Episode: 04-02 季世の部屋

 すっかり風邪が完治した頃には、夏休みも終盤で、放置していた課題を片付けるために残りの休みを消費した。

 損した気分で始業式を迎え、帰って来ると、母が荷造りをしていた。


「……旅行でも行くの?」


「行かないでしょ、旅行なんて」


 そうだった。幸を置いて、誰も旅行なんて行かない。


「幸君の付き添いで、しばらく病院のそばに泊まるの」


 何年か前にも、母は病院のそばの短期賃貸マンションを借りて、幸に付き添って過ごしていた。


「でも――車で行くんじゃだめなのか?」


「何があるか、分からないから。そばにいて様子を見ていたいの」


 その言い方が、なんだか、もしものための準備を万全にしているようで嫌だった。用意周到にすればするほど、その時が近づく気がして怖かった。


「……幸、元気ないの?」


「そんなにすぐに元気にならないわ。傷だってまだちゃんと塞がらないのに。あんたみたいに図太くないんだから」


 母親は次から次へとキャリーバッグに衣類をつめていく。


「同室のおじいさん、いたでしょ。杉野さんだったかしら、前日に亡くなっていたんだって」


「前日? って、いつの」


「幸君が怪我する前日。それでね、同じ部屋で人が亡くなったから、怖くなっちゃったんじゃないかってカウンセリングの先生が。だから、同じ部屋に戻すのは避けたほうがいいって。ちょうど一部屋個室が空いたところなんだって。だからしばらく、そこで静かにゆっくり過ごしてもらったらいいのよ」


 母は、季世の存在に言及しない。まだ知らないのかもしれない。

 ……頻繁にお見舞いに行ったせいで、疲れさせたのかもな。

 喉元まで出かかったその言葉を飲み込む。


『せいで』は、母の前では禁句だ。


 母は幸のことで一時はうつ病になりかけていた。

 何もかもを自分のせいだと考えて、自分を責めた。

 丈夫に産めなかったせいで。衛生に気を使わなかったせいで。

 健康な体に育てなかったせいで。食事のせいで。

 住居のせいで。環境のせいで。

 結論としては、全ては自分の選択のせいで、幸が病気になった。

 そう思いつめていた。


 あの頃は本当に大変だった。

 母の耳には、どんな励ましも当て付けに聞こえていたし、些細なことにも怯えて過ごしていた。いつも泣いていたし、父親と怒鳴りあいの喧嘩もするし、俺は受験も重なっていたのに、気が休まらない毎日だった。


