第17話 He said to me !

 聖夜に導かれてたどり着いたのはホテルの地下駐車場だった。コンクリートに囲まれた空間はひんやりとしていて、興奮状態だった香夏子の神経も即座にクールダウンし、同窓会の名残は酔いが回った身体の火照りだけになる。

「送っていく」

 見覚えのある車の前に立ち、聖夜が言った。

「……って、飲んでないの?」

 車で来ていたことに驚いて香夏子は聖夜の顔を確認した。確かにアルコールが入っているようには見えない。考えてみれば香夏子のテーブルに来たときも手ぶらだった。

「勿論。今日どうしても帰らないといけないし、酒なんか飲めるわけないでしょ」

「え?」

 香夏子は聞き返した。聖夜は車のドアを開けて、香夏子に助手席に乗るよう態度で促す。

「明日、ショーがあるんだ」

 香夏子が助手席に座ってドアを閉めると、聖夜は静かに言った。

(明日!?)

 驚いて聖夜の横顔を見つめる。

(なのにわざわざ同窓会に……?)

 エンジンをかけた聖夜はチラッと香夏子の顔を見た。そして深いため息をつく。

「香夏子」

 普段より低めの声に全身がぞくりと粟立つ。聖夜が怒っていたことを香夏子は突然思い出した。

「少し話がしたいんだけど」

「うん」

 改めて切り出されると途端に香夏子の心臓は緊張でバクバクと鳴り始めた。聖夜は顔を正面に戻し、シフトレバーをドライブに入れて車を発進させた。駐車場から出ると香夏子たちの実家とは別の方向へハンドルが切られた。

「今日は実家に帰るの?」

「うん。そのつもりで荷物置いてきちゃったから」

「じゃあ、寄り道するよ」

「うん」

 この歳になって門限などあるはずもない。それに聖夜に連れて行かれるならどこでもいい。できるならこのままずっと二人きりの時間が続いてほしいと香夏子は切に願った。

 だが、ショーを明日に控えた聖夜の負担にはなりたくない。複雑な思いが交錯する中、車は中心街を抜け山道へと入っていく。

「山に行くの?」

 沈黙が重苦しくなっていた香夏子は聖夜を横目で見て言った。

「そう。たまに夜景でも見ようかと思って」

 つづら折りの狭く急な山道が続く中、ハンドルを巧みに操りながら聖夜は答えた。この山は地元では有名な夜景スポットだ。夜は夜景目当てのカップルの車ばかりだと噂で聞いたことがある。

「男の人とここの夜景見るの、初めて」

「俺だって女の子と来るのは初めてだよ」

 視界が急に開けた。既に何台も先客があり、そこから少し離れた場所に夜景と向き合うように車を停めた。

 多種類の宝石がちりばめられたようなまばゆいばかりの夜景が眼下に広がっている。知り尽くしたと言っても過言ではない故郷の別の顔に香夏子は思わず目を細めた。

「思ったより綺麗」

 聖夜は香夏子の感嘆には答えず、疲れたように背をシートに預け目を瞑った。

「俺は、怒ってるというより、どっちかというとショックだった」

 話し始めた聖夜の声は感情を抑えているのか淡々としている。激情をぶつけられるよりむしろこのほうが胸にこたえるものがあった。

「カナは俺のことを好きだと言ってくれたけど、俺を信じてくれていないのは何となく感じていた。そして、これって何だろうってずっと考えてたよ」

 そう言った聖夜の手には前よりもっとくしゃくしゃになった紙幣が握られていた。

「これでカナは俺とのことをなかったことにしたかったのか、とかね」

「そんな深い意味はなくて、割り勘のつもりで……」

「じゃあ、どうして先に帰った?」

「それは……」

 敢えて言うなら、そうしなければならないと思ったからだ。だが、それで聖夜が納得するとは思えない。香夏子は口を噤んだ。

「どうして黙って出て行った?」

 グッと喉にこみ上げてくるものがあり、香夏子はそれを懸命にこらえた。同時に目頭が熱くなり視界がぼやける。何か言葉を発したら今まで胸の奥に抑え込んできた感情が堰を切ったように溢れ出てきそうで、きつく唇を噛んで自らの中に巻き起こった奔流を必死の努力でねじ伏せようとした。

