第18話 Bye bye !

「嫌。そんなの勝手すぎる」

 暗がりの中でキッと聖夜を睨みつけた。聖夜は特に表情も変えず香夏子の髪の毛を弄ぶ。

「どっちが? どう考えてもカナのほうが勝手でしょ」

 そのセリフと同時に目つきが鋭くなり、香夏子の背筋にゾクリと寒気が走った。

「そ、そんなことない!」

 まずい、と思ったが意地をはって突っぱねた。

 すると聖夜は「ふーん」と言って口元に笑みを浮かべた。

(な、何……?)

「カナもバカだな」

(…………!?)

 どこかで聞いたことのあるセリフだと思う。

(そうだ、秀司に言われたんだ)

 聖夜は訝しげな表情の香夏子にますます意地悪な笑みを見せた。香夏子はその意味がわからず眉根に皺を寄せる。

 空いているほうの手をポケットに突っ込んで聖夜がケータイを取り出す。画面を見ながら何度かボタンを押した。

 プルルルルルル。

 呼び出し中の電子音が香夏子の耳にも聞こえた。その瞬間、香夏子の鞄が僅かに振動する。

(え……!?)

 気のせいかと思うが、すぐにバイブレーションの振動音が鞄の中からはっきりと聞こえてきた。

(ウソ!? どういうこと?)

 慌てて香夏子は鞄からケータイを取り出した。着信中を知らせるイルミネーションとともに発信者の名前が表示されている。

「……どうして?」

 目を大きく見開いて聖夜を見た。フンと鼻で笑った聖夜はボタンを押して呼び出しを中止する。そして何事もなかったようにケータイをまたポケットにしまった。

「本気で俺から逃げられるとでも思った?」

 香夏子は驚きのあまり茫然となった。

「……秀司?」

 思いついた言葉を言ってみる。途端に聖夜の顔が不機嫌になり、香夏子は自分の答えが間違いだと気がつく。

「アイツに聞くわけないだろ」

(じゃあ誰?)

 すぐに、ある女性の顔が香夏子の頭の中に浮かんだ。他に考えられるのはその人しかいない。でもまさか、と香夏子は半信半疑だった。

「もしかして……ウチの人?」

 聖夜が表情を緩めた。当たりだ。

(お母さん!? ……やられた)

 本当に自分はバカだ、とこの世で一番縁の深い人の顔を思い浮かべながら香夏子は思った。あの母が、他の人ならともかく、聖夜に対して香夏子の情報を隠す必要性など感じるわけがない。おそらく秀司も香夏子の脱走がいかに無意味かということに気がついていたのだろう。

「髪、伸びたね」

 聖夜は掴んでいた香夏子の髪の毛を少し強く引っ張った。長い指は地肌を這い、掬った髪をさらさらと指の間に通して梳く。ゆっくりと繰り返される心地よい一連の動作に、香夏子はうっとりと目を細めた。

「どうする? 嫌ならこのまま送っていくけど」

 僅かにかすれた声が香夏子の耳に届いた。

(お願いって……もしかして)

 香夏子は聖夜の目を見つめたまま首を横に動かす。嫌と言えるはずがない。

 目の前の人がクスッと笑った。

「勝手な男でもいいの?」

 問いかける合間も髪を梳く手を休めることはない。今の香夏子には抗う気持ちなどもう残ってはいなかった。

「だって……私のほうが勝手なんでしょ?」

 掬い取った髪の毛がはらはらと零れ落ちると聖夜は微笑を浮かべた。そしてハンドルに手をかけて座り直す。

 車がゆっくりと動き出し、山道を下り始めた。


 タバコの匂いが染み付く部屋に入った途端、聖夜に抱き締められていた。

 自分から聖夜の背中に回した腕に嫌でも力がこもる。時が刻一刻と進んでいくのが惜しい。だが、二人はしばらく抱き合ったままでお互いのぬくもりを確かめ合った。

 聖夜が香夏子の表情を確かめるように顔を寄せてきた。聖夜の胸にぴったりとくっつけていた顔を少し離すと突然涙が零れ落ちる。一粒が頬を滑り落ちると、次から次へと溢れてきてたちまち香夏子の頬は自分の涙で冷たく濡れた。

