十七
「ここだとバレる。一旦隠れっぞ」
ニノマエさんの一言で、私の戸惑いは隅にいった。私たちは慌てて反対方向へ身をかがめながら走った。
そのまま、二十メートルほど先にある電柱の陰に急いで身を潜めた。ツナシさん、ニノマエさん、私の順。しゃがんで、中腰で、立って見ている。綺麗に並んだ姿は滑稽さすら覚えるが、今はよしとしよう。
それよりも……私は電柱から少し顔を出した。
男性は石碑の前で止まる。そして、おもむろに斜め上を見上げた。微かに見える口元は動いている。何か呟いているようなのは分かるけれど、内容までは不明だった。
口は動きを止めない。けれど、周りには誰もいない。電話をしている様子もない。すぐさっきの会話が脳裏をよぎる。
「喋っているのって、もしかして……」
「ああ」
返事の仕方で十分だった。今回私には見えないけれど確かに、サラリーマンの隣にあの怪異が、いる。
「聞こえるか?」
ニノマエさんの問いに、ツナシさんは「しっ!」と、口へ人差し指を持ってくる形で答えた。ツナシさんにはどうにか聞こえるみたいだ。目を閉じて聞き耳を立てている。
「願う?」
ツナシさんが呟く。すると、サラリーマンは手を合わせて、石碑に向かって礼をし始めた。二回。そして、手を叩く。強く二回。最後に一度、礼。
まさに神社仏閣で祈る二礼二拍手一礼だけれど、それとは感情の乗り方がまるで違う気味の悪さと、負のオーラがまとわりついた強い念をその姿から感じた。
「成る程な」
私は視線の先をニノマエさんへ。
「あの石碑に祈ることで、怪異との契約が完了するってわけか」
「契約?」
ニノマエさんは軽く振り向いて、そう口にした私を見た。
「怪異が力を貸す代わりに命を奪う契約だよ」
ということは……「由奈もそれを理解した上で同じことをしたってことですか」
「だとすれば、わざわざ自殺させるような方法は取らない。さっさと殺せばいいだけの話だ。おそらく、騙したんだろうな。いや、敢えて伝えなかった、って方が正しいか」
ということは、あの人も何か強い想いがあってここに来たのだ。もう別の標的を探していること、願いにつけ込む怪異の卑劣さに憤りを感じる。
「なんでこんな回りくどいことをするんでしょうか。怪異は手を出したりできないんですかね」
「そういうわけじゃねえだろうよ。オレを弾き飛ばしたんだから
あぁ……ダメだ、その部分だけぼんやりとしていて、あったような気がするというのしか記憶から出てこない。
「となると、なんだろう……」
そもそも何か分かるような存在ではないのだが、余計に分からなくなってきた。
「栄養、かもな」
「栄養?」
「ああ」
ニノマエさんは軽く返事を返した。
「トーが言ってた『自分の欲に忠実』って言葉を借りれば、あの怪異は、オレらが物を食ったことで栄養を得るように、絶望して自ら死を選んだ人間の、魂とかそういうのを取り入れることで栄養分になるんじゃねえか。身体を作り、命を延ばすもとだから、回りくどくてもやらざるをえないんじゃないか」
絶望して自ら死を選んだ人間が栄養……そんなこと到底信じないだろう。けれど、まあ忘れてることもあるけどとにかく様々な事象をこの目で目撃した今、信じるという次元を超え、理解をしようと努めている自分がいた。同時に、酷く身体を震わせている自分もいた。恐ろしいなんてもんじゃない。足元さえ見えないような真っ暗闇の世界に一人蹴落とされたような、絶望。
「なら自殺した人は全員あの怪異の養分になっているということですか」
「いや、もしそんな大規模なことならオレらが気づかないわけがないし、特定の人間と見えないはずの怪異と組むこともない。つまり、もっと狭い範囲で何かしらきっかけがあるはずだ。結果として自ら死を選ぶか何か、あの怪異の喜ぶ方へ導かれちまって……てな作戦だわな」
そんな……こんな言葉しか思い浮かばなかった。
「行きますよ」
ツナシさんの呼び声に、私は目の意識を石碑の方へと戻した。サラリーマンはもう来た道を引き返していた。こちらに背を向けている。
儀式らしきことを一通り終えたみたいだ。時折周囲に目を配っているのは、辺りを気にしているのか、それとも私たちが見ている気配に気づいたのか。仮に後者であっても、凝視してくるわけではない。ということは、私たちだっていうことはバレていないのだろう。
少し距離を取りながら、私は……
「あぁ、いいいい」
え?