 いつまたあんな状態に戻ってしまうか、今回がそのきっかけになるんじゃないか、少し不安だ。

 ――絶対に、母を追い詰めるようなことは言えない。

 母の選択に、異を唱えてはいけない。


「また元気になって、体力つけて、そしたら今年中に手術できるから。手術できたら、また一緒に暮らせるんだから。もう少しの辛抱だから」


 母は、自分に言い聞かせるようにそう言った。

 やり直しができる。だって、生きているから。

 幸だってきっと、そう言って笑うはずだ。

 まだ、会っていない。話をしていない。


 ……実は母が狂ってしまって、もう死んだ幸のこと、まだ生きているみたいに話しているんじゃないか。そんな空想に囚われて、ぞっとした。

 頭の中で笑い飛ばした。

 そんなこと、あるわけない。会いに行けば、すぐに分かる。


 会いに行くのが、怖かった。

 いつが兆候だったのか。

 何が引き金だったのか。


 ――俺のせい、だったのか。


 確かめるのが怖かった。



 自転車を取りに病院へ行った。


 顔見知りの看護士や医師に会うこともないまま、数日間放置された自転車と再会し、帰路につく。傍目に、病院の様子には特段の変化がないように見えた。

 自殺未遂があっても、後を引くような騒ぎにはならなかったのだ。


 理由をつけて、幸の見舞いには行かないままだった。

 バイトが忙しいことにした。

 実際、嘘にならないようにバイトを入れた。

 自転車を取りに行くついでに、階段を上がっていけば、すぐに幸に会えたのに。

 俺は、そうしなかった。



「いらっしゃいませー、どうぞご試食ください」


 学校へ行き、放課後はバイトに費やす。

 くたくたになるまで働いたら、夜はよく眠れた。

 なにも考えずに眠れた。


 お見舞いへ行くか、どうするか。まだ迷っている。


「どうぞご試食ください、美味しい一口鯛焼き! お口の中で泳ぎ出す、美味しい鯛焼き! おやつ、お夜食、朝食に。カロリーオフの餡子を使用、カルシウム配合でお子様にもお年寄りにもヘルシー! どうぞご試食くださーい!」


 暗記したうたい文句を、ただ繰り返すだけのマシーンみたいだ。

 あれこれと顧客のわがままに答えようとする涙ぐましい努力の結晶は、盛り込みすぎて結局何がなんだかよくわからない製品を生み出している。これ、鯛焼きにした理由は何なんだ。鯛焼き一尾に、そこまで使命を背負わせるのはどうなのか。

 BGMが脳に焼き付いてリフレインする。

 毎日、鉄板の上で焼かれて気が滅入ると歌っている。

 しばらくこのBGMに苦しめられそうだ。

 鯛焼きの販促にふさわしい曲だろうか。

 スーパー・トクトミの店長が共感を覚えて胃を押さえている様子が見える。

 彼が度々俺に仕事を下さる大恩あるクライアントだ。


「店長。鯛焼ききどうっすか」


「うん、ありがとう。いただきます」


「毎日毎日、お疲れ様です」


「やんなっちゃうよね、働くのってさ」


 店長はトクトミのロゴつきエプロンと、衛生のためにキャップをかぶっている。

 そのキャップの中に隠れた頭髪の状態が、彼の日々のストレスを物語っていた。

 一口鯛焼きを頬張って、しばし癒された顔になる。ちょっと柴犬に似ている。

 父親と近しい歳と思しきおじさんに癒されながら、俺も再び自分の仕事に集中する。


「どうぞお試しください! 口の中で泳ぎ出す! 美味しい鯛焼き!」


 口の中で泳ぐか? 鯛焼きだぞ?

 マニュアルに書かれていたキャッチコピーがゲシュタルト崩壊を始める。

 だが、今の俺は鯛焼きを焼くマシーン。

 小さなホットプレートの上で泳ぐ鯛焼き君たちを、適切なタイミングでひっくり返し、小さなトレイに載せて、爪楊枝を刺し、行き交う老若男女に差し出す。


 この時間は、会社帰りのサラリーマンやOLが多い。子供連れの主婦層は一時間ほど前がピークだった。残されたのは難敵ばかり。

 酔っ払いの爺さん婆さんに絡まれないよう祈りつつ、お疲れ気味の企業戦士たちに鯛焼きを差し出し続ける。

 コミュニケーションに疲れ果てて帰って来た彼らは、目を合わせてもくれない。


 そんな中。

 ばっちり目が合う人がいた。

 逃すものか、と勢いがつく。


 そのときに、「あっ」と思っても遅いのだ。


「どうぞ! お試しください!」


 マシーンはすぐには止まれない。


 相手が誰か、脳が認識するより前に役目を果たそうと身体が動く。


 目があったのは、中原季世だった。


 相変わらず地味な服を着ている。

 髪の毛をひとつに結んで、少しすっきりした印象だ。

 季世は俺が差し出した鯛焼きを受け取って、その場で頬張った。


 表情が和らぎ、いつになく、瞳が輝く。


「ん……」


「美味い?」


 季世は黙って頷いた。

 頬が緩み、口角が上がっている。

 いつだか、シェイクを夢中で飲んでいたときの様子を思い出した。


 ――もしかして、好きなのか。甘いもの。


「ごちそうさま」


 律儀にそう言ってトレイを返し、商品を買い物かごに入れた。


 久しぶりに会ったというのに、思った以上に、普通だった。

 普通の気持ちでいられた。

 もっと、怒ったり問い詰めたり、そんなふうに動揺するかと想像していたのに。

 思いがけない表情を見たせいで、驚きが勝ったのかもしれない。


「……季世」


「うん」


「あのさ、もう少しで終わる。だから」


「わかった。待ってる」


 肯いて、季世はレジへと向かった。

 