 その頬に唇が軽く触れる。温かく、くすぐったい感触に香夏子は泣きながら笑った。

「ヒゲがなくなっちゃったね」

 聖夜の頬を両手で包み込むようにして香夏子は言った。

「あったほうがいい?」

「ないほうが若く見える」

 香夏子の返事に聖夜も苦笑した。

「若いほうがいいの?」

「どっちでも……」

 言葉は途中で聖夜の唇に奪われてしまった。すぐに奥深くまで舌が進入してきて香夏子の舌を絡め取る。その妖しくしなやかな動きに痺れて夢中で聖夜のキスに応えた。

 二人はもつれ合うように部屋に上がり、ベッドに倒れこんだ。聖夜は香夏子のウエストに手を這わせると薄いブラウスの裾から素肌に触れた。久しぶりに直に感じる聖夜の手はひんやりとしている。だが、すでに熱くなっている香夏子の身体は悦びに打ち震え、彼の手をすんなりと受け入れた。

 胸のふくらみを覆った手のひらがゆっくりと移動する。柔らかな突起に与えられる刺激は予想以上に強く、香夏子は思わず声を上げた。

 香夏子の素直な反応に満足したのか、聖夜は上体を起こしてブラウスのボタンを外し下着までも取り去った。そして自らもシャツを脱ぎ捨てる。

 あらわになった香夏子の胸を両手で撫でると、何のためらいもなく片方の頂きを口に含んだ。唇と舌が生み出す甘美な刺激が香夏子を激しく翻弄する。

 しばらくすると腕が下へ伸び、スカートに侵入する。下着の上から敏感な部分をなぞられ、我慢できずに大きく喘ぐ。だが、じらすような布越しの刺激が続き、香夏子は身を捩った。

(早く……)

「そんなにいいの?」

 聖夜の甘く囁く声に首を横に振るのが精一杯だった。上から香夏子の顔を覗き込む瞳には意地悪な光が見え隠れする。

「それじゃあ、ここ?」

 そう言うと中指が香夏子の一番弱いところだけを擦りはじめた。

 ひときわ大きな声で反応すると、愛撫のスピードが加速し、香夏子は布越しのもどかしさに更に喘ぐ。

「ねぇ……お願い……」

 聖夜は香夏子の懇願にクスッと笑い、指を下着の中に滑り込ませた。

 待ち侘びた聖夜の長い指がようやく直に香夏子を責めたてる。一気に昇り詰めて、一瞬意識が浮遊した。

 朦朧としていると聖夜が覆いかぶさってきた。重ねられた唇を割って艶かしい舌が香夏子の口内に侵入してくる。そして香夏子の中に聖夜がおずおずと入ってきた。その圧倒的な存在を認識した瞬間、胸にこみ上げてきたものをこらえきれず香夏子は涙を流した。

「泣かないで」

 優しい表情で言われるとますます涙が溢れた。

「俺まで泣きなくなるよ」

「だって……」

(これが……最後?)

 突然聖夜は激しく動き始める。慌てて香夏子は聖夜の首に腕を回してしがみついた。奥まで打ち付けられる衝撃とともに、先ほどとは違うもっと深い愉悦の波が押し寄せてくる。

「イクよ……!」

 普段は決して見せない美しい獣の顔をした聖夜が目を閉じた。香夏子もまぶたをぎゅっと瞑る。涙がポロリとこめかみに伝い、髪を濡らした。


「送っていく」

 服を着た聖夜は香夏子を振り返って言った。

 香夏子は身支度を整えて、靴を履こうとする聖夜にしがみつく。

「嫌だ!」

 困ったようなため息が上から聞こえてきた。それでも香夏子はめげなかった。

「嫌だよ。最後なんて絶対やだ! 私、聖夜のお願いなんて叶えるつもりないんだから」

「うん」

 顔を上げると情けをかけるように聖夜は微笑んだ。それを見るとまた目が熱くなり涙腺が緩む。

「ありがとう。これで明日から頑張れる」

(そんなの勝手すぎる!)

 もっとめちゃくちゃに罵って、みっともない自分をさらけ出したいような衝動が香夏子の中を突き抜けた。

 だが、香夏子は何とか踏みとどまり、聖夜の身体に回した腕を離した。

 聖夜は表情を消して香夏子に向き合う。

「日本一だか世界一だか知らないけど、電話番とか秀司の秘書とか、カナに向いてない」

「何、その断定……」

「向いてないし、秀司のところにいるって考えただけでもイライラする」

 痛いくらいぎゅうっと抱き締められていた。

(だけど離れていくんでしょ?)

