シーズン4 【 木婚式 】 後編 *コルセンは魔女を生む
さて、どうしようか。僕の気持ちは鬱々としていた。
困っていた青年の為に、落合さんに『僕の妻を非難していたけど、君も同じ事をしている』と言うべきか言わぬべきか。
いや、答は決まっていた。『こんな職場で言うことじゃないだろう』と。美佳子が必死に口を閉ざし、用意された土俵にあがるまいと耐えていたように。
それでもそろそろ約束の一週間。彼に断るとしても、なにかしら彼にとって安心できるような代替え案ぐらいは考えておきたいところ。しかしなんにも思い浮かばない……。
「もっとしっかりやってよね!」
専用デスクで唸っていると、一室に響き渡る誰かの声に僕は我に返る。すぐさま立ち上がり、パーテーションで区切られているコールデスク群を見渡した。
ずっと向こう。落合さんの怒った顔が見えた。近頃、機嫌が悪いと女の子達が囁いていただけに、ああついに爆発したかと僕は額を抱える。
彼女が誰に対してぶち切れているのか。駆けつけてみて、僕の足が一瞬止まる。落合さんが怒鳴って睨んでいるのは、あの愛ちゃん。あまりにも分かりやすい構図に、逆に予想外な展開を突きつけられてる気分に。
「どうしたんだ。なにがあったんだよ」
ひとまず現場監督である僕が尋ねると、周りの女の子達がとても困った顔をしている。そんな中、立ちはだかっている落合さんがいつもの気強さで言い放った。
「彼女が応対したお客様から電話があって、高原さんに頼んだのにちっとも連絡がないということで、逆に私が散々怒鳴られたんですよ。ものすごく、ひたすら怒鳴られて謝ったんですよ」
彼女がいちいち愛ちゃんに突っかかるその心理状態など、このコンサル室の誰もが知るところ。小さなことを大袈裟にして騒いで、自分が定めた相手がどれだけ悪いかを主張して自分の正義を訴える――。今の彼女はそんな人と誰もが思っている。僕だって……。
しかしそんな係長の心情を敏感に察したのか、彼女から先手を打ってきた。
「だって係長、みてくださいよこれ!」
なんの躊躇いもなく、落合さんは愛ちゃんのデスクへと飛びつき、マウスを操作。愛ちゃんデスクのモニターに件の顧客ファイルを開いて見せた。
念のため、僕も眺める。そのファイルの片隅にあるフリーメモ欄。そこに確かに確かに、落合さんが言ったとおり、愛ちゃんの落ち度となる応対メモが残されていた。
僕は俯いて立っている愛ちゃんを見下ろした。
「高原さん、これには連絡するはずの日付が残されているけど」
「はい、その……」
明らかに愛ちゃんの落ち度だった。これもまあ、あってはいけないが、沢山の顧客を相手にしていると誰でも一度や二度はやってしまうミス、『約束忘れ』。約束してから数日が経ってしまうため、きちんと本人が覚えておくか、自分で自信がないなら上司に報告して管理してもらうかをしないと今回のようにすっぽり忘れてしまうこともままあること。愛ちゃんほどの手際をみせるようになると、彼女がカレンダーにメモをして応対するようになる。……はずだったのだが、愛ちゃんも今回はすっかり忘れてしまっていたようだった。
「高原さんと約束した時間から二時間も待っていたそうですよ。身動きも出来ず、無駄な時間を過ごしたと大変ご立腹で。私が延々と愚痴とか説教を二十分ほど、聞かされたんだから」