 三十分ほど待たせてしまった。

 九月の夜は、やっぱりまだ夏の気配が色濃い。

 風が吹くと、少しだけ秋を予感させる涼しさがある。

 でも、それは一瞬の気のせいのような感覚でしかなかった。


「お待たせ。久しぶり」


「うん」


 スーパーの出入り口脇に立ち、季世は何かの書類に視線を落としていた。

 店内の照明を頼りにしているようだ。書面から顔を上げて、季世は俺を見る。


「うちでいい?」


「え?」


「夕御飯を、作るから。食べていく?」


 言われた途端、空腹に気づく。


「じゃあ、お言葉に甘えて……」


 女の子の家に行く。

 その状況に、どっと冷や汗が出た。

 でも、相手は中原季世だ。

 どんな家に住んでいるのか。誰かと一緒に暮らしているのか。

 具体的な想像が何一つできないまま、季世の後に続く。


 時鳥荘を通り過ぎ、路地裏へ。

 川沿いを歩き、複雑に入り組んだ坂道を登る。

 そうして、築年数が親よりもいってそうな、年季の入ったアパートの前で立ち止まった。

 コーポあすなろ。

 塗装がはがれて、錆び付いた鉄色が覗く階段を上り、二階へ。


 二〇一号室、中原。


 薄っぺらいドアの向こうが、季世の部屋だった。



 おばあちゃんちを思い出したのは、匂いのせいだ。


 間取りの上では1DKになるのか、広めのキッチンがあり、襖を隔てた向こうが居間になっている。和室を無理やりフローリングに直したような、六畳あるかないかの居間だ。

 しっかりした座卓があって、床の間には何か仏壇のようなものが作られていた。

 ささやかなものだ。写真立ての前に線香が置いてある。

 その匂いが、祖母の家を彷彿とさせた。


「座ってて。すぐ作るから」


 季世は窓を網戸にして、いまどきレトロな首降り扇風機のスイッチを入れると、キッチンへ戻った。


「あ、なにか手伝うことは」


「ない。待ってて」


 言い切られてしまっては、手出しもできない。

 こう見えても、留守番歴と試食バイト歴が長く、調理の腕には自信があったのに。ただ、場当たり的な調理しかしてこなかったから、トータルバランスを見る料理とは天地の差があるのも理解している。


 女子のプライベートな空間と呼ぶには随分と渋くて寂しい部屋に入り、座卓の前で正座する。


 見るからに一人暮らしだった。


 見慣れた母校の制服がハンガーにかけられている。

 その下に、三年生にしては綺麗な通学鞄がある。


 落ち着きなく視線を巡らせてしまう。

 季世が普通の女の子である証拠が見つかればいいと思った。

 でも、こんなアパートに一人暮らしをする中学生が、一般常識的に普通であると言い切れないから、焦る。例え不死病だなんて奇妙な言動がなくても、季世は普通じゃないように思えてしまう。


 どうしても、写真立てに注意が行くから。

 それを見ていいものか、抵抗があった。


 狭い部屋は、すぐに視線が一巡する。

 座卓に座ると、丁度その写真が正面に来る。

 季世はいつも、写真を見ながら、ここで食事をするのか。


 観念して、正面を見る。

 写真は、焼けていて、古い感じがした。

 写っているのは、特徴のない老人だ。

 俺が見てもとくに何の感慨もわかない。

 常識的に言えば、季世の祖父くらいの歳に見える。

 笑顔が控え目で、でも優しそうな顔だ。


 彼が、季世を助け出した人なのか。


 いつか、幸に聞かされた話を思い出す。

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