第24話 Where is my underwear ?

 翌朝、香夏子は賑やかな電子音によって、夢の世界から瞬く間に現実へと連れ戻された。仕方なく布団から這い出てバッグの中からケータイを取り出す。

 念のため発信者の名前を見てから通話ボタンを押した。途端に怒号が耳に飛び込んでくる。

「香夏子! アンタね、いったい何考えてんのよ!」

 まぶたが半分しか開いていない状態で、とりあえず香夏子は何度も瞬きを繰り返した。だが、受話器の向こう側の相手はそんな香夏子の様子など知る由もない。更に大声を張り上げて香夏子を非難した。

「この状況、普通じゃ考えられないわよ。だって、秀司はアンタを好きだって言ってるんでしょ? なのに秀司の家に私をひとり置いて帰るって、アンタ、どういう神経してんのよ! ……って、ちょっと、聞いてるの!?」

 香夏子はゆっくりと首を傾げた。

「……よく聞こえてる」

 その間延びした声に、湊はますます苛立ちを募らせたらしい。

「じゃあ、ちゃんと答えてよ。どういうつもりでこんな酷いことしたのよ? 秀司がかわいそうじゃない!」

 まだぼんやりする頭で、そのセリフは昨日も聞いた気がするなと思った。

「どうって言われても……」

「ああ、もうっ! なんでアンタはいつもいつもいつも、はっきりしないの?」

「湊、気分はどう?」

「はぁ!?」

 徐々に香夏子の脳は回転し始め、まずは昨晩の湊の泥酔した姿を思い出し、彼女の体調が心配になったのだ。声の調子から察するに元気そうではあるが、顔を見て話しているわけではないから本当のところはわからない。それに気分が悪いから香夏子に怒りをぶつけている可能性だってないわけではない。

 だが香夏子の心配は、ただ湊のイライラを増幅させただけのようだ。

「おかげさまで、気分は最悪!」

「……ごめん」

「謝る相手が違うでしょ。だいたいアンタ、もしこれが聖夜くんだったら、絶対に私ひとりを置いて帰ったりしないくせに!」

 香夏子はそこでハッとした。確かに助けを求めたのが秀司ではなく聖夜だったら、香夏子はひとりでそそくさと帰ってくるような真似はしなかったに違いない。

(でも……)

「秀司が自分ん家に湊を連れて行くって言ったんだもん」

「…………」

 急にケータイが静かになった。

 香夏子は頭を掻きながらクローゼットを開けて旅行用のバッグを出した。ナイロン素材の一泊程度の旅行に適したサイズのバッグで、軽くて薄いが購入してから十年以上経つというのに壊れる気配のない非常に優れた一品だ。そのくすんだピンク色のバッグを開き、今度は荷造りのため下着のケースを引っ張り出す。

「あれ? そういえば、ない……な」

 香夏子は無意識にそう口走った。

 ケータイの向こう側で湊が「ん?」と問い返す。

「いや、なんでもない」

 そう言いながら、言葉とは裏腹に香夏子は下着ケースを引っ掻き回した。朦朧としていた頭の中が急にクリアになる。

(……ない!)

 アレがない。いつからだろう?

 そういえば最近見かけないと思ってはいたが、ケースの奥のほうに潜り込んでいるのだろうと大して気にかけていなかったのだ。

(同窓会のときは紐が見えるかも、と思って別の色にしたんだった……)

 香夏子はもう一度ケースの中身を念入りに調べる。

(やっぱりない。私の勝負用が……! どこに行ったんだ!?)

 値も張ったが、香夏子はそのデザインがとにかく気に入っていた。かわいらしく凝ったレースがついていて、紐にも小さなリボンがついている。セクシーというよりはかわいいデザインだが、子どもっぽいわけでもない。それに素材も安物とは全然違っていた。

 どうやらこのケースの中にはなさそうだと思いながらも諦めきれず、更に中身をすべて引っ張り出しながら目的の勝負下着を探し求めた。

「何やってんの?」

 湊の怪訝な声がした。

「ちょっと探し物」

「……って、もしかして忙しかった?」

 湊の声が急に気弱になったように感じて、香夏子はクスッと笑った。

「そういうわけでもないんだけど、夜中に電話が来て、急用で実家に戻らなくちゃならなくなって。あ、でも別に湊と話ができないほど急いでるわけじゃないよ」

「そう。でも、もう切るね」

 最初の勢いはどこへ行ってしまったのか、湊は暗く沈んだ小声でそれだけ言うと、香夏子が言葉を発するのを待たずに通話を終わらせた。

 ケータイを耳に当てたまま香夏子はしばらくの間茫然とする。

(湊、どうしちゃったんだろう)