「それで。そのお客様は納得してくれたのか」
哀しい性で。僕の咄嗟の心配はそこに向かう。現場のいざこざよりもお客様。いちオペレーターで収まらなければ、監督の僕か室長の課長が直にお詫びの連絡をしなくてはならないから。
「納得して頂けました。その代わり、明日のこの時間に私でも高原さんでもなく『上の人から連絡をして欲しい』とのことです。今日はもう用事があってでかけるからじっくり話せないそうです」
落合さんが差し出したメモを、『わかった。僕が連絡する』と受け取った。
「あの、係長。申し訳ありませんでした」
神妙に深々と頭を下げて詫びる愛ちゃん。
「迂闊だったね。以後気を付けて」
彼女達が失敗した時、いつも呟く一言。それも『僕は怒っている、失望している』と渋い顔を見せて。彼女達に小さなことでも反省してもらうために、そうしている。そこで反省してくれたならそれでいい。
それにしても。最後の最後、愛ちゃんでも気が緩んでしまっていたのだろうか。珍しいことだった。
さて。もういいだろう? 明日、この顧客とどのように対話するか考えておかねばとメモ片手に僕のデスクに戻ろうとすると、周りの女の子達がホッとした笑顔を揃えていた。僕がそれで済ませたからだろう。というか、いつもこうして済ませている。余程のことでなければ。
「あーあ、やっぱり係長は高原さんに甘いんですね」
事は収まり張りつめていた空気も穏やかに緩んだというのに。また女の子達の顔が一気に凍り付いたのを僕は見た。
「なにが以後気をつけて、ですか。高原さんに以後なんてないじゃないですか。結婚退職するんだから。もう適当でもいい気分になっているんですよ。だから係長も甘く見過ごして」
僕は振り返り、彼女を見据えた。
「僕はいつもと同じだけれど」
「そうですか? どうせ辞める人だから怒らなくてもいいとか思っているんでしょ」
というか。僕が彼女達に怒鳴って叱りつけたことなど一度もない。なのに『そこが係長のいけないところなんだと』言いたげな落合さんの目が鋭く向かってくる。
「係長が甘いから、彼女も気が緩んだんですよ。私は高原さんのミスで二十分もタイムロスしたんですよ」
「お互い様じゃないか。落合さんのミスを他のコンサルオペレーターの誰かがフォローしてくれていることだってあるんだから」
「それでも『すっぽかし』は大きなミスじゃないですか!」
意地でも絡む彼女の真意はなんなのか。僕が皆の目の前で『なんてことをしてくれたんだ』と愛ちゃんに叱責することなのか。
あまりにも子供染みた願望。幼稚過ぎるからこちらでどう応対してもどうにもならず、こちらが譲るまでは事が収まらないような気迫を感じる。
僕はいつかの妻の言葉を思い出していた。『年下と喧嘩したら、年上はどうしたらいいと思う?』。これは年齢のことじゃない『幼稚な人と喧嘩したらどうしたらいいと思う?』だ。ここで僕が噛みついたら彼女は『大人げない』とか『愛ちゃんを贔屓した』とか、今度はそこをポイントに攻めてきそうだ。むしろそれが目的か。僕の揚げ足をとる為に『はやく怒ってよ』と誘い出しているような気もする。
こんな幼稚な罠にはまるわけないだろ!