 大きく息を吸い、吐く。香夏子の肩が僅かに上下し、この狭い空間で動いているのはそれだけのように意識される。聖夜は身じろぎひとつしない。香夏子の答えを待っているようにも、ただ夜景に心を奪われているようにも見えた。

「俺の気持ち、考えたことある? 俺が何も感じないとでも思った?」

 しばらくしてから聖夜の声が静寂を破って香夏子の耳に届く。その静かな冷たい調子の底には煮えたぎるような怒りが揺らいでいた。香夏子はうつむいた。心に氷柱が刺さったようだ。

「カナはやっぱり秀司を選ぶんだ」

「ちがっ……!」

「結局秀司にはかなわないってことか」

(……え?)

 香夏子は驚いて聖夜の顔を見た。夜景のほのかな光に浮かび上がる端整な顔立ちに暗い翳が差していた。見ていられなくなって視線を外す。

「ずっとアイツに対して引け目を感じてた。学生時代はコンプレックスの塊だった。だからアイツとは違う世界で誰にも負けない自分になろうとしてた」

「うん……」

「けど、秀司が帰ってきて、俺はいつの間にか自分に満足してたことに気がついた。すっかりいい気になってたんだ。だから……」

(……だから?)

 聖夜が香夏子を見た。

「明日のショーでコンテストがある。もし最優秀賞が獲れなくても……腕を磨く修行に出ようと思ってる」

「修行……? それってどのくらい?」

 香夏子の胸にどんよりとした暗い雲が立ちこめた。同時に鈍痛が走る。

「さぁ?」

 無責任な答えに香夏子はカッとなった。

「何よ、それ!」

「なんでカナが怒るんだよ。怒っているのは俺のほうだって!」

 香夏子は冷水を浴びせられたような気持ちだった。畳み掛けるように聖夜は続けた。

「だいたい、俺のことを好きとか言っておきながら、秀司の秘書? 何、それ?」

「だって……」

 聖夜が怒っているのはなぜだろう、と香夏子は考える。

「私は聖夜にとって何なの?」

 今度は聖夜が口を閉ざした。

 あまり考えたくないことだが、聖夜にとっても秀司にとっても、自分は単に戦利品としかみなされていないのではないか。

 いつも男同士で香夏子の所有権を声高に主張し合っているが、それは子どものおもちゃの取り合いとたいして変わらないのではないか。

 なにしろ香夏子からすれば、ふたりから愛されている実感が薄いのだ。

「私こそ聖夜に選ばれないんだって思ってた。聖夜はやっぱり奥野さんみたいな人が好きなんだって」

 聖夜は腕組みをした。そして言葉を探しながらゆっくりと話し始めた。

「俺はこの顔が嫌いだった。カナも覚えてるだろ? よく『ガイジンが来た』って言われて、いい気分はしなかった。でもどうしようもないから放っておいたら、ある日俺の代わりに『そういうこというのやめなよ』って言ってくれた女の子がいた。正直なところ複雑な気持ちだった。嬉しいけど、女の子に庇ってもらうなんてさ。しかもずっと小さいときから好きな女の子だったから、なおさら自分が情けなかった」

 そこで一旦区切って香夏子に「覚えてるでしょ?」と確認する。

 香夏子は小さく頷いた。プチ・フルールの女装趣味の店員から聞いた話は本当だったのだ。

「それを聞いた秀司が俺に言ったよ。『お前、それでも男か?』って。すごく悔しかった。でも俺には何も言えなかった。その頃の俺には秀司にかなうものが何もなかったからね。その後はカナとも何となく距離を置くようになって、二人が特別な関係になるのをただ黙って見ているしかなかったんだ」

(そんな……)

 香夏子は悲痛な顔でダッシュボードを見つめた。そう言われて改めて思い返すと、香夏子の記憶の中の聖夜は確かにどれも愁いを帯びた表情をしている。だからこそ香夏子はいつも聖夜のことが気にかかっていたのだ。

「だから奥野さんからコクられたときは驚いたよ。自分を好きになってくれる人がいると思ってなかったから。そのときの俺には断るという選択肢はなかった。実際あんな人から好きって言われてものすごく嬉しかったし」

