背中から聞こえた声は女性の声。だけど、人の敷居を余裕でガツガツ飛び越えてくる愛菜花の声ではない。ずっとずっと、か細い。


「すいません」


 呼びかけられている。そう思った僕は振り返った。

 そこには、薄茶色のカーディガンとジーンズを着て、焦茶の模様が左右不規則に入った白スニーカーを履いている女性が立っていた。


 俯いているために顔が見えなかったのだが、肩まで伸びた髪や華奢な体格、さっきの呼んだ声から女性であるということは推測できた。


「なん、でしょうか」


 僕は呼びかけた理由をそれとなく聞いてみた。


「ここ、ですか」


 今にも消えてしまいそうな弱々しい声。聞き取るのがやっとだった。


「ええっと、ここというのは……」


「51エリアズ、ですか?」声の調子は変わず、低いトーンだ。


「ああ。はい、そうですが」


 もしかして、入部希望の人かな?


「記事、書いてるのは?」


 そう言うと、俯いたまま女性は僕をまっすぐ指差してきた。


 異様な空気が漂い出す。どこか怖さすら感じて、身を少し屈めた。


「は、はい。僕……私、です」


 恐る恐る言い直しながら、僕は応えた。途端、女性が勢いよく顔を上げた。

 限界まで開かれた二つの目。赤く染まった血管が、白い部分に線が幾つも入れていた。まさに血走った眼で僕を見つめながら、女性は駆け寄ってきた。


 えっえっえっ!?


 躱す間も、距離を置く隙もなく、女性は僕の目の前に。動けない僕の両肩を強く掴んできた。


「駄目だっ!」


 女性の口から玉となった唾が飛ぶのが見えた。先程までの消えそうな声色はどこにもない。


「何が駄……うっ」


 言葉半ば、伝え切る前に思わず僕は顔を逸らした。


 女性の全身から賞味期限をとっくに過ぎたお酢のような酸っぱさが臭ってきたせいだ。鼻から脳へ貫き、何度も矢で刺すような厭な刺激に、反射的に首が動いた。


「あれを……あの言葉を追ってはいけないっ!」


「はぁ?」言葉? 言葉って……


 すると女性はがくりと頭を垂れて、またもか細い声でぼそぼそと呟き始めた。


 何だこの人……ん?


 気づいた。着ているカーディガンはピンクであることに。汚れが酷く目立っているせいで、薄茶色に変色してしまっているのだ。となると……そうだ。スニーカーもだ。模様ではなく汚れ、正確には泥。白であったろうと予測はできるが、ほぼ跡形はない。昨日の雨のせいで泥濘にでも足を取られたのか、泥まみれだ。

 それに、髪の毛もボサボサ。もしかしたら、風呂にすら入っていないんじゃないか。


「……ぅな……うな」


 小さかった言葉が次第に大きくなっていく。そして、ようやく何と言っているか分かった。


 追うな、だ。


「追うな、追うな、追うな、追うなっ」


 呪文のように、まさに呪うように、追うなと連呼している。開きっぱなしの口元からはたらりと涎が垂れ出していた。


 どうにか置かれた手を解こうとする。けど、身動きが取れない。華奢な見た目からはとても想像し得ない力だ。


「なんなんですか、あなた?」


 失礼だけど何か精神的に参ってしまっているのかもしれない。となれば僕には対処しきれない。専門家が必要だ。僕には一択しかなかった。


「保健室。そうだ、保健室行きましょう。ほら、すぐそこにあるから一緒に……」


 そう声をかけると、女性は肩から手を離した。


 分かってくれたのかな、と思ったのも束の間。女性は頭を押さえながら、天井から床まで、振り乱し始める。


「ど、どうかされました?」


「アレが……アレがぁぁ」


 そして、両手で長い髪を強く握った。


「あぁぁぁ」


 ぶちぶちと音を立てて、彼女は髪が引き抜いていく。


「な、何してるんですかっ」


 もう何か、ヤバいものでも飲んでるか吸ってるか注射してるんじゃないか。これは僕の手には負えないそうに……


「アレがぁ、食べてるっっ」


 食べてる?


 すると、女性は部室の外に向かって駆け出した。その姿はまるで、映画に出てくる走るゾンビ、かのよう。


「ちょ、ちょっとっ」


 止めないと。不思議な使命感に駆られ、僕は後を追う。


「あぁぁあぁぁっ」


 女性はつんざくような叫びを上げながら、部室棟の廊下を走っていた。動いている腕と脚の動きには、奇妙なことに規則性がない。その上、壁や部室の入口にぶつかっても床に置いてある物に躓き盛大に転んでもすぐ立ち上がった。速度が落ちない。まるで痛みの知らぬゾンビのよう。


 部室から出ようとする人や階段を上がってくる人を両手で弾いて、跳ね除ける。そのせいで転んだり、階段を踏み外して落ちていく人が。


 このままじゃ、他の人に危険が及んでしまう。急がなきゃ。不思議な使命感に駆られて、僕はあとを追った。


 今度は蜘蛛のように、転びながらも両手両足で階段を上がっていく女性を追いかける。


 今は四階だから、この上はもう屋上。普段は使えるのだが、今は確か屋上の柵が老朽化しているから、鍵が閉まっているはず。


 であれば……


 何かが壊れ、思い切り開け放たれる音が耳に届く。嫌な予感が脳裏をよぎる。僕は足の動きを早めた。


 踊り場を超えて、屋上が見える位置にくる。眩しい光が届く。おもむろに顔を上げると、やはり屋上に通じるドアが開けられていた。そばには壊れたチェーンが散らばっていた。


 何なんの一体……


 僕はドアを抜け、屋上に出る。足を止めて、視界を慣らす。女性は真っ直ぐ前に。変わらず、頭を振り乱し暴れながら走っている。しかも、もう白い柵にぶつかるところ。


 おいおいっ。


 女性は柵にぶつかる。甲高い金属音が響く。錆びた焦茶色が至るところにもある見た目から腐敗が進んでいるのは分かった。


 壊れるのではないか、と思った。けど、壊れなかった。


 でも、走る勢いがあり過ぎたのだろう、女性の体は百八十度回転して、柵を越えてしまった。


 そして、姿を消した。


 えっ?


