十九

 私はすぐさま立ち上がり、怪異から逃げる。怪異は、縦横に机が仕切られているオフィスを斜めに、壊しながらこちらへ向かってくる。


 簡易的な敷居でいくつも仕切られた部屋に入って隠れようとか考えたけど、ガラス張りだし、第一私だけ追っているこの状況じゃ意味がない。

 それに、物が散り壊れているこの階をぐるぐる回っていても、勝機はない。一階まで向かうのも怪異のスピードを考慮すると、難しい。ならせめて、階数を変える、もし上手くいけばどこかに隠れる。

 今考えうる得策を果たすため、私はさらにがむしゃらに腕を振る。目的地は勿論、あの非常階段だ。


 怪異はガラスに体を当て、斜めに追ってくる。障壁など気にする素振りもなく、いとも容易く壊してくる。速度さえ変わらないのだから恐ろしい。一歩が大きいからか、距離はみるみる縮まってしまう。


 嫌だっ


 私はこれまでにないほどに両足の速度を上げる。廊下を駆け抜ける。角を曲がる時に勢いあまって、壁にぶつかりそうになる。手で支えながら、体を整える。


 さっきのぼってきた非常階段が見える。両手に力を込めて押し除けながら、扉を荒く開ける。


 階段を駆け下りていく。生じる金属音など気にも留めず、正確には留める余裕が無かったのだがとにかく、ただ一目散に下へ向かう。




 私は非常階段の扉を開けた。階数表示は“24”。破損も散乱もない、本当はこれがいたって普通のフロアに出た。

 扉を閉めた時、私はあることに気付いた。追いかけてくる足音が聞こえないことに。

 非常階段の扉に近づき、耳をすます。やはり聞こえない。


 なんでなのかは分からないけど、とりあえず良かった……


 最大限に荒くなった息を整えながら、壁に背をつける。寄りかかりながら、腰を下ろす。


 ピキピキ


 何か聞こえてくる。上から。

 私は視線を向ける。


 ん?