 湊の存在が遠くに感じられた。いつの頃からかはわからないが、少しずつ香夏子の中に湊への疑問が積もり始め、ついに昨夜それがはっきりと形になって現れたのだと思う。

(いきなり秀司の肩を持つようになったのは……どうしてなんだろう)

 ずっと好きな人がいるという告白と、秀司がかわいそうだという訴えが、香夏子の中で反目しあってどうにもしっくりこないのだ。

 それに湊はずっと聖夜に片想いをしていた香夏子の恋を応援してくれていたはずだった。

(そういえば前に聖夜を泊めた夜、秀司は湊の家に泊まったんじゃなかった!?)

 あれは秀司と十年ぶりに再会した日のことだったな、と思い出す。ごく自然にそういう流れになり、当たり前のように二人は一緒に帰っていったのだ。それなのに、どうして今朝はあんなに怒っていたのだろう。

(秀司が私に好きって言ったから?)

 香夏子は目の前の下着の山に気がつき、今度は一つずつ丁寧にケースに戻し始める。それからバッグに着替えを詰め込んだ。

 家を出て駅に向かうが、途中で空腹に耐えられなくなりコンビニに立ち寄った。おにぎりとパンの棚をそれぞれ吟味し、今日はサンドイッチの気分だと思い、たまごサンドを手にする。昔からサンドイッチの中味はたまごが好きで、はみ出そうなくらいぎっしり詰まっていれば言うことなしだ。

 土曜の午前中の電車は、香夏子が思ったより人が乗っていた。座ることができたものの、サンドイッチを食べる雰囲気ではない。学生の頃なら周囲の目など気にかけることもなくサンドイッチを頬張っただろうが、さすがに香夏子は自分がもうそういう歳ではないことを自覚せずにはいられなかった。

(でも、この感覚は普通だよね?)

 お腹が控えめにぐうと鳴った。隣の人に聞こえるのではないかと冷や冷やしたが、車内はそこまで静かでもない。空腹と世間体とを天秤にかけながら、結局香夏子は乗客の影がまばらになるまでサンドイッチの誘惑を必死に退けたのだった。


 実家の玄関をくぐると、待ってましたと言わんばかりに母が姿を見せた。母の後ろには小さな甥と姪がいつもとは違って不安げな顔でくっついている。

「香夏子、遅いじゃない!」

「ごめん」

「私はマサルとユイを連れて病院に行ってくるから、アンタ、店番してて」

「え? ……って竹本(たけもと)さんは?」

 香夏子は長年店の受付を担当しているバイトの女性の名前を出した。彼女は香夏子が幼少の頃からクリーニング店の店頭に立っていて、家族同然に思っている人だった。

「それが腰と膝が痛くて体力の限界だからって、先週で退職しちゃったのよ。言ってなかった?」

「えー!? 竹本さんってそんな歳だっけ?」

 いつも大声で「あーら、香夏子ちゃん、おかえり!」と愛想のよい笑顔で寄ってきては「ちゃんと食べてるの?」とか「仕事は? 彼氏は?」などと、答える暇もないくらい質問攻めにする明るくパワフルなおばさんの姿を思い起こして、香夏子は目を見張った。

「そうよ、私より七つ上だもの」

「そっか……」

「それで茜さんが……って、この話は帰ってきてからにするわ。とりあえず行ってくる」

 そういい残して母と甥と姪は入れ違いにバタバタと出て行った。

 香夏子は自室に荷物を置くとすぐに店先に出た。珍しく父が新聞を開きながら店番をしている。一瞬、なんと声を掛けようか迷ったが、その前に父のほうが香夏子に気がついてこちらを向いた。

「おかえり。急に悪かったな」

 父はワイシャツにネクタイ姿で、おそらくすぐに外出するつもりなのだろう。香夏子は自分がのんびりしすぎていたことにようやく気がついた。

「ごめん、私のこと待ってたんだね」

「これから会合に出かけてくる。店番、頼めるか?」

 うんうんと頷いて父を急かした。父は笑顔を見せて立ち上がり、椅子にかけてあったジャケットを羽織ると、軽く手を上げて出て行った。その背中を見送ると香夏子は受付のカウンターに立ち、何がどこにあるかを一通り確認する。それからふと目を上げてガラス張りの店先から外の景色を見た。

(そういえば、お隣は……)

