【一章】出会い

雨が降り始めた

雨宿り①


 ディータ・アッカーソンはこの日、自分の迂闊さを繰り返し嘆きながら森の中を走っていた。大粒の雨のせいで全身はすっかり濡れそぼり、頬を切り裂くのではと思う程に風は鋭利で冷たい。

 今朝は良い天気だったくせに! と、雨雲に向かって叫ぶ。ぽかぽかと暖かい陽光の下で、緑豊かな自然のスケッチに半日以上没頭してしまった。

 一時間でも早く切り上げていれば、こんな目に遭うこともなかっただろうに。


「うわわ、うわ! 冷たっ、寒い!!」 


 旅行鞄を両手で抱えて、ディータは森の中を駆ける。山を下りて街に戻るのはとっくに諦めた。分厚い雨雲は太陽の姿を覆い隠し、まだ昼過ぎだと言うのに辺りは妙に薄暗い。

 視界は悪く、場所によっては土砂崩れとかもあるかもしれない。体力にはそれなりに自信はあるものの、悪天候時の山は恐ろしいと聞く。これ以上は、下手に動かない方が良いだろう。


 ……でも、


「うう、出来れば画材だけでも濡れるのを阻止したい……」


 中古で買ったトランクを雨から庇うように、両手でギュッと抱き締める。一応可能な限りの防水加工は施してあるが、この雨が相手ではどれだけもってくれるかわからない。

 服とか靴は、乾かせば良いけれど。画材だけは駄目だ。濡れたら全て使えなくなってしまう。貧しい暮らしの中で、苦労しながらも何とか貯金してやっと買い揃えたというのに!


「どこか、どこか雨宿り出来る場所……うん?」


 出来るだけ雨を凌ぐべく、背が高く枝葉が生い茂る木を探す。だが、不意に見えてきた『それ』がディータの足を止めさせた。

 森が急に終わりを告げて、不自然に開けた場所へと辿り着く。すると、そこにあった思いもよらぬ景色が彼の視界へと飛び込んできた。


 ――それは、山奥の森の中にあるには不自然な人工物であった。 


「わー、すっげぇ……なんか、雰囲気のある屋敷だな。金持ちの別荘、かな」


 ひっそりと、しかし重厚な雰囲気を纏って。その屋敷は、雨が降る森の中で静かに佇んでいた。黒っぽいレンガ作りに、三角の屋根。一部だけ三階がある、二階建て。庭は丁寧に手入れされており、花壇には控えめながらも綺麗な花が咲いている。

 誰か、住んでいるのだろうか。藁にも縋る思いで、ディータは屋敷へと急いだ。屋根付きの玄関に駆け込み、ようやく雨から逃れる。

 雨も追いかけてくるかのように勢いを増し始めるも、彼が居る屋根の下までは流石に手が届かないよう。


「た、助かったぁ……」


 トランクをシャツの袖で拭い、少しでも雨粒を払う。恐らく画材は無事だ。ディータはほっと胸を撫で下ろしつつ、目の前に立ち塞がる扉を見つめる。屋敷の雰囲気に相応しい、重々しい両開きの扉だ。小窓などは付いておらず、中の様子を窺うことは出来ない。

 ここから見える窓もカーテンが閉められている。人気ひとけが無いようだが、庭の様子から見ても無人だとは考え難い。


「ここで雨が上がるまで待つにしても……許可は取っておいた方が良いよな」


 恐る恐る、ガーゴイルを象ったドアノッカーで扉を打つ。反応は無い。いかつい怪物に噛み付かれるのではとびくびくしつつ、もう一度、今度はもっと強めに打ってみる。


「……うーん?」


 やはり、反応は何も無かった。使用人が出てくることも、返事が返ってくることもない。

 もしかして、本当に無人なのだろうか。ディータは思い切って、扉の取っ手に手を伸ばしてみる。


「あ、開いてる……」


 重そうな扉に、鍵は掛かっていなかった。きい、と小さく鳴きながら、扉は意外にもすんなりとディータを中へと招く。いや、さすがにこれはマズイ。

 生まれてこの方、富裕層という人種と交流したことなど一度もない。ただでさえ古着と中古で出来上がった身なりな上、今は雨と泥で汚れてしまっている。とてもじゃないが、こんな立派な屋敷に踏み込む装いではない。


 ……それでも。こんな山奥に存在する、古めかしくも不思議な雰囲気を持つ屋敷には一体何があるのだろうか。心の底から込み上げてくる好奇心を、ディータはどうしても押さえ付けることが出来なかった。


「……お、お邪魔しま……す……」


 出来るだけ音を立てないようにして、ディータは屋敷の中へと入る。もしも無人だったならば、雨が止むまで雨宿りをさせて貰おう。

 誰かが住んでいるのならば、全力で謝るしかない。


「おー……すっげぇ。絢爛豪華って感じではないけど、なんか雰囲気ある」


 思わず、ディータは感嘆の声を上げた。いままで金持ちという生き物は、高そうなツボやら像やらを買い漁っては並べて自慢したい習性があるのかと思っていたが。この屋敷の主はどうやら違うようだ。

 内装は主に黒と紅の二色。華美な装飾や美術品は見当たらないものの、所々に置いてあるアンティーク調のランプにシックな調度品。その全てが洗練されていながらも退廃的で、ある種の品性を感じられる。


「へえ……」


 これは、かなりセンスが良い。芸術家の端くれとして、ディータは既にこの屋敷の主に好感を持ってしまっていた。しかも毛の長い絨毯や窓、床や階段の手摺など。どこを見ても埃一つ無くピカピカに磨き上げられている。


 ……いやいやいや、ちょっと待て。


「こんなに綺麗に掃除されているってことは……」


 もしかして。ディータが想像していた中で一番理想的でありながら、現実味が無い可能性が消える。

 マズい、と思った時にはもう遅かった。


「――どちら様ですか?」

「ッ!?」


 

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