 天井に違和感を感じた。こうなにかヒビのようなものが入って……


 ビキビキ


 同じだがより大きく鈍い音、そして同時に視界にヒビが大きく入るのが見えた。


 これって……まさかっ。


 直後、天井が崩れる。コンクリートの瓦礫はけたたましい音をかき鳴らす。あまりに突然のことに私は逃げることもできず、顔を腕で覆うことしかできない。


 激しく舞う粉塵。煙を裂くように、怪異は立ち上がった。


 私は立てず、四つん這いで逃げる。けど、足を掴まれ、元の場所に引きづられ戻される。


 怪異の形相は恐ろしかった。怒りも消えていなかった。

 その表情のまま、怪異は私を掴んだ。どうにか体を動かそうと抵抗するも、あまりに力が強く、虚しい結果しか出せない。


 怪異は顔に私を近づける。

 目、というのだろうか、真っ黒に染まった水晶体が私を凝視していた。


「ジャァ……マァ……ヲォ……スゥル……ナァ」


 途切れ途切れの拙い日本語を口にし、怪異は込める力を強くしてくる。そして、口を大きく開けた。これから何が起きるのか、私は覚悟した。


 口が近づく。もうすぐ目の前。口腔内は人間のように赤ではなく黒。舌とか歯とかはなく、まるでブラックホールのように闇が広がっている。


 ああ、私はこの中に入っていくのか……


 不思議と悲鳴は出なかった。ただ瞼を閉じる。湧き出るのは静かな諦め。


 せめて痛くないといいな……


 そして、そのまま私は怪異の口の中……あれ? 何もない。まだ瞼越しにうっすらと見えるは外の明るさ。ブラックホールに入った感覚がない。

 恐る恐る目を開ける。怪異は口を開けたまま止まっている。


 ただ目を閉じる前と違うのは、口の上から顎の先まで刃がまっすぐ貫いていることだ。


「あのさぁ」


 顔を上げる。ニノマエさんが怪異の頭の上で両手で持った刀を持っていた。


「頭ガラ空きなんだよ、バカ野郎」


 刀を抜くと、怪異の頭から「グゥォ」と短い音が絞り出た。

 二、三歩ふらふらと歩く。いや、酔いどれのように足取り乱れているというほうが近いかもしれない。私は向かう方向に背中に目をやる。窓ガラスが見える。


 もしかして……


 嫌な予感が頭をよぎる。今日はなんとも察する日だ。私は腕を抜こうと必死になる。

 どうにかふんばって、片腕が抜ける。その時、怪異が不意に立ち止まった。両膝を荒くつき、転がるように仰向けで倒れた。

 頭は窓ガラスに当たり、激しい音を立てて割った。それでも鳴くこともしない。力尽きたようだ。


 よかった……これでもう進むことは……


 そう思った私の予想を裏切る、怪異はまだ動いているのだ。


 えっ?


 亡骸となり、重い体の怪異が重力に負けたのだ。頭の方が重いのか、窓ガラスの外に滑っているのだ。


 嘘、でしょ……


「はーあ」ニノマエさんは肩に刀を置く。「あんだけ手こずせやがったのに呆気ねえな。ま、一人にばっか目がいかないからやられるんだ。注意力散漫だ……って、おいおい」


 半笑いになる。


「何ふざけてんだ?」


「ふざけてないですっ」


 力を込める。もう片腕も抜けた。少しずつ緩まってくるのだろうけど、自分の体を抜くのは難しかった。


 さらに滑っていく。


 うそうそうそっ!


「じゃあ、何を?」


「抜けようとしてるんです。出られ、ないんですっ」


 歯を食いしばる。これまでに無いくらいに、これ以上無いくらいに。


 せかすように、怪異は落ちていく。滑りに止まる気配がない。もう半分、外に出ている。


 ニノマエさんの表情が真剣に変わった。


「……マジで?」


「マジで!」


 声を荒げたことで力が出たのか、最後の一絞りの力が出た。体が自由になる。


 抜けたっ!


 同時に、怪異は窓の外へ。そう、私も高層ビルから飛び出した。怪異を踏み台にし、跳ぶ。走ってくるニノマエさんが見える。手を伸ばしてくる。


 私も伸ばす。届いてっ!


 けど……


「キャァアァ!」


 喉から溢れる自然な悲鳴。下から激しく吹く風にもかき消されない音量だった。


 空に向いていた視線は、さっきの窓から跳ねて飛んでくるニノマエさんが、なびく髪の隙間から見えた。


 ニノマエさんは体を小さくまとめる。空気抵抗が減らされているからか、私より何倍もの早い速度で落ちてくる。


「掴まれっ!!」


 差し伸べられた手。今度こそ掴むんだ、私は千切れんばかりに手を伸ばす。


 もうちょっと!


 指先が触れ、指が二本当たる。


 届いてっ!!


 手が重なる。ようやく握れた。直後、ニノマエさんは視線を壁に向け、持っていた刀を逆手に持ち替えて、壁に深く刺し込んだ。


「おらぁぁぁっ」


 風よりも大きく叫ぶニノマエさん。

 深いまっすぐな跡がついていく。ほんの少しだが、落下速度が遅くなる。


 助かった……


 そう思った瞬間、刀が勢いに負けた。壁から突き放された。


 えっ?


 刀の抵抗が無くなり、スピードがまた早まっていく。もう地面まで少し。


 あ、今度こそもう駄目だ……


「ヘキッ」


 男性の声が聞こえると、背中に衝撃が。何かに当たったよう。走る痛みは声にならない。


 私……死んだの?


 私は顔を歪めながら、地面に触れる……えっ?


 地面……じゃない。何かこう、“土台”のようなものが、ビルの壁から伸びるように出てきているのだ。いや、違う。ビルの壁が割れ、その向こうから緑が見える。あれって……プランター?


「はぁあ」


 横に顔を向けると、ニノマエさんは欠伸をしていた。頭の後ろで手を組み、口を少しとんがらせ、息を吐いた。


 助かった……


「お目覚めか、トー」


 えっ?