 香夏子は店の入り口からふらりと外へ出た。すぐ目に飛び込んできたのは「テナント募集」の文字だ。わかってはいても実際に目にするとショックは大きかった。ゆっくりと一歩ずつ近付いて店舗内を覗いてみると、内部はガランとしていてドアに閉店の告知と挨拶文が張り出されている。

(何もなくなっちゃった)

 張り紙の短い文を何度も読み返していると、背後に車が停まった。客かと思い、慌てて振り返ると車の窓が開いて「やっぱり」と言う声が聞こえてきた。

「横井くん」

 先日の同窓会で冗談か本気かわからないが、香夏子を口説いてきた和菓子屋の跡取り息子が車の窓から顔を覗かせた。

「香夏子ちゃん、こんなところで何してるの?」

「店番」

「ていうか、この前のアレは何?」

 横井の言いたいことは容易に察せられたが、香夏子はそ知らぬ顔ではぐらかした。

「アレって何? 横井くんも脳を鍛えないとそろそろヤバいんじゃない?」

「酷い言われようだな。……つーか、キミたち、デキてたんだ……」

(デキてるって……)

 下世話な表現に呆れながら、答える義務はないと思い横を向いた。

「俺はてっきり秀司のほうかと思ってたけど。しかし相変わらず聖夜もモテるよな。アイツ、ロンドンに行ってるんだって? じゃあ今頃は金髪の美女と……」

「そんなわけないでしょ!」

 香夏子は車の窓枠に手を掛けて怒鳴った。横井はむきになった香夏子をからかうように言った。

「男なんてそんなもんだって」

「サイテー!」

「だからちゃんとつかまえて、首に紐でもつけとかないと。男の言うことなんか信じちゃダメだよ」

「別に、信じてなんかいないしっ!」

(それに聖夜とは何も約束なんかしていないし。……何も!)

 そう考えると無性に腹が立ち、横井を思い切り睨みつけた。すぐに回れ右をして店に戻ろうとすると、少し慌てた声が後ろから追いかけてきた。

「ね、ちょっと待って! 香夏子ちゃん、パソコンとか得意だよね?」

 車に背を向けたまま立ち止まり、眉に皺を寄せた。仕方なさそうに首を回して横井のほうを見る。

「得意と言えるかどうかわかんないけど、一応は使える」

「じゃあさ、講師とかやってみる気ない?」

「講師!? そんなのできるわけ……」

「大丈夫。相手はパソコンに触ったこともないような人たちばっかりだから」

 香夏子は渋い顔のまま改めて横井の車のほうへ向き直った。香夏子が興味を持ったことに満足そうな顔をして横井は続けた。

「この地区でも生涯学習の取り組みをしてるんだけど、その初心者向けパソコン講座の講師が最近いきなり辞めちゃったんだ。それで、役所の生涯学習担当のヤツから誰か講師できる人がいたら至急紹介してくれって頼まれててさ」

 怪訝な顔のまま頷いた。実のところ、かなり興味がある。だが、その前にひとつ大きな問題があった。

「でも私、仕事が……」

「土日は休みでしょ? だったら問題ない。土曜日の講座だと言ってたから」

 横井の勝手な断定に香夏子は慌てた。

「問題ないって、勝手に決めないでよ。それって毎週こっちに戻ってこいってこと?」

「ま、そうなるな。でも交通費は出るし、親孝行もできるし、いいバイトじゃん」

「いや、でも……」

 これだけの情報で即答することはできかねる。それは横井も承知しているようだった。

「まだしばらく店番してるよね? これから担当者連れてくるから、話だけでも聞いてやってよ」

「えっ、これから?」

「そう、これから。善は急げって言うでしょ。地元を助けると思って頼むよ」

 そこまで言われると首を縦に振るしかなかった。横井は満足げな笑顔を見せ「後で」と言い残して車を出した。

 あまりにも突然降って湧いた話に、香夏子は呆然とその場に立ち尽くす。横井の車が見えなくなってからようやく思い出したように店へと踵を返した。


 約一時間後、本当に横井が役所の担当者を連れてクリーニング店にやってきた。

 少し猫背で気弱に見える担当者は恐縮した様子でパソコン講座の概要を説明した。その間しきりに額を掻いていて、香夏子にはそれが気になって仕方がない。横井は彼の隣で腕組みをしたままぼんやりしていた。

