冷たい風が肌を通り抜けていく。肌寒さを感じた私は、明るいネオンを横目に、羽織っていたカーディガンを前で重ねた。

 九月終わりの夜は、残暑厳しい昼間とは異なる顔を見せる。日によっては、まるで様相が違う。もはや太陽が季節を間違ったんじゃないかと思うぐらいだ。

 こうも気温の差が激しいと、体調を崩すことなどいとも簡単。それに肌荒れもしちゃうから、嫌だ。ここ最近まで暑かったからしまったままだったけど、そろそろ冬物出そっかな……


 最近考えることが増えた。悩み、と言われれば大分大袈裟に聞こえるけれど、まあそんな感じだ。変なストーカーのせいで、嫌な夢を見て熟睡できていないからかもしれない。いずれにしろ、疲れは取れない。取れる気配はない。


 この角を曲がれば、あとはまっすぐ進むだけだった。家にたどり着けるだ。


 私はあまり気にしていないが、人通りの少ない道を夜通るというのはかなり勇気がいることなのかもしれない。ストーカーなんて危険な奴につきまとわれているなら尚更だ。

 けど、ここを通らないと。いつもの安全な道はもう恐らく例のストーカーにバレているだろうと踏んだ。これまでにも何度かルートを変え、少しでも見られていることを感じたら、その都度帰路の変更をしてきた。

 本当は家ごと変えちゃえばいいんだろうけど、アルバイトをしている学生身分の私にそんなお金の余裕はない。苦肉の策であり、私なりに裏をかこうと努めた結果だ。

 とかっこつけて言いながらも、そろそろ万策尽きてきたのが事実。ここは正直、帰れるかどうかある程度分かる範囲、この道は最後の砦でもあるわけだ。仮にここがダメになったのならば、いよいよ引っ越しということも真剣に考えなきゃいけなくなる。


 大通りから距離を置くにつれて、人通りは勿論、街灯の数も少なくなっていく。

 “夜はその影を濃くしていく”なんて表現したら純文学小説の一節のよう。別に楽しんでるわけでも足取りが軽いわけでもない。だけど、気疲れがないというか、気持ち的に楽だ。安心を感じている。ほっと息をついて、何も無いだろう、まだ大丈夫だろうと思って歩いて……


 足が止まる。じとっと生ぬるい視線を感じる。


 この感覚……来た。来てしまった。私は歩みを再開する。けど、気持ちはもう完全に変わってしまった。なんで……最悪……もうやめて……負の感情がどんどん厭な根を生やしていく。


 なんでこんなに早く……おかしい……絶対におかしい。


 あれ?


 見られている感覚が無くなった。ふわりと蒸発したかのよう。


 こんなのは初めてだ。驚き、戸惑い、疑問に思った。思わず確認しようと頭を揺らした。だが、すぐに固まった。またしても視線を感じたからだ。

 しかも、これまでにない程、悪寒が体を駆け抜けた。頭の上から足の下まで。さっきのそれとはわけもレベルもまるで違う。例えるなら、そう、視界に入った獲物を逃すまいと息巻くライオン。


 何かおかしい。そう頭の中でよぎるよりも早く、体は本能で固めた。風が吹く。突風、という言葉がよく似合う勢いの風で、髪が揺れて視界を遮る。指先でかき分ける。


 はっ?


 それしか思わなかった。目の前にトンネルが出来たのだ。何もなかったはずなのに、ただ暗い道がまっすぐ伸びているだけのはずなのに。輪郭が黒く、すぐに通り抜けられる距離しかないトンネル。


 それがなんなのか、理解する間もなく、上から何か落ちてきた。静かに伸びるように垂れてきた。雨ではないことは含まれている粘り気によって、すぐに分かった。


 私はゆっくりと顔を天に向けた。


 いた。


 目の前にいた。“何か”がそこにいた。じっと私を見ている。


 五メートル程の巨体は夜に溶け込むほど真っ黒。胴と足は太いが、手はすぐに折れるのではないかというほど細い。白目だけの眼球と、巨大な人間の鼻。噛み合わせ悪くもサメのように鋭い歯を見せてくる。あまりの長さに上下の歯は口から飛び出している、とにかく全体がアンバランス。気持ち悪い、まさにバケモノだ。