「追わなくていい」
ニノマエさんは指を丸め、爪の先を見ていた。
逃げられちゃいますよ——そう言いかけるが、「一旦泳がせたほうがいい」と付け加えられたことで、言葉を変えた。
「泳がせるって言っても、どこの誰か分からない状態で泳がせたら……」
本当に泳いでいくような結果になってしまうことに、私は思わずしつこく問うた。せっかくのチャンスをふいに……
「誰かは分かりませんが」ツナシさんはゆっくりと立ち上がった。「どこの人か何を願ったかは分かります……イテテ」
片目をつぶり苦悶の表情を浮かべる。
「どうしましたか?」
もしかして、これも何か怪異の影響なのだろうか?
「いや、ご心配なく。痺れただけなので」
え?「痺れた?」
「ええ、ビリビリきてます」そう言いながら、ツナシさんは両ふくらはぎをさする。
「しゃがんだまま暫くいたら、すぐに立ち上がるのは駄目ですね。なかなかきます」
……どうやら杞憂だったらしい。
「それで、どこ方かについてですけど」ツナシさんは心配をよそに淡々と続ける。「
会社の名前を聞いたことがある。確か、海外にも支社がある大手一流商社だ。目指している人は周りに沢山いる。
「なんでそんなこと分かるんですか」
「手を合わせながらそう話していましたから」
話していたって……「聞こえたんですか?」
「ええまあ、色々と」
ツナシさんは右手を軽く上下させた。例の緑の本が握られている。
成る程、そういう感じね。私は「それで、願ったことは?」と続ける。
「なんとも物騒ですが」
ツナシさんは眉を寄せた。
「上司の
正直言うと、心配だった。由奈が死んだ今も私はまだ狙われてるんじゃないか、と。だから、人の往来が激しくなり始めた住宅街を抜ける際、2人に相談した。これからどうすればいいか、そういう話をしようとした。けれど、大丈夫だ、という返事がきて、流れは急に変わる。
根拠は2つ。1つ目は由奈と怪異との契約だ。手紙の文面からして、由奈の願いは私を守ることであり、私の命を狙うことではないはずとのこと。
2つ目は至って単純。今は新しいあの人についているからだ。少なくとも、叶えるまで……いや、叶えるふりをして絶望のまま自ら死を選ばせるまで、は狙うことはないはずとのこと。
ただ、不安であればそばについている、と言ってくれた。けれど、2人はまだ調べたいこともありそうだったし、有り難かったけど、「大丈夫です」と遠慮した。
とはいえ、家に帰るのは何か嫌だった。そこで狙われたらひとたまりもない気がしたし、もし仮に現れたらもう帰れなくなってしまう。
安価に泊まれるカプセルホテルで一晩を過ごし、翌朝例のハンバーガーショップに集合した。私と別れてから、例のサラリーマンが誰なのかを中心に調べていたという。
「それで?」
「バッチグーよ」ニノマエさんは動きを付けて、笑った。
「名前は
「よくそこまで……」
個人情報は隠される傾向にあるこのご時世にそこまで調べるとは。かなり時間がかかったに違いない。
「いや、新卒採用ページの社員インタビューのところに顔写真が載っていたので、そんなに大変ではなかったですよ」
あっ、成る程ね。そういうことか。情報というのは、自分が思いもせぬところから出るみたいだ。
「そちらは詳しく分かりませんでした」
「ま、上司と部下で殺意があんなら、何か耐え難い扱いを受けた、または受けているんだろ」
「いじめ的な?」
「的な」
会社の上司に酷い仕打ちに負の感情が増幅して、殺したくなった。そして、あの怪異に頼ったと……ん?
