幻夢の5 見ている……
川を流れていく死体とは絶対に目を合わせるな。
死んだ婆ちゃんに、子供の頃よく言われたことだ。
何でも婆ちゃんが言うには、川を流されていく死体でも目を開けている類は、突然足を滑らせたか何やらで驚いて目を見開いたまま死んでいった輩が多く、恨みや未練よりも不条理な死が受け入れられなくて、この世の名残を見回しているのだということらしい。
目を合わせると助けを求めてしがみついてきて、そのまま川へと引きずり落とされるのだそうだ。
ぞっとしながらそこまで思い返した時、小野田が現れた。
「おう」
すすっていたコーヒーを遠ざけ、小野田と挨拶を交わす。
店内は夕食時ということもあって多くの客でにぎわっていたが、この喫煙席のボックスならば比較的落ち着いて話ができそうだ。
小野田は一瞬俺の目の前に座ろうとしてやめ、斜め向かいの通路側の席へと腰を下ろした。
「なんだよ、わざわざ」
「うん、まあな……」
それ以上は追求しなかった。
小野田が注文をするのを横目で見ながら、窓際の席から外の景色を眺める。
ウインドー越しの外の景色は夕暮れから夜へと移り変わろうとしていた。逢魔が時というやつだ。行き交う人の流れや車は当然のようにこちらへは無関心だった。
「飯は?」
「すませてきた」
「そうか……」
「で?」他愛のない会話の後でカフェオレを一口含み、小野田が白々しく切り出した。「俺に用って?」
「ああ、うん……」こっちが白々しいのもお互い様だ。「おまえ、見えるんだよな?」
その一言で小野田の表情が変わった。カップをテーブルへ置き、周囲を何度も返り見る。
「どうしてわかった?」
神妙な様子の彼に対し、こちらも隠さずすべてを晒す。
「こないだの同窓会の時、おまえ、俺の方を見てビックリしたような顔したろ。あれ、見えてたからだよな」
「……まあな」
「やっぱりな……」
俺が気落ちしたのがわかったのか、今度は小野田の方から探りを入れてきた。
「気づいてたのか、おまえ」
「ああ、何となくだけどな」指先の震えを悟られないよう、タバコを探すふりでポケットをまさぐる。「気のせいだといいなと思ってたが、おまえのあの顔を見て確信を持った。……やっぱりそうか」
「いつからだ?」
差し出したタバコを片手で押しとどめ、そわそわしながら小野田が何度も横を確認する。
当然のことながら、彼の隣には誰も座ってはいない。はた目にはただ外の景色が気になっているだけだと思われたことだろう。
「去年の夏」俺はつつみ隠さず、それまでの経緯を小野田に説明していった。「大きな台風があったろ? で、近所の川が増水してさ、決壊寸前だって聞いて、台風はすでに遠くへいっていたから夜中に興味本位で連れと見にいったんだ」
「ああ、すごかったらしいな」ちらちらと横を意識しながら、小野田が合いの手を入れる。「一人流されたらしいな。下流で死体が上がったって新聞に書いてあった」
「その死体が流されていくところに偶然い合わせたんだ」
「……」
「若い女の死体だった。いや、それがその時死体だったかどうかはわからないが……」顎の下の嫌な汗を拭う。「ずっと目がこっちを向いてた。すごい勢いで流されていて、体は仰向けのままなのに、視線だけが俺の方をずっと追いかけてくるんだ。まばたきもできなかったよ。それからだ。妙な気配を感じるようになったのは。ずっと誰かに見られているような、嫌な視線を常に感じるようになった」
小野田がゴクリと唾を飲み込む。それは俺の耳にもはっきりと聞こえてきた。
「その連れも見たのか」
「連れは別の方を向いてたから見ていない。俺だけが見た。流れが速くてあっという間だったし、驚いて声が出なかったから、連れを呼ぶ余裕もなかった」
「そうか……」小野田が困ったような顔になった。「……確定だな」
「やっぱりか……」
わずかに小野田が通路側へと椅子をずらした。
覚悟を決め本題に入る。
「そいつはいったいどこにいる?」
小野田がまた横へと意識を配る。
だいたいのことはわかっていたが、この際はっきりさせたかった。
