シーズン5 【 スイートテン 】前編*結婚十年、パパにチャンス到来!


 港が見える城下町。ほどほど事足りる日常をなにごともなく過ごしていける地方都市。東京本社を筆頭に全国を地区分けした地域顧客の声が僕のところに集まってくる日々。


「美佳子。働いてみる気とかある?」


 妻、美佳子に唐突に問いかける僕。夕食の善を整えていた彼女がきょとんと僕を見上げていた。

「なにいってるの。梨佳がだいぶ手から離れたから仕事に出ようと思っても、もう私の年齢で雇うところなかなかないって言っているのに」

 短期のパートには出て行くが、確かになかなか長く続けられる仕事には巡り会えずにいる妻。

 いつまでも末端のコンサル室から異動命令も出ずに係長のままの僕。出世コースに乗らなかった僕の月給だけが支える家計は、正直なところそんなに余裕はない。娘の梨佳は小学生になり、今までの習い事に合わせて学習塾へ通わせることを妻と話し合うようになっていた。

 今すぐでなくとも、これから高学年中学生となるにつれ教育費の負担は大きくなる。それを見越しての妻の再就職を検討中だった。しかしこれがなかなか……。三十歳を越えて結婚した僕たちはまだ娘が十歳といえども既に四十代を迎えていたので、美佳子はその年齢条件と常に戦っている。

「それが。今度、うちの支部本部で新規事業専用のコルセン(コールセンター)を設立することになったんだ」

「本部で? 法人コンサルじゃなくて?」

「うん。まったく新事業。昨今の企業のエコ対策としてうちもリサイクル業務に乗り出しだんだよ。商品の回収受付を始めるんだ。だからロジスティック経由のコルセンになるみたいだ。それで急遽、女性オペレーターを募集しているんだけれど、なかなか人数が集まらないらしいんだ。それで退職した経験者にもパートで復帰しないかというほど、本部で手当たり次第に探しているみたいで。今日、課長から『美佳子さんにも是非というその話があがっているけど、どうだろう』と持ちかけられてね」

「ほんとうにー!」

 その職に就くにあたっての条件も良く、それを耳にすると美佳子が嬉しそうに飛び上がった。それでも『だけど』と彼女が首を傾げる。

「でもそんな主婦にとって良い条件の仕事なら、募集をかけたらたくさん来るでしょう。オペレーターの求職はよく見かけるようになったけど、受付サービス業だけにシフトが不規則で合わなかったり、少人数で締め切られたり、年齢で振り落とされたり。経験者の私でも何度も落とされているのに」

 こんないい話が転がり込んできただけに、美佳子は訝しそうに眉をひそめた。そして僕はその問いに苦笑いをこぼす。

「それが。このコール受付業務の開設準備で、オペレーター研修を始めて2ヶ月ほどになるんだけど、ロジスティックシステムを含んだパソコン操作をしながらの電話応対がなかなか身に付かなくて、研修時点で辞めるパートさんが絶えないんだってさ」

「え、そうなのっ」

「うん。中年女性は覚えきれずに辞めて、若い子は面倒くさがって辞めての繰り返しで、募集人数を達しても研修クリアができないんだってさ」

「ああ、それで。辞めた経験者をあたっているわけ」

「そういうこと。どうする? その代わりこのコルセン業務は夜間受付も計画されていて、週に一度だけ二十時まで受け付けのローテンションになってしまうみたいなんだ。そこは僕がなんとか早く帰って梨佳のめんどうみるから」

 そうすれば、たとえ妻がパートでも共働きが出来るだろうと思って、僕も腹をくくった。

 そこまでの夫の提案に、妻の返事も決まっていた。

「ありがとう、徹平君。うん、やるだけやってみる」

 僕たちは微笑みあう。翌日、夫の僕から課長に返事をし、妻が元職場での復帰を果たすことになった。



 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 美佳子のコールセンターは、本部なので街中にある。近くの電鉄を使っての通勤。