「てことは、その2人は……」
今日は平日だ。
「ああ」ニノマエさんは欠伸をした。「一般的な社会人なら、顔を合わせる」
会社に出社するのなら、もしかすると、今日目標を達成してしまうかもしれない。自らなのか他人によってなのかは分からないが、誰かが亡くなることになる。
「なら、早く向かわないと」
時刻は七時、急げば間に合うはず……
席を立とうとする私を、ツナシさんは「片桐さん」と静止した。
「ここにいてください」
えっ?
「なんでですか。私も行きます」
私の言葉に、ツナシさんは少し目を落とす。瞼は細く、眉間にはシワができている。
「お気持ちは分かります。ですが、今の片桐さんなら、一緒に行くのは危険です」
「危険って何が……」
「怪異、見えなかったんですよね?」
うっ。言葉に詰まる。
「今度は一戦交えるでしょう。いや、これ以上被害を出さないためにも、今度こそ仕留めなければなりません。こちらが本気な分、怪異も本気でくるでしょう。そんな中で、怪異を捉えられないというのはあまりにも致命的です」
私は視線を落とした。
「あんたが間違いなく無事に生きる方法は怪異に近づかねえこと。だからここでお別れだ、悪りぃな」
店の外で、ニノマエさんは背負っている黒い竹刀袋の位置を整えた。
「あんたの怒りを込めてぶっ倒すからよ、あとはオレらに任せとけ」
「どうかご無事で」
ニノマエさんは片方の口角を上げて、背を向け、離れていく。あちらは駅の方だ。
「では、お元気で」ツナシさんは軽く一礼し、駆け足でニノマエさんの後を追った。
遠ざかる姿を眺めていた。特に意味はない、と思う。通勤通学で急ぎ足の人々の中に紛れていく。姿を追えなくなった。踵を返すように、私は二人とは反対の方へ歩いていく。
大半は駅へと向かっている。人の流れに逆らいながら、小さな歩幅でゆっくりとした速度で、歩みを進める。
信号が見える。表示は赤。足が動かぬ分、頭が動く。
由奈を殺した化け物を倒した時、私の記憶から怪異に関することは全て消えるらしいと言われたことを思い出す。事件から今抱いている負の感情まで何もかもの事に整合性を保たせるためだということも、そして今この瞬間のことも忘れるのだろう。
青に変わる。私は首を垂れながら、歩み始める。
この事件のことに関して、もし仮に“正解”があるのだとすれば、ああいう形で専門家の2人と別れてつかえない私は安全なところで身を潜め、そして二人に倒してもらって、記憶も整合背が保たれて、全てが片づく。
由奈や他に亡くなった方は戻らないとしても、多少なり今の形よりは報われると言っていた。
歩みを早める。
けど、それでいいのだろうか。
忘れるとしても、怪異への憎しみを抱いたまま、何事もなかったように終わらせていいのだろうか。
歩幅を広げる。首をさらに落とす。
多分こんな悩みも消えるから別に大したことではない。事実、そうなのだ。けれど、そういうことでもない。あぁ、分かってる。この考えはダメなことなんだって。それでも広がる気持ち。
俯いて頭を激しく振る。左右に何度も細かく。不意にぽかりと浮かんできた一考を消そうとする。頭を振っても振っても、消えない。
……違う。消えないんじゃない。私が消そうとしないんだ。
立ち止まる。信号のない場所で、私は顔を上げた。
踵を返し、来た道を駆ける。向かうは駅。
そう、私は“正解”に反したのだ。
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