 ぐじゃりという鈍い音と、女性の異常に大きな悲鳴が下から聞こえてきた。


 嘘、嘘、嘘、嘘っ!


 柵まで走り、僕は止まる。湧いた大量の生唾と息を大きく飲み込む。意を決して柵の下部分に足をかけ、恐る恐る下を見た。


 女性の手足はそれぞれがありえない方向に曲がっていた。そして、最初に衝突したであろう、右側頭部と顔の一部がぺしゃりと不自然に潰れていた。へこんだ部分から血は円形状に流れ出ていく。


 身体は、まるで弱い電気でも流れているかのように、沖に上がった魚のように、不自然に痙攣している。けど、ぱっと見ただけでもう、息などないということは分かった。


「はぁ……はぁ……」


 走った時よりも不規則に、異常に息が乱れる。動揺のせいだ。恐怖のせいだ。


 途端、激しい吐き気が喉を通ってくるのを感じた。慌てて身体を引っ込めて、口元を手で塞いだ。


「うぅぅっ」


 迫り上がってくる嫌な苦味を生唾と一緒にどうにか飲み込む。抑えられたのは、今日はまだ何も食べていなかったからだろう。


 代わりに、涙目になる。一つ大きく息を吐く。落ち着かない心臓の鼓動を感じながら、改めて下を見た。


 あぁ……最悪だ。見間違いじゃないらしい。


 もう人集りが出来ていた。その真ん中にあるもの……幻覚であって欲しかった。けれど、現実は残酷だ。


 死体を見たら、またも不快な液体が込み上げてくる。吐きそうになる。けれど、すぐに収まった。正確には、引っ込んだ。


 あれって……


 見覚えがあった。というか、さっきまで見ていた。


 少し離れたところに場違いに生えている一本樹の影に二人の男が立っている。


 あれは、そうだ、あの写真の男たちだ。


 遠目から、また上から見ても分かる身長差。格好もあの写真と一緒。背負った黒い袋も、ショルダーバッグも。


 目の前で起こった悲劇であり、不可解な出来事。小説のようなドラマのような、少し異常な光景。そこに居合わせた正体不明の彼ら。


 一連のこと。偶然じゃない。偶然なんかじゃない。


 今までに感じたことのないアドレナリンが脳内を高速回転させて、一つの答えを即座に導き出した。


 彼らが操ってる。彼らが全ての黒幕だっ。


 すると、彼らは目を合わせ、死体に背を向けた。この場から去ろうとしている。いなくなってしまう。そう思ったら、今度は喉から声が出た。


「待てっ!」


 思ったよりも大きな声が出た。野次馬達が僕の方に顔を向ける。その寸前に顔を引っ込めた。隠れるためじゃない。


 僕はすぐに踵を返し、駆け出した。

 階段を降りていく。意図せず意識せず、一段飛ばしになっていた。


 一階に辿り着き、外に出る。最初に見える教室棟の七号館を抜けた先に一本樹があるのは、ここの学生であれば当然に分かる地理だ。


 僕は迷わず向かう。こういう時に、一目散、という表現を使うのだろう。あんな声で呼び止めたのだ。まずいと思って逃げているだろう。運が良ければ後ろ姿が見えるはず。運が悪ければもう姿は見えなくなっていることだろう。


 運が良いことを願う。これはもう、記事のためとかじゃない。いや、少しはあるけど、それだけじゃ間違いなくない。


 目的の建物の影に入る。あの角を越えれば、もうすぐっ……


 僕は建物の角を曲がった。太陽の光が一気に降り注ぎ、思わず目を細める。


 目を慣れさせつつ、僕は足を止めずに向かう。


 ……あれ?


 二人はいた。遠くに、ではない。さっきと変わらない、木の影に何故かいた。


 なんで? そう思った途端、息が上がっているのに気づいた。どんと疲労がくる。自然と足を動かす速度も遅くなる。


 駆けていく僕の姿が視界に入ったのだろう、背の高い方が最初に気づく。俯いて爪を弄っていた背の小さな方の肩を軽く叩き、顔で僕を指した。


 背の小さな方が僕に視線を向ける。


 逃げなかったのは、声が聞こえなかったのか。それとも何か今からでも逃げられるという勝算があるのか。いや、もしかしてもっと恐ろしいことでも企んで実行しようとしていたんじゃ……


「やっと来た」


 いや違う。今、背の小さな方が、やっと来た、と言った。確かに聞こえた。


 聞こえなかったわけでも、勝算があったわけでも、恐ろしいことをしようとしていたわけでもない。


 単純に、僕の待てという声が聞こえて、待っていたみたいだ。


 ……いや、なんで?

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