 言葉とは裏腹な彼の行動を心の中で責めた。しかしそれを口にはしなかった。

 今更ものわかりのいいふりをするわけではないが、香夏子が引き止めて翻されるような決意とも思えない。むしろ、それでやめたと言われたら聖夜に失望しそうだ。

 聖夜の腕の中で、不意に香夏子は青い空を思った。

 どこまでも遠く、どこまでも広く、どこまでも澄んだ天上の世界。

 その果てのない蒼穹をのけぞるようにして見上げていた香夏子は、その大空へ向かって握っていた白球を勢いよく放った。


 ほとんど口を利かないまま、車は香夏子の実家の前に到着した。言いたいことはたくさんあるのに、何を言えばいいのかわからない。もう残された時間はないというのに、言うべき言葉が見つからなかった。

 香夏子はドアに手を掛けて、ちらりと聖夜を振り返った。

「じゃ、明日頑張ってね。それから、身体に気をつけて元気でね」

 ぎこちない笑顔を頬に貼り付けて、だが真摯に心を込めて言う。聖夜は静かに頷いた。

 意を決してドアを開けた。

「カナ」

 片足が地面に着いたときに聖夜が名前を呼んだ。慌ててもう一度振り返る。お互いに万感の想いを込めて見つめ合った。

「バイバイ」

 ドアが閉まる音がして、聖夜の顔が見えなくなる。黒い影が軽く手を上げたので、香夏子も同じように手を上げて応えた。

 車は滑るように走り出す。徐々に加速して小さくなるテールランプを黙って見送った。

 車が見えなくなるまで立ち尽くしていた香夏子は短く嘆息を漏らし、それから実家の玄関を開けた。

 実家には兄夫婦も同居していて、二階の香夏子の部屋以外は増改築により兄の家族のスペースになっていた。香夏子の部屋もいずれ甥か姪のものになるのだろう。

 自室のドアを開けて電灯を点ける。カーテンをしていない窓から隣の家の窓が見えた。主がいないためかカーテンは開いていた。自然に足が窓際へと向く。

(聖夜はおじさんとおばさんに会っていったのかな?)

 真向かいの暗い部屋を見ながら聖夜のことを想った。思えば学生時代から今までずっと三ヶ月と空けずに会っていたのは聖夜だけだ。そのことに気がついて香夏子はクスッと笑う。

 途端に涙が洪水のように溢れ出た。最後に「バイバイ」と言った聖夜の声が耳から離れない。

(これが最後じゃないよね)

 自分に言い聞かせるように何度も胸の中で呟いた。

 それに最後と言って自分を選んでくれたのが何よりも嬉しかった。こんな瞬間に聖夜と一緒にいたいと望む女性は他にもいるだろうと思う。

(奥野なつき、とか)

 彼女のことを思い出すと胸の別の部分が痛くなった。彼女のような完璧に見える女性が、自分に対して羨望の気持ちを抱いていたというのが可笑しい。香夏子はなつきに対して羨望だけでなく嫉妬心や劣等感も持ち続けていたのだ。そしてそんな自分がずっと嫌いだった。

 ふう、と大げさにため息をついた。

 それでも滂沱の涙はやまない。胸の中に空いた穴が大きすぎて心が死んでしまいそうだと思った。

(だけど応援しなきゃね)

 暗い窓を見ながら、香夏子はぼんやりとそう思う。前に進もうとしている人の足を引っ張るようなことはしたくない。それが自分にとって大事な人ならなおさらだ。

(うん。頑張って、いってらっしゃい)

 のろのろと服を着替えて階下の洗面所で顔を洗う。タオルで顔を拭いたそばから涙が溢れるが、自分でもどうしようもない。仕方がないので別のタオルを持って部屋に戻った。それを枕元に置いて布団に入る。

(仲良しごっこだったのかな?)