「インコールに戻って」
いつまでもこちらを睨んでいる落合さんに、僕は平然とした顔で告げる。
愛ちゃんはもう気を取り直してヘッドホンを装着、コールを受けられるようマウスを手にした。
「どうしても。私の言い分なんて、信じてもらえないんですね」
気強い彼女の小さな呟き。席に戻ろうとした僕は立ち止まり、そして愛ちゃんはヘッドホンをしたまま、まだそこにいる落合さんを見上げた。
あの気強い彼女が今にも泣きそうな顔で震えていた。
「係長は知らないかもしれないけど。高原さんの結婚相手、元々彼女がいたのに高原さんのためにその彼女と別れたと知っていますか。その女性、本部にいる高原さんの友人なんですよ。私、本部に知り合いが多いから知っているんです。高原さん友人から盗ってしまったんですよ」
僕は目を見開き、つい……愛ちゃんを見てしまった。
それどころか、彼女の周りの女の子達も一気に愛ちゃんを見た。今度は愛ちゃんが震えるように首を振る。何か言いたげで、でも、言えず呆然としている。つまり『図星』ということらしい。
僕も驚いた。素直で清純そうな彼女がそんなこと出来るはずないと。
「だから係長の奥さんと高原さんは気が合うんでしょうね。男受けする女だから、悪気ないふりをして平気で男を盗って、『わたしのせいじゃない。男が選んでくれたんだ』て顔を当たり前のようにしているの」
美佳子のことが取り出され、敏感になっていた僕はつい硬直してしまった。だが次から次へと憚る話題を落合さんがぶちまける。愛ちゃんだけじゃない、僕も言い返せないほどの放心状態に追い込まれる。
「そんな女に係長はすごく甘い。だから高原さんのことも甘く流して許して、まるで私が悪者みたいに。そんな美佳子さんと高原さんが係長には可愛い女に見えるんですよね。だから気をよくして……」
追撃止まらぬ彼女がついに。僕が一番聞きたくないことを言い放つ――。
「だから係長は美佳子さんがどんなえげつない女か知らずに騙されて結婚しちゃったのよ!」
僕がいちばん気にしていることを。
あの時、なにもかも追いつめられていた美佳子だったからこそ。
僕を逃げ道として選んだんだという……。
目の前が、僕の目が、コンサル室の何もかも。ありとあらゆる色合いがぶっ飛んで真っ白になる。
「係長と美佳子さんが結婚してから、私は毎日散々。美佳子さんは沖田に誘われたけどほどほどのおつきあいで留めて、最後には真面目で堅実な佐川さんを賢く選んだみたいに見てもらえて。沖田と美佳子さんは『寝ていない』と言い張っていたけど、そんなの当人同士しかわからないじゃない。私の勘は『沖田は美佳子さんを欲しがっていた。だから寝た』だったの! その真実を訴えたかったはずの私の方があれからずっと悪者よ!」
「もうやめて!」
真っ白になったはずだが。愛ちゃんがヘッドホンをデスクにバンっと叩き付けた音で、僕の意識はハッとコンサル室に戻った。
「謝って!!」
いつもにこにこ可愛らしいだけだった愛ちゃんがもの凄い怒った顔で落合さんに向かっていた。
「私のことはどう言ってもいいけど。係長のことは関係ないじゃない!」
「関係なくないわよ! 係長夫妻から可愛がられて、お祝いをもらっていたくせに! だから最後に気が緩んで迷惑かけても知らん顔。それで辞めていくっていい迷惑よ!」
「謝ってよ。係長に謝ってよ!! 美佳子さんにも謝って!! 貴女が恨んでいる事って、全部貴女が自分でしていることじゃない。人を平気で殴るような乱暴者を好きだったのは貴女でしょ、恋人の貴女を差し置いて美佳子さんにふらついて軽い気持ちで弄ぶような男を好きだったのも貴女でしょ! 沖田さんはそんな男だっただけじゃない。そんな男に騙されていたのに勘違いして怒り出したのも貴女が勝手にやったことだし、彼氏が係長を殴った後見切りを付けて別れたのも貴女じゃない。その程度の男だったんでしょ。なのに如何にも佐川さんと美佳子さんに人生を傷つけられたみたいに言わないでよ。自分の尺度だけでなんでもかんでも怒って人のせいばっかりで『私、幸せになれない』なんて、バカじゃないの!!」