「見る勇気はなかったけど、ずっと気配だけは感じていたんだ。階段の下とか、通りの角とか、車の陰とか。影になっていると全部それに見えてくるから、見ないようになるべく前だけ見るようにしてた。電気のともっていない部屋とかも覗かないようにした。見えないけどそこに何かがいるだろうことは何となくわかったからな。それがいつからか、気配はするのにどこにいるのかわからなくなったんだ」
「……」
「なあ、おまえ、どこにいるのか知ってるんだろ。見えてるんだから。教えてくれよ」
「いいのか。そんなこと知ってしまって」押し殺した小野田の声。「知らない方がいいんじゃないのか。いることはわかったんだから、もっとちゃんとした霊能者に見てもらった方がいい」
小野田がそう言うだろうことは予測していた。それでも知りたかった。いや、知らなければならなかった。何故なら、このままではいつかそれに取り殺されるだろうと、俺の本能が感じ取っていたからだ。
逃げるのをやめ、ちゃんと対処する。そのためには踏ん切りの宣告が必要だったのだ。
帰り道や部屋で一人きりになった時のことを考えると不安になる。それでも今知っておかなければ、また見ないふりをしてしまうに違いないと思い、改めて覚悟を固めた。怖いのは当然、だがなにより真実を知りたいという気持ちが上回ったからだろう。
「教えてくれ……」意を決し、小野田の隣の空席を睨みつけた。「そいつは、そこにいるんだな? おまえの横から俺を見ているんだよな?」
俺の決意を小野田が汲み取る。
が、返ってきたのは予想を裏切る彼の答えだった。
「ここにはいない。俺の横には」
「……」動揺を隠せず身を乗り出す。「じゃ、どこにいる? その横か? 外か? わかった。向こうの通りだな。あっちの通りの方から俺を見ているんだな。この店の中じゃないよな。だっておまえ、こっちの方ばかり気にしてたから……」
「吉口」小野田が俺の名を呼んだ。その表情は何かを伝えるために選んだものだとわかった。「本当にいいんだな」
「……」今度はこちらが固唾を飲む。今さら何を、と言いかけ、黙って頷いた。「頼む」
小野田も重々しく頷いてみせた。
「同級会の時、宴会場の端の方からおまえのことを見ているそれに気づいた。でもそんなこと言ってもおまえは信じないだろうと思ったから何も言わなかったんだ」
「ああ……」そのとおりだ。俺は霊の存在なんて信じていなかった。つい最近までは。
「さっきここに来た時、こないだよりずっとその距離が縮まっていることがわかって、ぞっとした。これは何かおまえにしようとしている奴だってわかった。もう、どうすることもできないかもしれない」
「……」
「彼女はおまえの目の前にいる」
「!」からからの喉でようやく次の一言を絞り出す。「……目の前って」
「すぐ目の前だ。鼻と鼻が触れるくらいの場所から、ずっとおまえだけを見ている。俺が見えているのは、おまえの顔と重なった彼女の後頭部だけだ」
「……」
思わず絶句する。
すぐ目の前に何かがいる。近すぎて確認することもできない場所から、わき目も振らずに俺だけを見つめている。
この世のものではない何かが、俺を取り殺すために。
言葉が出てこなかった。今度は何をしても無理だろう。
その呪縛を解き放ったのは、小野田の小さな呻き声だった。
「……どうした」
「……」小野田が目を見開いていた。そしてわなわなと震える唇から、信じられない言葉が飛び出したのである。「今、また距離が縮まった……。おまえの鼻とそいつの鼻が重なっている。瞼と瞼が……」
それ以上は何も耳に入ってはこなかった。
ちらと向けた視界の隅で、暗くなった窓ガラスの中に一瞬何かが浮かび上がったように見えたからだ。
見えないはずの何か。
決して見えてはならない何かが。
ひょっとしたらそれは車のライトが照らし出した何らかの影かもしれなかった。
恐怖心が生み出した勘違いかもしれない。
そう思いたかった。
ガラス越しに合致したその視線の主がにやりと笑ったように見えたのもきっと……
連悪幻夢 @dirtytom
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