「で、どう?」

 説明がひと通り終わると、横井はすぐに香夏子に返事を求めてきた。

「うん……」

 提示された謝礼の金額は申し分ないし、条件も悪くない。断る理由は特に見つからなかった。

「じゃあ、お願いできますか?」

 担当者は縋るように熱い視線を香夏子に送る。それを感じた香夏子は戸惑って苦笑した。

「あの、ひとつお伺いしたいんですけど」

「なんですか?」

「前任者はどうして辞めてしまったのですか?」

 これだけ条件がいいのに、途中で辞めるのは何か理由があってのことだろう。それが香夏子は気になったのだ。

「それは……」

 言いにくそうに担当者が口ごもる。香夏子は横井を見た。

「前任者はやたらと高圧的な態度の人で、受講者から苦情が多かったんだ。それで辞めてもらったってのが真相らしいよ」

 横井は「ね?」と担当者に同意を求めると、彼はまた額を掻きながら頷く。かなり痒いんだな、と香夏子は同情の目つきで彼を眺めた。

「私なんかで大丈夫かな?」

 受講者からの苦情と聞いて香夏子は少し不安になった。

「大丈夫、大丈夫! たぶん顔見知りのおじさん、おばさんがいっぱいいるから」

「逆にそれが不安なんだけど」

 ようやく一同は和やかな笑いに包まれて、うやむやのうちに香夏子はパソコン講座の講師を任されることになったようだ。

 役所の担当者が置いていった未記入の履歴書を、受付のカウンターに頬杖をついてぼうっと眺めた。

(私って……今まで何をやってきたんだろう)

 31歳と言えば20代とはまた少し違った目で見られるのは、何となく香夏子にもわかってきた。20代は「若いから」で済んだことが、30代になると「もう三十路だし」になる。仮に人生を70年に設定しても、香夏子はまだ折り返してもいないのに、人生のパートナーが決まっていないというだけで「負け」のような目で見られることさえあるのだ。

(こればっかりはしょうがないじゃん)

 人生、自分の思い通りに行くことなど稀なのだ。他人と関わらないで生きていけるなら、すべて自分の意のままに推し進めることも可能かもしれない。だがこの世に生まれ、他者との関係なしに自分というものが成立するだろうか、と思う。

(でも一つわかることは、自分が何かしなければ何も変わらない……)

 平凡な現状に安穏とあぐらをかいて、すべての責任を自分以外に転嫁するのはただの横着者で不遜な生き様だ。簡単に言えば格好悪いと思う。どこにでもいるような大した特徴のない自分でも、できればスタイリッシュに生きてみたい。まだ何が格好良くて、何が格好悪いのかもよくわかってはいないのだが――。

(勝手に憧れるくらいいいよね。憧れすらなくなったら、何を目指していけばいいのかわからないし)

 問題は、その憧れが漠然としすぎていることだ。香夏子は深くため息をついた。考えなければならないことは増える一方だ。

 だが、せっかくチャンスがめぐって来たのだから、とにかくやってみようと思う。

 扉の向こうにまた新たな自分の世界が広がっていく予感がする。その期待を胸いっぱいに膨らませながら、香夏子は書類を丁寧にしまいこんだ。


 お昼が過ぎ、母が帰宅したので香夏子は休憩がてら自室に戻った。

 まず、押入れを開けて目ぼしいダンボール箱や衣装ケースを手当たり次第に調べるが、比較的新しい下着の姿は見当たらない。

(そりゃそうか。こんなところにしまうわけないし、そんな覚えもないもん)

 となると、可能性は二つ。

 一つはマンションのどこか、香夏子の思いつかないような場所に紛れ込んでいる。

(もう一つの可能性は……)

 考えただけでもゾッとした。できればこの可能性は否定したい。だがどこにもないとなれば、考えられるのはそれしかないのだ。

(聖夜のマンションに……忘れてきた!?)

 聖夜の家に居候になる際に、それを持参したことは間違いない。実際、着用した記憶もある。

 正直なところ、聖夜の家ではいつでも出て行けるようにと、自分の持ち物をひとまとめにしていたので、間違いなくすべて持ち帰ってきたはずなのだ。

(だってちゃんと洗濯機の中もチェックしたし)

 部屋の隅で放心していると、部屋のドアがノックされて母が顔を出した。

「香夏子、お茶淹れたから降りてきて」

「うん、今行く」

 母は疲労のためか目が落ち窪んで見えた。

 こういうときは大概母の愚痴を長々と聞かされる羽目になるのだが、今日は仕方がない、どんな話でも聞いてあげようと覚悟を決めて、香夏子は階段を降りた。

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