トラブルに巻き込まれないよう何事もそつなくこなしてきただろう愛ちゃんからは、想像も出来ない剣幕。周りの女の子達も僕でさえも唖然とする。しかしここで負ける女、落合ではない。
「高原さんが謝ってよ! こっちは真っ当な仕事のことであんたに文句を言っているのに。それを素直に私に詫びないからこうなるんじゃない!」
「貴女に迷惑をかけたことは謝ります。でも、仕事とは関係ない職場の裏側を武器にして人を責めること、しかもいつも私達を一生懸命フォローしてくれる係長を傷つけることを言うのは許せない! 係長に謝って!!」
『傷つけないで』なんて。愛ちゃんの気持ちは嬉しいが、僕はここでも嫌な気持ちになった。この会社の誰もが僕のことを『恋に敗れた女が逃げ道に選んだ男。そのおかげで結婚できた男』と思っている証拠。だから『それに触れると気にする、傷つく』と思っていたんだと、なんとなく判っていたが僕がどのように見られていたかを再認識してしまう。
『ちょっと、二人とももうやめなよ』『そうよ』
愛ちゃんと落合さんが言い合う間に、周りの女の子達が割ってはいる。オペレーターの彼女達が席を離れて着信を放置するなんてあってはならないこと。そこらじゅうでピーピーと着信音が鳴り響く。
「もう、他の子は席に戻りなさい」
女の子達がもつれ合うなか、田窪さんが割って入ってきた。
「それに、落合さん。まず貴女が佐川君に謝りなさい」
一目置かれているコンサルのお母ちゃんに諭され、流石の落合さんも勢いを緩めた。
「ここで話すことではないでしょ。愛ちゃんとのことはともかく。佐川君と奥さんの結婚のことはなんにも関係ないでしょ。もしそう思っていても、ここでは絶対に口にすべきことではないわよ。謝りなさい!!」
放心状態の僕に代わってか。堪忍袋の緒が切れたかのようにして、田窪さんが猛烈に怒っていた。
しかしそんな中、スッと静かな声が流れ込んできた。
「落合さん、人のこといえないでしょ。貴女だって営業の崎坂君に浮かれまくっているじゃないの」
どこからともなくそんな女の子の声。またそこにいる誰もがその声へと振り向いた。
そこには同じコンサル室の、愛ちゃんと同期である女の子が立っていた。
いつも長い黒髪を綺麗にひとつにまとめている眼鏡の彼女が、冷たい目で落合さんを射抜く。
「私から崎坂君を盗らないでよね。彼と私つきあっているから」
『ええ、うっそ!』なんて声が響く。僕も仰天した。そうか、だから崎坂君は『彼女の写真なんかみせたくない=同じコンサル室に彼女がいるだんなて知れたら彼女が落合さんにいじめられる』と思って言えなかったのだと今になって理解。
でもまた、そこらじゅうで女の子達が湧いた。それでも眼鏡の彼女は表情を変えずに付け加えた。
「私も言わせて。落合さんも『あの頃の美佳子さんと同じ三十歳』ですよね。いい歳の大人の女性なんだからよーく考えてくださいよ。それに落合さんの元カレは、貴女と美佳子さんを『フタマタ』しようとした最低の男だけど、崎坂君は貴女に誘われてもそんな気はちっとも起きない男性だから、彼が浮気して貴女が良い思いが出来るチャンスなんてどこにもありませんから。だからもう、あんなバカみたいに頑張らないで諦めてください。彼は私の彼氏なの。貴女がいつか怒ったように『年上女のくせに本気にならないで』くださいね」
いつも目立たなくて淡々としている冷めたふうの彼女が言うと、とてつもなく鋭い言葉に聞こえた。
「知らない顔でやり過ごしていこうと思っていましたが、私ももう落合さんには我慢できません。落合さん、佐川係長に謝ってください」
騒いで言葉で殴りまくるのが落合さんなら、こちらは静かに言葉の刀を振り落しバッサリ切ってやったといったところ?