「そう……だよね」

 過去のこととはいえ、聞いているのが辛い事実だった。耳を塞ぎたいができるわけがない。聖夜は香夏子に聞かせるために語っているのだ。

「その頃、カナはもう秀司と付き合ってたよね」

「……うん」

 フッと聖夜が笑う。

「だから俺も、って思った。そんな軽い気持ちでOKしたから、結局俺は奥野さんを酷く傷つけてしまった」

 自嘲気味の聖夜の顔を確かめて、目をそらした。

「言わなくても、もうわかるよね?」

「…………?」

「俺、ずっと好きな人がいるの」

「……言われないとわからない」

 クスッと笑う声が耳元で聞こえた。驚いて横を向くと唇が覆われる。

「なんでわかんないの?」

「なんで言ってくれないの?」

 それを聞いた聖夜は笑いながら困ったヤツだな、という顔をした。香夏子はその表情に見入ってしまう。

 しばらく間近で見つめ合っていると聖夜の顔から次第に笑みが消え、真剣なまなざしに変わった。

「好きだよ。香夏子のことが」

 突然、香夏子の胸に歓喜の渦が沸き起こり、頭の中では祝福の鐘が鳴り響いた。こみ上げてくる喜びに頬が緩む。

「嬉しい」

 やっと確かなものを手に入れた、と香夏子は思った。

「本当はわかってたんでしょ?」

「全然! だって聖夜みたいにモテる人が私のことを好きなわけないもん」

 聖夜は呆れたようにため息をつく。

「カナってどうしていつも後ろ向きなんだ? そこまで何でもかんでも悪いほうに考えられるのがすごすぎる。それに俺は全然モテない」

「嘘つき!」

「少しは信じろって」

「やだ!」

 香夏子はわざとらしくフンと顔を背けた。聖夜も自分のシートに座り直してクスリと笑う。

「やっとカナがカナらしくなった」

 満足そうな声だ。香夏子も座り直して聖夜を見た。

「俺は香夏子にもずっと引け目を感じてたんだよ。それにぬけがけみたいなことはしたくなかったし、自信がなかったんだ。だから秀司にいろいろ言われるんだよな」

「秀司の言うことなんか気にしなくていいよ」

「気になるよ」

 聖夜は香夏子から視線を外して夜景を眺めた。

「ライバルで、一番のダチだからね。俺はアイツのこと嫌いじゃないから」

 香夏子も慌てて正面へ向き直った。小さな灯りのひとつひとつがぼやけて見える。瞬きができない。

 聖夜がこちらを見た。

「何、泣いてんの」

「だって……、どうして今更修行? ……わけわかんない!」

 自分がだんだんわがままで嫌な女になっていくのがわかるが、香夏子には止められなかった。今、言わなければもう本音をぶつけることができなくなりそうな気がしたのだ。

「今の俺じゃ秀司から香夏子を奪えないからさ」

「なんで?」

 聖夜は複雑な表情をした。そして大きく息を吐いた。

「俺がそう思うから」

「…………」

(わけわかんない)

 香夏子は唇を噛んで助手席の窓ガラスを見る。

 やっと確かなものを手に入れたはずなのに、それはまたするりと香夏子の手をすり抜けていく。

 ――どうすればいい?

 頭の中には祝福の鐘ではなく警鐘が乱打されている。ガンガンと鳴る不穏な響きに香夏子はますます顔を歪めた。

「今日はカナと秀司に会えてよかったよ」

 すっかりいつもの穏やかな声に戻った聖夜は、もう思い残すことはないというような口ぶりで言った。

(こんなの全然よくないよ!)

 香夏子の心の叫びが聞こえたのか、大きな手が香夏子の頭を優しく撫でる。

「ねぇ、最後にひとつ、カナにお願いがあるんだけど」

 長い指が香夏子のうなじに触れた。そして後ろ髪を掬う。パラパラと聖夜の指から髪が零れ落ちた。

「俺に勇気をちょうだい」

 思わず息を呑む。胸が破裂しそうだ。

 香夏子は聖夜を振り返った。

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