 トンネルだと思っていたのは太い足だと気づいたのは、腰が抜けて地面に手をついた時だった。口元から溢れていたものが歯から滴る。そうか、液体は唾液だったのか。

 またも地面に落ち、手にはねる。


「ギィミィズゥギィ」


 バケモノの口からはそう出たが、殺される。そう思ったのは直後、バケモノがゆっくり顔を近づけてくる。


 バケモノの足の間から、突如光が差し込んできた。直後、クラクションが鳴り響いた。

 私は視線を落とす。見えたのは2つの光。勢いが増し目を細めないと直視できないほど強い。


 もう何が何だか分からない。直後、轟音が鳴り響く。この音って……どうにか目を凝らすと赤い物体と何か透明なものが動くのが見えた。


 あっ


 分かった。あれ、車だ。ライト、車体、窓。全て目と脳が捕らえた。


「道の真ん中で何してんだっ、邪魔だよっ!」


 野太い男性の声。怒りを露わにしているのが伝わる。


 私は急いでバケモノを仰ぎ見る。顔らしき部分が後ろを向いている。私から視線が逸れている。多分、注意も。


 今だ、今しかない。


 私は固まっていた体を奮い立たせる。振り返り、そして今までにないほど激しく地面を跳ねて、駆け出した。


 上下に荒く揺れる視界、目まぐるしく変わる景色。明るさが増せば増すほど、緊張感と恐怖は募っていく。


 大通りに引き返し、私は左へ曲がった。特に考えはなく、感覚でこっちの方がいいと思った。


 途端、人とぶつかる。尻餅をつく。


「イッテェな……」


 ねずみ色のスーツを着た年配のサラリーマンも体勢を崩していた。


「おい、ちゃんと前見て歩けよっ」


 声を荒げられるも、私は御構いなしに後ろを振り返った。あのバケモノがやってきていた。速くはない。だが、着実に近づいている。


「た、助けて下さい」私はすがりつく。「バケモノに追われてるんです」


「はぁ?」相手は怪訝そうに眉をひそめる。


「ほら、あそこ。あそこです」

 私は背中の方へ指さす。位置は斜め、高いところを。


 相手もその方を見る。だが、反応はない。


「いや、ほらあそこ。いるでしょ、二足でこっちに走ってる、大きくて変なのがっ」


「あんた……大丈夫か」声から不機嫌さが滲み出ていた。「何もいないぞ」


 えっ?


 私は振り返る。いや、いる。確かにそこにっ。


「んな下手な言い訳してないで、素直に謝ったらどうなんだよ」


 顔を戻す。けれど、相手は平然と、いや怒りを少し滲ませた表情をしていた。これっぽっちも慌てていない様子は、嘘をついているようには見えない振る舞いだった。


 地面を揺らす足音。振り返ると、バケモノはいた。気持ち悪い太い足を交互に出しながら、こちらに向かってきている。


 背筋に異様な寒さを感じながら、私はすぐさま膝を起こした。素早く足を動かし、再び駆け出した。背中の方からあの男性が「おいっ」と呼び止めてきた。親しみも善意も、ましてや冗談さなどではない。怒りしかない含んでない声。私が悪い。だけど、止まっているわけにはいかない。今は少しでも距離を離さなければ、遠くに行かなければ。謝るなど後でいくらでもしてやる。


 呼吸が早くなる。体の細胞という細胞が酸素を欲しがっているのを感じる。口から出る息が熱を帯び、震えている。


 疲れを知らないわけじゃない。あんなバケモノさえいなければ、今すぐにでもスピードを落としたい。止まって乱れた呼吸を整えたい。通り過ぎるファストフードやファミレスで飲み物を……いや、贅沢は言わない。古いささくれた小さな公園のベンチで座りたい。けど、それは全てあのバケモノがいなければ、の前提。もしここで足を止めたら、捕まって、息さえも止まってしまうのではないか。未知のことに怯え、怖くなる。