 初日。緊張している美佳子を僕は駅まで車で送ってあげた。

「大丈夫だよ。同じ会社の仕事に戻るだけなんだから」

「うん。そうだね」

「嫌だったら昼で帰ってきなよ。僕は迎えに行けないから、一人で帰ってこられるよな?」

 ちょっとひねくれた僕の激励に、美佳子がぷっと膨れ面に。

「そんな研修辞めが続出する中声をかけてもらったのに。第一日で辞めるだなんて夫に恥をかかせるようなことしません。以上に、経験者のプライドが許せないわよ」

 その意気その意気と僕も茶化して、彼女を見送った。

 そして僕の車は市街郊外にある支局へ。もう二十年にもなってしまいそうな異動せぬ職場へと向かう。


「係長~、お願いします~」

 毎日のこと。やりきれぬ顧客の要求に疲労困憊敗退してきた女の子に呼ばれ、データー入力をしていた僕が立ち上がる。

 女の子の席、ヘッドホンを頭に着け交代。

「お電話代わりました。佐川と申します。本日のご用件についてですが……」

 淡々とこなしていく業務も立場も居る場所も延々と変わらず、僕は平凡な日々を生きている。可もなく不可もなく。そして前にも後ろにも行くことなく。それでもここに必死にしがみついて生きていくしかない毎日。

 それでも僕は満足していた。家族がいたから。これまでなんとなくやってこられたから。これから、なにか苦難があるかもしれない。娘の進学のことを考えれば、僕に娘の行く道を万全にサポートしてやることが出来るのか、力有る父親になれるのだろうかと不安になったりする。それでもこの日をこの場所で何も変えずに生きていくことだけを保持して――。

「てっちゃんてある意味、器用貧乏って言うのかな」

 田窪さんが休憩時間にカップコーヒー片手に呟いた。

「は?」

「コンサル室の器用貧乏。だってもううちのコンサルから佐川君がいなくなるなんてことになったら、この支局、発狂しちゃうんじゃないの?」

「まさか。課長もいるし」

「佐川君に任せっきりだし」

「主任も育っているし!」

 さらに五年経ち、やっぱり僕の周りだけが変化している。なんとあの田窪さんが、主任になっていた。今や僕を補佐してくれるパートナーと言っても良い。

「ヤダよ。佐川君が守ってくれるから主任が出来ていると言っても過言じゃないしね」

「そんなことないって。僕が休みたい時、田窪主任がいるから安心して休めるようになったじゃない。おかげさまで前は使えなかった有給休暇を使って家族旅行が出来た!」

「最大三日までね。三日経つと『佐川君、早く出勤してきて』て泣きたくなるもん。課長も落ちつきないしね」

 『そうなんだ』。自分が不在の時の様子を改めて知ったりする。

「女の子達も言っているよ。佐川係長が出世しないのは、この支局が手放さないからだってさー」

「別に良いけど、それでも」

「オバサンから一言」

 田窪さんの顔が、僕に向かってしかめ面になる。

「てっちゃんも、ちょっとのんびりしているかな。他の貪欲な男の子達みたいに『本部に行きたい』とか『そろそろ課長になりたい』とかないの?」

 僕は黙り込む。

「ないわけじゃないけど」

「知らないかもしれないけど。てっちゃん、ローカル地区の顧客を扱わせたら右に出る者いないて言われているみたいだよ。高齢ユーザー担当、わかりやすく丁寧に親切ケアを辛抱強く出来る男ってね」

 はあー、相変わらずどこでそんな情報を得てくるのか。女の情報網をがっちり握っている田窪さんに僕は数年ぶりに感心。

「主任になって本部にもミーティングとか研修とか行くじゃない。その時に、あっちの本部営業部に結城君がいたもんでね。懐かしくて話していたら彼がそういっていたから」

 僕は久しぶりにドキリとした。結城という男性は美佳子と噂になったことがある『本部に出世した先輩』だったから。だけど、今となってはそれだけ。もう僕たちは結婚十年目を迎えた夫妻、ひとつになれたと確かめ合ったことがある夫妻だ。

「結城君が言っていたんだよね。本部の法人専用コンサルに佐川君みたいな男がいると、営業も動きやすいって。あっちのコンサル、ベテラン課長が定年退職した後、人材不足みたいでミスの連発なんだってさあ」

