に雪崩れ込むフラウの声にわたしはハッと我に帰る。

 受けているのはおよそ人の身には耐えられそうもない暴風。それもそのはず、わたしは高層ビルの最上階から落ちているのだから。


 いつになく高い場所から飛び降りたからだろうか、お決まりの変身時の幻影は随分と長く続いた。目が覚めた途端にうまく思い出せなくなるそれは、おそらくフラウの記憶なのだ。時系列も場面も長さもばらばらで、いつかぼんやりとぼたんを見たような気もする。


 フラウはこのことをなにも語らない。だからわたしも問わない、なにも。

 引き戻された現実では真昼の陽射しがきらきらとわたしの肌を刺していく。


「……うん、大丈夫。聞こえてるよフラウ」


 ひとつに纏めた長い髪も、幾重に重なる花弁のようなスカートも、未だ落下の風に煽られ続けたまま。

 体感時間は引き伸ばしたようにゆっくりと流れている。


【接触まであと七十メートル】


 右手に真白の槍を呼び出す。

 眼下の景色に『徒花』を認めた。

 その『徒花』の姿はとぐろを巻く蛇のようであり、熟し枯れる寸前にまで開ききった節度のない薔薇のようでもあった。

 核はきっとその中央。


「おやゆび姫でもいそうな感じ」

【おやゆび姫はチューリップだよ】


 気温はすっかりと夏になった。そして『徒花』の出現頻度は急速に増えていた。

 変身を繰り返すたび、主導権はわたしに移っていった。身体への干渉もフラウはもうしなかった。できなくなっていた。

 それはわたしがフラウよりも速くなったことを意味していた。


「──さて、行こうか」

【ああ!】


 空中でひらりと身を翻し、盛大にエネルギーを無駄遣いして形ない空を蹴るように速度を上げる。

 自由落下は弾丸の射出に変幻。

『徒花』が悲鳴に似た警告音を上げる、だが。

 もう遅い。

 わたしは既に肉薄している。

 落下が終わる。幻の衝撃が全身に伝播する。黒いとぐろの薔薇の中、ひびが走る音を聞く。

 一撃のいとまも与えぬまま、『徒花』は散った。



 *



 いつもの教室でいつものように居眠りをしていたわたしが目を覚ましたのは、皆が一斉に椅子を引く音でだった。

 帰りのホームルームはいつの間にか終わっていた。今日最後の授業が終わったことすらも記憶にない。

 重くてうまく動かない頭を手で支える。


 息を長く吐き出した。

 寝起き特有の、頭に靄がかかった感じは嫌いだ。うまくものが考えられなくて、自分が自分じゃないみたい。何を考えてたかも覚えてられないのだし。

 朝普通に起きる時よりも、仮眠の時の方がその程度はひどいような気がするのだ。


 悪くもない目を細めて、前の授業の板書が残りっぱなしの黒板を見る。

 生物の授業だったけれど、当然記憶は欠片もないし、せっかちな掃除当番が黒板をもう消し始めていた。

 ああ、やってしまったなと思いながら、遺伝子の二重螺旋が消されていくのをぼんやりと眺めていた。


 ふと、誰かに見られている気がした。

 横の方を見る。

 教室の真反対の席は茜屋りこ。彼女は童顔にしては鋭い目をこちらに向けていた。

 最近よくあるのだ。

 そしてもう随分と長く、りことまともに話していない。


 スカートのポケットに入れた携帯が、奇妙なリズムで振動する。

 電話やメールの着信ではない。フラウの呼びかけだ。

 わかってる、という返事がわりに、ポケットの中に手を入れて適当なボタンを押した。


 さて、どうしようか。

 荷物は置いたまま身一つで教室を出る。

 向かうのは屋上だ。たかだか五階建ての校舎だけれど一番手っ取り早い。


 薄暗い階段を上がり、重い鉄扉を開けると熱のこもった空気が屋上には満ちていた。

 空は重い灰色の曇り空。ぬるく湿った空気は雨の予兆か。


 都合がいいことに屋上には誰もいなかった。 屋上は生徒に開放してあるけれど暑い時期にわざわざ来るような人はいないのだ。

 そもそも屋上なんて一度来たら満足する。

 さほど高い建物ではないのに加え、背よりも高く網目の細かいフェンスが一体を囲っているせいで景色がいいとは言えないのだから。


 わたしはフェンスを越えるため踏み台を探す。


【なくなってるね】

「ほんとだ」


 下見のときはベンチがあったはずなのだけれど、仕舞われたらしい。

 誰かがようやっと危ないと気付いたのだろうか。


 仕方がない。

 空き教室の窓から落ちることにしようか。 人目につかないようにするのが難しそうだから、嫌なんだけど。

 フェンスに手を掛けてそんなことを考えていた。

 そのとき。

 重い扉が、開く音がした。


 ばっ、と振り返る。

 ここに人が来ることは別に何もおかしくないのに、わたしはそうした。

 驚いたから? 反射的に?