自分の正義の刀が、自分自身に返ってくる。三十の女は引っ込んでいろ。もう魅力なんてないんだから勘違いしていないで引っ込んでいろ。昔、誰かを刺した言葉が自分に跳ね返ってきた瞬間――。
ついに落合さんが『うわああん』と泣き出してしまった。それにも誰もがギョッとした顔を揃える。もうどこにも逃げ場がなくなった子供が泣き出したような光景。
周囲は、ピーピーと鳴り響く席ばかり。
泣きわめく三十女。呆然としているコールオペレーター達。放置されているコール音。あちらからもこちらからも、ピー、ピー、ピーと呼んでいる。
呆然としたままの僕は……。
目にとまったヘッドホンを無意識に取っていた。
目の前の着信が響くデスク。そこへぼうっとしたまま座り込む。
頭にヘッドホン。手にはマウス。カーソルは『着信』ボタンへ。すべて無意識、身体が覚えている動作。
「お電話、有り難うございます。コンサルティングサービスの佐川と申します。はい、はい……。かしこまりました。只今、お客様のご契約内容を確認させて頂きますのでお名前とお電話番号を……」
愛ちゃんの席で僕はインバウンドの業務を始めていた。身に染みついている僕のこの仕事を。
係長自ら女の子の席でいきなりコール受付をこなす姿を見て、女の子達も次々とヘッドホンを頭に着け直し席に戻っていく。
やがて騒々しかったコール音数が通常に戻っていく。
「係長。ごめんなさい、ごめんなさい。私が失敗しなければ落合さんにあそこまで言われなかったのに……」
「かしこまりました。では来月からはこちらのプランに変更ということでよろしいですね。本日こちらにて登録変更させていただきまして、数日後、改めて紙面においての『確かに変更致しました』というお知らせの通知を郵送させて頂きますのでご確認を――」
「ごめんなさい。係長」
自分の席で係長の僕がまるでロボットになったかのように何件も何件もコールを受け付けていく間、愛ちゃんはずっと後ろで泣いていた。
泣いていたのは愛ちゃんだけじゃない。落合さんも。そんな彼女を外へと連れ出してくれたのは田窪さん。本来は僕がすべきことなのだが、コール受付ロボットになってしまった僕が、だからこそどれだけ取り乱しているか田窪さんだけが上手く察してくれたようだった。だから僕の代わりに――。
そして僕の心も泣いていた。僕がまとめてきたコンサル室がこんなにぐちゃぐちゃになったのも初めてだったし……。そして……美佳子のことも。
―◆・◆・◆・◆・◆―
二十分ほどインバウンドコールを受け付け、僕も愛ちゃんも落ち着いたので交代する。
「高原さん、僕は大丈夫だから。でも有り難うね」
「いえ、余計なこと。辞める前に騒いでしまって申し訳ありませんでした」
「気にしないで。それより、残り少し。しっかりやって」
解りました――と、彼女がやっと笑顔になって受け付け業務に戻っていった。
さて。気を取り直して。田窪さんが代わりに宥めてくれている落合さんをなんとかしなくては。
彼女との因縁は忘れ、僕は『係長』に戻ろうと必死になる。
女の子達が休憩室に使っているミーティング室へと向かった。
そこの窓際で、まだぐずぐすしている落合さんと彼女の濡れた顔を拭いている田窪さんが向かい合っていた。
「田窪さん、有り難うございました」
僕の姿を知った落合さんが、ゆっくりと立ち上がった。
「係長、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた落合さん。そしていつまでも頭を上げない。いつになく殊勝な様子の彼女だが、今日の彼女は心から詫びてくれているように見えた。
「佐川君。彼女にも言い分があってね」
田窪さんの助け船。僕もそっと頷く。
「分かっています。だからもういいよ。落合さん」
「私から佐川君に話しておくから。落合さん、もう戻りなさい」
僕でなく田窪さんが、落合さんの背中を押しコンサル室へと返した。
「まだ佐川君とは面と向かって話すほど、素直にはなれないみたいだから、私から伝えてくれるならいいっていろいろ話してくれたよ」