 目を開くと、私が落ちた所より高い、多分三十七階のガラス窓から、ツナシさんが顔を出していた。


 片手で頭を押さえながら「すぐ向かいまーす」と手を振って、姿を消した。


「あんたも頑固だよな」


「えっ?」


「自覚なしか」


 ニノマエさんは一笑すると、「来るなって言ったのに来たじゃねえか」と続けた。


「……すいませんでした」


「謝るこたぁねえよ。ま、おかげで助かったこともあるしよ。礼言うぜ」


 ニノマエさんは口角を上げた。つられて私も。何かこのやり取りが心を本当の意味で安心させてくれた。本当に、本当に全てが終わったんだって。




「ガラスに気をつけて」


 ツナシさんの補助を受けて、私はオフィスビルの中へと戻った。


「お怪我は?」


「いえ。それより、ツナシさんは大丈夫でしたか」


「ええ」苦々しく笑いながら頭をさする。「気絶するなんて……いやはや、お恥ずかしい限りです。大変なご迷惑をおかけしました」


 謝罪のニュアンスを感じ取れる深い一礼に、私も「い、いえ」と吃りながら、頭を下げた。


「ほんとダッセ」と、にやけ顔のニノマエさん。


 少しムッと顔を浮かべるツナシさん。


「おいおい冗談だって。そんな顔すると、頭に悪いぞ。強く打ったんだから、安静にしなくちゃ」


「馬鹿にしてるのかいたわってるのか分からない労いを、どうもありがとう」


 ツナシさんは濡らしたタオルを頭につけながら、そう応えた。


「そういえばあの方は?」


「上司殺そうとした奴のことか」


 私は、はい、と首を縦に振る。


「皆殺しじゃあとかわーきゃーうるさかったんでな、さっきの階で眠らせておいた」


 てことは、あの三十七階にいたのか……


「あっ、置いてきちゃったな」


「いいよ、別に。起きてもうるせえだけだろうから」


「だね」


 二人の会話を見ていると、ニノマエさんが不意に「そういや、怪異見えたな」と声をかけてきた。それで、思い出す。


「そうなんです。突然見えて……見えなくなったはずだったのに」


 どうしてだろう、という顔をしていたからだろう。ツナシさんは「可能性として考えられるのはいくつかありますが、おそらく繋がりが強くなったからではないかと」と答えてくれた。


「繋がり、ですか?」


「順に説明していきますね。片桐さんが最初に視えたのは、怪異が由奈さんに憑いていた時です。その時間接的、いや想っていた願いの最終地点に片桐さんという存在がいました。要するに、由奈さんが亡くなるまでは由奈さんの願いを叶えようと怪異が動いていたから、自然と怪異との関係性が強くなり、視えていたのだと思います」


 成る程。「なら昨日、あの石碑の時に視えなかったのは、由奈が死んで繋がりが無くなったから?」


「ええ。そして今、片桐さんは怪異を倒そうとしていて、怪異が片桐さんに対して直接怒りを抱くという二人の繋がりが再び濃くなったから視えたのだと思います」


 ちゃんと正確に理解できたか分からないけど、なんとなくは分かった。


「ま、もう視える視えないどころか、けど」


「え?」ニノマエさんの言葉に、思わず私の眉が上がる。


「ほれ」


 ニノマエさんが横に顔を振る。見てみると、蛍のように小さく丸い光の粒が上っていくのが見えた。私は元を辿り、窓から下を眺めた。


「な、何ですかアレ」


 人々が興味津々に群がっている怪異から、光の粒が出ていた。


「これって……」


 初めて見る光景だけど、これが何を意味しているかはなんとなく分かった。


「終わりの合図だ。諸々のな」


 そう、これで本当に終わりなんだ。死んだんだ……その、ええっと……あれ、名前が思い出せない。さっきまで言えていた気がするのに……


 足がふらつく。覚束なくなる。倒れそうになる。


「おっと」


 寸前で、ツナシさんが支えてくれた。浮かべていた笑顔は温かかった。安心感のある、優しい笑顔。


「安心して下さい。ここから上手いこと連れ出しておきます。まあ、寝て起きたら全て忘れていると思いますから、特に心配はありませんよ」


 えっ? そういえばなんかそういう……あれ? 色んな記憶がふわりと消えていく。頭の中から誰かが勝手に消していく。


「お疲れ様でした。ゆっくり休んで下さいね。それでは」


 ツナシさんの笑顔を見て、急に睡魔に襲われる。


 何台ものパトカーや救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえてくる。近づく度に私の意識は遠のく。


 あれ、私……どう……し……て……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る