 わからない。嫌な予感がしたのかもしれない。


「おい、つばき……!」


 ただ、茜屋りこがそこにいるという事実は変わらない。

 そっと囁く。


「……フラウ。少し、どこかに行っててくれる?」


 スマホの電源が自然に落ちる。

 耳と目は塞いでおこう、というフラウの意思表示だ。彼女は約束を破らない。


 りこが大股でこちらへと近付いてくる。

 ここに来たのはただの偶然なんかじゃないことぐらい、分かっている。


「どうしたの? りこ」


 だけどわたしは、この後に及んで何にも分かっていない振りをする。


「それはこっちの台詞だよ。屋上なんかに、用なんてあんのか」

「……風に当たりたくて?」


 りこの目が釣り上がる。


「つばきさ。最近おかしいよ。話しかけても上の空だし、人付き合いもめちゃくちゃ雑だし、授業なんてほとんど寝てるし……痩せただろ。やっぱり悩みでもあるんじゃ」

「おかしいって言われても……普通に夜更かしとただのダイエットだけど? うーん、りこに心配されるほどだったか。生活習慣改めないとなー」


「ごまかすなよ!!」


 りこがわたしの二の腕を掴む。


「何もないなんて、そんなことないだろ。取るに足らないことなら、つばきなら完璧に隠し通すだろ! あたしなんかに、バレてるはずないじゃないか!」


 鋭い目が、どこか泣きそうに垂れさがる。

 ああ、駄目だ。これはいけない。

 ……来る。


「なあ、つばき。もしかしてまだお姉さんのことでっ……!」

「違う」


 叩き斬るように遮った。

 だけど、りこは止まらない。こんなにも、くっきりとはっきりと言われたことなどなかった。踏み込まれることなどなかった。

 りこはきっと、覚悟をしていた。わたしを踏みにじる、覚悟を。

 りこの声が迷うように震える。


「本当に、違うのか……? でも、そのリボンだって……!」

「それ以上言わないで!」


 もう耐えられなかった。

 りこは正しい人間だ。正しいことを言うだろう。──嫌だ、正しいことなんて何も──


「何も、聞きたくない!」



 わたしは、りこを突き飛ばす。

 けれど、それで体勢を崩したのはわたしの方だった。

 反動で後ろへと倒れ込む。

 フェンスに背中を強かに打ち付ける──はずだった。


「え……」

「あ」


 鉄のフェンスが嘘みたいにすり抜けた。

 わたしの身体はフェンスを透過して、その向こう、屋上のふちに投げ出される。

 網目で遮られたりこの目が信じられないものを見たように見開かれる。

 わたしも言葉を失ったまま。

 身体が後ろへ倒れるのをなすがままにした。 その先が落下であることを知りながら。


「つばきっ!!」


 伸ばした手は鉄のフェンスに遮られ。

 ふわりと身体が空中に投げ出されていく。

 上を仰いで落ちるのは初めてで、なのに灰色の空しか見えはしない。

 溜息で、肺を枯らした。

 こんな空の日に、死にたくはないなぁと。


 そんなふうに。

 わたしはりこの元から逃げ出した。



 *



 逆さまに落ちていく視界の中、いつのまにか赤いドレスに変わっていた姿と、終わったなら声をかけてよ、というフラウの小言。

 わたしはようやく我に返る。


 そのまま学校を飛び出して、感知されていた近くの『徒花』を処理した頃には心臓も落ち着いていた。

 所要時間は十五分もない。


 このまま家に帰ってしまいたいけれど荷物は教室に置いたままで、そしてきっと、りこに盛大な勘違いをさせてしまっている。

 戻って、どう弁明すればいいのだろう。


 なにが起こったかなんて一ミリも知らないフラウの無邪気な顔を見る。

 姿を現していたままのフラウはきょとんとしたまま、口を開いた。


【スマホ 鳴ってるよ】

「あ……本当だ」


 画面に表示された名に、目眩がした。


『もしもし、誰か! どこにいる? 救急車は!?』


 食いぎみのりこの声。

 落ちた筈なのに見つからないわたしを探して、わたしを見つけた誰かがいるのではないかと頼みにしてかけてきた電話なのだと理解した。


「りこ……何? そんなに慌てて」


 震えた声は機械越しにごまかされたはずだ。

『つばき……か? いや、なんで……だってお前屋上から飛び降りて!』

「なにそれ。そんなことしてたら無事なわけないじゃん」


 わたしは、白々しく笑う。


「夢でも見たんじゃないの」


 電波の向こうで沈黙が揺れた。


『おかしいのは、あたしのほうか……?』


 受話器を切った。

 先生も巻き込んで、ひどい騒ぎになっていたのだろう。

 もう、学校には行けないかな。


 フラウは心配そうにわたしの顔を覗き込む。


【なにかあったのかい?】


 やはり、人と人との関係には疎い。

 というより、フラウはきっと『人間』に疎いのだ。

 それでいい。フラウは何も知らなくていい。


「なんでもないよ。アイスクリームでも、食べに行こうか」


 わたしは姉の着られなくなった制服の、リボンを結び直す。

 歪んでいた。




 ──葉風ぼたんは誰からも好かれる女の子だった。

 そこにいるだけできらきらと場が華やぐ春のような女の子。

 そのはずだった。


 ぼたんが学校に行かなくなったのは、中学一年生の冬。

 赤いリボンとワンピース、上品で可愛らしい制服が着たくて選んだ遠い私立の中学だった。

 推薦枠の途中編入。ぼたんはとびきり優秀だった。わたしには爪の先すらかけられない。置いて行かれたような気がして、少しむくれたのは覚えている。


 でもそこは、ぼたんにとって海の底のような場所だった。息が出来なくて水に押しつぶされて死んでしまうような場所だった。

 なにが悪かったのかといえば間だろう。すべて、なにもかも、間が悪かった。

 それだけの、よくある話だ。


 もうすぐ雨が降る。

 雨が降る日にはよく、人が花に堕ちる。

 今夜は忙しくなりそうだった。

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