「ふうん、知らなかった」

 周りを気にしない僕の呑気さに、田窪さんがため息をついた。

「そこがてっちゃんの良い所なんだけどね。本部では男もポジション争いでカリカリしているらしいよ。奥さんに八つ当たりして離婚した男もいるとかいないとか」

 いろいろな話、ほんと良く知っているよねーと、僕は感嘆するばかり。

「でも私もいいや。お願い、てっちゃん。このままここにいてね!」

「なんだ、そりゃ」

 最後は僕を拝み倒した田窪さんに呆れ、でも二人で笑い合った。

 僕がいる支局のコンサル室は今日も平和だった。お客のクレームは厳しくても……。

「美佳子ちゃんも復帰したし。夫妻二人で少しずつでも力を合わせればなんとかなるもんよ。それでいいわよ、そちらのご家庭は」

 うん。それでいいです――。本当にそれでいいのかどうかはわからないが、『最低限、そうであれたらいいなあ』と僕も思っている。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 朝が慌ただしくなった。

「梨佳、早く食べて!! もうママ行くからね。パパ、戸締まりよろしくね!」

 家の主婦が勤めに出ると、朝がこんなに忙しいだなんて知らなかった。

 夫の僕も自分でやれることは自分で。娘も同じく。そしてパパも娘を手伝う。

「パパ、ママにこれ渡すの忘れちゃった」

「まじかよ。どれ」

「今日中に書いて出さなくちゃいけないの」

「わかった、わかった。パパが書く」

 出し忘れたという申し込みプリントを見て、父親の僕が書く。

「ごめんね、パパ。遅刻、大丈夫?」

「大丈夫。パパは融通が利くの」

「係長だから?」

 『まあね』と呟きながらも時計を見て、僕も焦る。ワイシャツのボタンもあいたまま、ネクタイを首にぶら下げたまま。それで僕はプリントを書き込む。

「ね。パパ。ママ、お洒落になったよね」

 その通りで。街中に出勤、そして多少の小遣いが出来たことで、妻もすっかり元の洒落た女性に戻っていた。

「そうだね。でもママはパパと一緒にお勤めしていた時も、今みたいにお洒落で綺麗なお姉さんだったよ」

「それで好きになったんだ。パパ」

「あ、急げ、梨佳!」

 ますますませてきた娘への回答を避けるように僕は時計を指さす。

 娘と慌てて玄関を飛び出し、駐車場で互いの道へと別れた。

「は、しまった。ネクタイ」

 車に乗ってやっとネクタイを首にぶら下げたままだったことに気が付き、僕は慌てて結ぶ。

「まあ、すんなり復帰できたみたいで良かった……」

 研修期間も無事に終え、本部も試験的にロジスティックコール事業を開始。経験者の美佳子は皆のお手本だと課長から報告を受け、僕もほっとしていた。

 美佳子も生き生きしていた。十年前、片思いだった女性が久しぶりに僕の目の前に現れたようだった。


 


 


 泣いている。彼女が泣いていた。

 夕暮れのリビング。僕たちの食卓、テーブル。いつもの『ママの席』で。

 綺麗にスタイリングした長い黒髪の中に顔を隠し、ひたすら俯いて泣いていた。


 


 


「美佳子、どうしたんだ」

 夕の茜も薄くなり、夜の帳が迫る空が見える部屋。薄暗いままの中、食事の準備もせずに、美佳子がひとりでポツンと座って下を向いたまま。すすり泣いている。

「梨佳は」

「エレクトーン」

「そっか。それで美佳子は……」

 尋ねても、彼女はなにも答えなかった。

 じゃあ。後で聞くとして今はそっとしておくしかないかな。僕だって今までの日常では見られなかった妻の落胆を目にしてしまったら『なにがあったのか』と心が騒ぐ。それでもここで無理に問いつめてもと思い、ひとまず着替えようと背を向けたのだが。

「……てもいい? 徹平君」

 涙声でなにかを聞かれ、僕は振り返る。

「なに、美佳子」

「ごめん、パパ。もう仕事、辞めてもいいかな」

 驚き、僕は目を見開いた。

「どうした。なにかあったのか」

 研修が終わり、順調なオペレーター業務へと復帰していた。周りから聞こえてくる妻の評判も上々で夫として鼻が高かった。なによりも、美佳子がとても充実した日を送って生き生きしていたのに。