 大好きな人を傷つけたくなくて、自分が傷つくのも嫌で、だから一番近くまでは行けないのに、これ以上は離れたくない。

 お互い傷つけ合わない位置で満足しようとしていたのは秀司のいう通りなのかもしれない。ぬるま湯が心地よくて出来る限り長くそこに浸かっていたかったのだ。

(だけど、本当は……違う)

 好きな人の一番でいたい。自分だけを見ていてほしい。誰よりもそばにいてほしい。いつでもどんなときも、どこにいても何をしていても。

 わがままな本音が嵐のように香夏子の心の中に吹き荒れる。

(仕事とか人生とか……もうどうでもいいよ。そんなこと何の意味もない)

 ――彼がいないなら。

 タオルで涙を拭った。鼻をかむために起き上がる。

(やっぱりどうでもいいなんてウソだね)

 鼻をかみながら香夏子は見栄っ張りの自分を笑った。

(これから私はどうしたらいいんだろう)

 同窓会で再会した面々のことを思い出した。学生時代の面影を宿しながらも、みんなそれぞれの道に進み、それぞれの人生を歩んでいる。 

 自分はどうだろう、と香夏子は思う。

 中学生の頃は三十代の自分など想像もできなかった。その頃にはもう立派な大人になって仕事をしているか、素敵な男性に巡り会って結婚しているだろうと漠然と思うことはあったが、まさか学生時代から全然成長していないとはなんと情けない有様か。

(私ってホント何やってるんだろう……)

 会社を辞めて秀司の秘書になったときにも自分の生き方について反省したはずだったが、結局また振り出しに戻ってしまった。

 布団の上に横になってぎゅっと目を瞑った。それから目を開けて首をひねる。

(やっぱり逃げてるだけか)

 だからいつまでたっても前に進めないのだ。避難所じゃないと秀司は言ったが、おそらく彼は香夏子の浅はかな考えを見越していたのだろう。

(知っていて、許してくれていたのかな……)

 来るべき時が来たのだと思う。もう退路は断たれたのだ。香夏子は自分で歩く道を決めなければならない。

 眠れないような気がしたが目を閉じる。まぶたが腫れて痛むが、しばらくするとそれにも慣れた。聖夜に抱かれていたぬくもりがまだ身体のあちこちに残っている気がして、身を縮めてじっと横たわったまま感覚を研ぎ澄ます。シーツの波間をたゆたうような紛れもない二人きりの時間を自分だけは忘れないように、と。


「うっ!」

 次の瞬間、香夏子は耐え切れない苦痛に飛び起きた。

「カナー! もう朝だよ、起きろー!」

「マサル、痛い」

 甥のマサルがいきなり香夏子の腹の上に飛び乗ってきたのだ。マサルはさすがに「ごめん」と照れ笑いを浮かべながら布団の横にちょこんと座った。

 時計を見ると朝の九時を回っていた。ほとんど眠った気はしなかったが案外寝ていたようで、自分の図太さに思わず笑ってしまう。

「何、笑ってんの?」

「うん、よく寝たなーと思って」

 マサルは香夏子の自嘲気味の笑顔に不思議そうな顔をしたが、すぐに何かを思いついたようで目を輝かせて飛びついてきた。

「ねーねー、早くご飯食べてよ。それで僕と公園に遊びに行こうよ!」

「公園かぁ」

 香夏子は懐かしいな、と思いながら頷いた。

「いいよ。それじゃあちょっと待ってて」

「早くだよ! 僕、靴履いて待ってるからね!」

(はやっ!)

 階下へすっ飛んでいったマサルに苦笑いしながら、香夏子はようやく布団から這い出して着替えた。それから用意されていた朝食を食べて、玄関で待ちくたびれているマサルを宥めすかして身支度を整える。

「カナはもうおばちゃんだからお化粧しないと外に出られないんだよ」

「えー! カナはかわいいよ」

 真面目な顔で言うマサルに香夏子はどこでそんなセリフを覚えてくるのだろうと苦笑した。だが、こんな幼い子どもに言われても嬉しいものだな、とも思う。

「お待たせ。じゃ、行こうか」

 マサルに引っ張られるようにして香夏子は近所の公園へ赴いた。公園は遊具が新しくなっていたが、香夏子が幼い頃に親しんだままの姿だった。両親と連れ立って遊びに来ている幼い子どもたちが自然に仲良くなって走り回る。小学生が自分の小さな弟を前に座らせて一緒に滑り台を滑り降りる。目の前に広がる微笑ましい光景に、香夏子の心も徐々にほどけていくような気がした。

(昔、よくここで遊んだな。お兄ちゃんや秀司や……聖夜と)

 また涙腺が緩みかけてまずい、と思ったときに背後から誰かが自分を呼んだような気がして香夏子は振り返った。

「やっぱり香夏子ちゃん!」

 そう言いながら華のような笑顔を浮かべて走り寄って来たのは、秀司の母親だった。

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