 時間も時間。大通りであることもあいまってか、通りには多くの人がいた。家に帰るサラリーマン、学生服を着た中高生、年齢も性別もバラバラだけど示し合わせたように皆、なんだこいつは、という目をしている。


 バケモノの方じゃない。私の方だ。誰も大きな図体のバケモノに目線を配ることさえしていない。何故か息を切らして何故か必死に走っている私のことを訝しげに見てきている。

 待ち合わせに遅れて急いでいるのかな、なんて平和的なことを言っているカップルさえいる。呑気な表情は、やはり見えていないよう。ただバケモノが走ることで生じる風は感じているようで「キャア!」と舞い上がるスカートを押さえている。


 集団心理とは恐ろしいもので、あまりにもこんな反応ばかりだと不思議と、あれ気のせいだったのかな、と確かにこの目で見たはずなのに、自信がなくなってくる。私は足を緩めつつ、後ろへ少し視線が届くぐらいに振り返った。

 百メートル程の位置に巨大な気持ちの悪いバケモノがいることをすぐさま認識する。またも恐怖で震え、足を元の速度に戻した。

 いやもっと早くしなきゃ。更にジタバタと動かす。同時に脳裏に言葉が駆け巡る。


 なんで? なんで誰も気づいていないの? なんで私だけ追われるの?


 酸欠になりつつある脳はパニック状態だった。私は神様を激怒させるようなことをしたのかな、そんな突拍子もないことを考え、記憶を呼び起こしそうになる。


 ダメ。すぐに消して、逃げることに集中する。


 ビュウンッ


 耳をつんざくような甲高い声と野太い声が混在した。


 バケモノは突然足を止め、空に顔を向けた。軋むように首元から上を回すように曲げている。潰れそうな呻き声を苦しそうに出している。


 チャンスだっ。


 私はすぐそばにあった角を曲がる。とにかくバケモノの視野から私の姿を消したい。そうすれば、逃げられる可能性は高くなるはずだ。


 私は方向を変えると、左に小さな公園があるのが見えた。曲がって数十メートルもしないところで、真横にはまだ新しめの8階建てマンションがある。入口に繋がるように踏み石が設計されているから、恐らくここが所有してるのだろう。パンダのシーソーにキリンの滑り台、猿の鉄棒にゴリラのジャングルジム、そして何より小さなトイレがあった。


 あそこに隠れればやり過ごせるかもしれない……


 閃くまま、私は駆け込む。入り口から最も遠い、三つ目の個室に入り、スライド式の鍵をはめ込む。タイル壁含め四方のついたては幸いにも天井とくっついている。閉所恐怖症というわけではないけれど、あまり得意ではない。けど、今はこの密閉されきった空間が心地いい。心が落ち着き始めて、息を整える。


 ミシリミシリ。


 耳が微かな音を拾った。敏感になっている。踏みつけられた草が地面で擦られる音さえはっきり聞こえる。思わず息を潜め、聞き耳をたてる。右耳のほうが聞こえると思ったら左のほうへ。また、右へ。何かを探しているみたい。ということは、さっきのアレ?


 次第に草が踏まれる音から潰される音へと変わり、大きくなっていく。距離が縮まっている、そうすぐに理解した。


 不意に音が止む。直前の音を聞く限り、すぐ近くだ。もしかしたらこのタイルの壁を挟んだ向こうにいるかもしれない。緊張で息を止める。というより、止まっていた。バレたかもしれない。勘付いたかもしれない。気づかれたかもしれない。襲われるかもしれない……


 不安と懸念が頭を駆け巡り、酸欠寸前になった時、動き出した。静かに草を踏んでいく。段々小さくなっていっているということは、遠ざかっているはず。よかった……


 安心した途端、足から力が逃げ、便器にへなへなと座り込む。少し痙攣している。よっぽど限界だったんだな。まだ出る気にはなれない。このまま少し待っていよう……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る