「もうだめなの。ほんとうにごめんね。駄目な妻で……」

 そんな。ここで辞めてしまったらせっかくの就職だったのに無駄にしてしまうことになる。だから何があったか判らず納得できない僕も『いいよ』とは言えなかった。

「なにがあったんだ。それを教えてくれないと」

「ごめん。私が駄目なの。本当に駄目な女なの……!」

 『それでは僕だって納得できないよ』、『本当に駄目なの。許して』。

 その繰り返しだった。埒が明かず僕はこれが最後と決めて聞いてみる。

「美佳子。そんなに頑張れなくなったのかよ」

「頑張れない」

 もう一度聞く。

「甘えた主婦だと言われても良いのか」

 きっと美佳子が一番言われたくないことだと思う。それを後ろ指さされてこれから言われる。その屈辱を、レッテルを自ら貼るぐらいなら、もしかしたら……と僕は最後の期待を込める。

「美佳子。本当にいいんだな」

「いい。それでもいい」

 驚いた。説得の余地もないほど、美佳子はきっぱりと返してきた。

 夫として思う。彼女がそう間髪入れずに切り返してきたならもう駄目だと。

 主婦になって弱くなったのか、それとも甘い主婦というレッテルを貼られる以上に嫌なことがあったのか判らない。

 だが僕が惚れた美佳子はこんな女じゃなかったと信じたい。あの時、会社で悪女のように仕立てられた時だって言い訳もせず喧嘩の土俵にもあがらず、ぐっと我慢して耐えていた女性だ。その彼女が頑張れないとここまで追いつめられて泣いているのだから。

「いいよ。無理しなくても。辞めな」

 僕がすんなり許した途端、美佳子はテーブルに突っ伏して泣きに泣き崩れ、わんわんと泣いた。その泣いている間、妻は僕に何度も詫びていた『駄目な妻でごめんなさい、ごめんなさい』と何度も。

 あの時がフラッシュバックする。疫病神だとわんわん泣いた新婚時代の妻。


 若干三ヶ月。妻の再就職は儚く散った。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 青天の霹靂だった。


「本部法人コンサルの課長候補になっているとのことだ。勿論、内示が来たら引き受けてくれるよな」


 長年、僕を育ててくれた課長にミーティング室にわざわざ呼ばれ、向き合ってすぐに告げられたことはそれだった。

 女性達がインコール業務を懸命にこなしている勤務時間。午前の集中している時間帯。誰もが通路も通らず、ミーティング室にも近づかない静かな時だった。

 とても天気が良い日で、このミーティング室から見える故郷の山々が少しだけ山頂に雪をかぶっていて綺麗に際だっている。そんな穏やかな小春日和の陽射しが僕と課長を窓辺で包み込んでいる。シンとした静まりかえった空気の中、僕はただ恩師でもある課長を見ることしかできなかった。

「いえ、僕など……」

「法人担当のコンサル室の課長だぞ。コンサルティングを勤めてきた男にはエースの部署じゃないか」

「でも、僕は」

「なかなかないチャンスだと思う。これを逃すと俺みたいに支局の万年課長で終わるぞ」

 ふっと課長が苦く笑う。

 僕としては考えられないことだった。

「僕は、この支局以外出たことがない世間知らずな男です」

「そうかな。本部ではここは佐川しか任せられないと思っての長年の配属だったようだけどな」

 田窪さんが言っていたとおりだと思った。適任ということでなかなか異動が出来なかったのだと。

「しかし支局ながら、投げ出しもせず、あれだけの女性達をまとめあげ、トラブルも乗り越え、パートだった女性を主任にまで育てただろ。そういう地道で、大きなトラブルも損害も出さずにやってきたことは評価されていたんだよ。俺も鼻が高いもんだ」

 でも。そんな僕を育て上げたのもこの男性。それなら課長がもっと条件が良い部署へと出世すればいいじゃないかと思うのだが。そんな僕の無言の視線を年配者である課長に読みとられてしまう。

「俺は駄目だよ。本部の法人なんて……。そりゃ本部に転属になるのは栄転ではあるけどな。器じゃないと自分で判っているし、」

 そして課長は致し方ないように僕に笑った。『もう歳だから』と。そこは清々しく。ありのままの自分を飲み込むことが出来た男の達観した笑みのように思えた。

「徹平はまだ若いだろ。それに梨佳ちゃんにもこれから金がかかるだろうし。それに美佳子ちゃんもなあ……」

 課長が口ごもる。まるで『働けない妻』だと言いたげに。

 美佳子が自ら選んだ道だった。『弱い妻と言われても良い。それでももう辞めたい』と言ってたった三ヶ月で辞めたことは、この支局にも知れ渡っていた。美佳子のことをよく知らない者達は『やっぱりブランクが大きかったんだ』と囁き、力を抜ききった主婦のやる気の無さを密かに非難していることを僕も肌で感じていた。

 だがそれは妻のことで。僕のことには誰もなにも言わなかった。知っている田窪さんなどは『しようがないね』としか言わず、美佳子が事情を話さないことにも『またなにかあったのかも。言うまでそっとしておこう』などと話し合っていた。

「その節は、せっかくのお話を頂いておきながら、本当に申し訳ありませんでした」

 美佳子が辞めた後すぐに、僕は課長に同じように頭を下げていた。そして今日も。だが課長が前回とは違う返答をした。

「仕方なかったかもな。あの沖田が本部の営業にいたんだから」

 え……?

 僕は課長を見つめ返す。彼がすぐさま目を逸らした。

「知っていて。美佳子を本部のコルセンへと望まれたのですか」

「せっかくのチャンスだったし。美佳子ちゃんの再就職には好条件だったから、良かれと思って黙っていた。二人に色々あったのは昔の話だし何もなければ、そのままでいけると思った」

 身体の中の血管がぐわっと開き、僕の中の血液が煮えたぎったのが判った。課長に対しての怒りじゃない。その男の名を聞いて想像できたことに一瞬で怒りに火がついたのだ。

「そのお気遣いは感謝致します。確かに昔のこと。大人になったのですからそれを水に流して今ある業務に邁進すべきでしょう。ですが美佳子はそれが出来なかった……。それは何故か。美佳子が辞めた時、どうして僕に沖田君が同じオフィスにいたことを教えてくださらなかったのですか」

 何があったのですか! 叫びたいが、僕は課長にそんなことをしたくなかったからぐっと堪えた。

 だが、課長も長年の付き合い。僕の夫としての気持ちを汲んでくれる。

「沖田にあらぬ噂を流されていたようだよ」

「……どのような」

「この支局では『なかった』と言い張っていたことを、今度は『あったんだ』と言っているようだ……」

 気遣って遠回しに課長は言ってくれたが、僕にはすぐになんのことか判った。

 こんなこと。気心知れた田窪さんならともかく――。こんな、恩師の課長とも話さなくてはならないだなんて。

「他にご存じですか」

「いや。二人が昔は深い仲だったという噂が流れたとしか。だがそうなったらどうなるかは、『女の園』を見てきた俺も徹平もすぐにわかるよな?」

 判る、判りすぎるほど判る。女特有の非難や妬みがそれをキッカケに美佳子を真ん中にして吹き荒れる様が目に浮かぶ。

 僕の拳が真っ赤になる。握りすぎて燃えているようだった。ここに沖田がいたら、今度は僕が殴りかかっていたかも知れない。

「美佳ちゃん、今度は必死に反論したようだよ。だけどそれが逆効果で噂に火を注いでしまったようなんだ。黙ってやりすごすことも彼女なら出来ただろうけど。やっぱり徹平に迷惑をかけたくなくて今度はなりふりかまわず必死だったんじゃないかな。それが余計に本当のことと思わせてしまったみたいだ。今度は味方なし。一人では戦うには三ヶ月が限度だったんだろうね」

「どうして……僕に……」

「すまん」

 でも僕は課長を責めることは出来なかった。美佳子が黙っている以上、課長の一存で夫の僕に沖田が関わっていることを知らせて、夫妻でいざこざしたら……と案じてとりあえず黙って様子を見てくれていただけのことなのだと判ったから。

「すみません。動転して」

「いや。こっちも黙っていて」

 僕と課長は互いに項垂れて、暫く黙っていた。

「だから、このチャンスを受けて欲しいんだ。徹平。本部には沖田がいてまたなにかあるかも知れないが、そこ踏ん張って頑張ってみないか」

「考えさせてください」

 課長は分かったと頷いてくれた。


 


 僕が本部コンサル室の課長候補。今までこんな大幅な昇進など考えたこともなかった。

 だが課長が案じているように将来の不安もある。

 本当ならばこんなにいい話はないはずなのに。


 僕の心は少しも弾まなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る