「そうでしたか」
僕は落合さんが座っていた椅子に腰をかけ、田窪さんと向かい合った。
「彼女も悪いけどね。でも私は同じ女として、落合さんの気持ち、分からないんでもないんだよね」
「好きな男が少しでも他の女に余所見をしていたら、疑ってかかるってことですか」
田窪さんはとても驚いた顔で僕を見た。そして……なんだかとても困った顔で溜め息。
「だよね。男も同じかもね。てっちゃんも、本当のところ落合さんの気持ちが誰よりも分かっているかもしれないね」
僕は黙った。その通りだったから。
「当時、彼女はまだ若かったし。女は好きな男を信じたいのよ。男が悪くても、相手の女を攻撃してしまうものなのよ。だから、あの時は美佳子ちゃんが一番憎かったのよ」
そして僕は、頷きもしなかった。既に僕の本心を察してくれていた田窪さんとだって、いつまでもこの話はぼかしておきたかった。僕自身も誰にも垣間見せたくない隠し持っていたい。今でもその意地が僕を黙らせている。
でも。それすらも分かってくれたのか田窪さんは僕の反応など無視して続けた。
「彼女ももうこれ以上言うことはないって。あそこまでやってしまったこと後悔していたし、自分でもどうしようもなくて、自分で自分がすごく嫌だったんだって。長い間、彼女も悪者扱いで辛い思いしてきたんだろうね。本当はあんな子になるはずなかったのかも。もちろんね、あの子の気の持ちようが悪かったんだけど」
「大丈夫ですよ。いままで通りに、コンサルの戦力として精進してもらいたいし。僕もいままで通り。無碍にするつもりはありませんから」
田窪さんのホッとした顔。だけれど、そんな田窪さんが躊躇いながら、そして僕の目を見ず窓の外へと視線を逃していった。
「てっちゃんもだよ。わかっているよね。美佳子ちゃんのこと、今まで通り信じてあげてよね」
僕は。答えなかった。
ひたすら溜め息をついてミーティング室からコンサル室へ戻る途中。
「佐川係長、元気出してくださいね」
「係長、気にしないでくださいね」
通りがかりの給湯室で、中休みにはいる為のお茶を煎れている女の子達に呼び止められた。
「うん、大丈夫だから」
笑うと、彼女達がほっとしたように微笑み返してくれる。
ささやかだけれどそんな彼女達の有り難い励まし――だけだと思っていたのだが。
「落合さんはあんなこと言うけど。美佳子先輩、係長と結婚が決まった時、とっても幸せそうでしたよ。ね」
「そうですよ。確かにそのすぐ前に嫌な事があったかもしれませんけど。とても落ち込んでいたのに、すっごく明るくなって」
という励ましも、とても嬉しいが。僕は『ありがとう』と返しつつも心の中では『そりゃ、結婚が決まった女は皆そうなんだろう』などと、随分とひねくれたことを思い浮かべたりしていた。だが彼女達の話はまだ続く。
「なんたって。いつも淡々としている佐川さんが、どんな人かってのろけがねえ」
え? のろけ?
「そうそう。佐川君は美味しいお店をいっぱい知っていて、何処へでも連れて行ってくれるなんてのろけていたよね。係長は車が大好きでマツダの愛車を大事にしていることも、自分の車を自慢するみたいに話していましたよ」
「でも。佐川さんらしいねて。私達、羨ましかったんですよ」
「係長、女の子の気持ち良く知っていそうだし」
「女の子のツボ、いっぱい知っていそうだから。美佳子さんもそれ知っちゃったから好きになったんだろうねと言っていたんですよ」
「今でも羨ましい!」
「ほんと、私も係長みたいな優しくて落ち着いてる真面目な人に出会いたいなー」
『だから、係長は騙されてなんかいないですよ』と彼女達。
「あ、ありがとう。うん、そうだったんだ。うん、うん」
彼女達の励ましに礼を述べ、僕は歩き出す。歩き出し……。でもその通路の角を曲がり、僕は壁に拳をぶつけ額を付け崩れ落ちそうになる身体を支えた。
そうだったんだ。あの美佳子が。女の子達に、僕のこと……。
いや、僕がバカだった。本当にバカだった。
僕と美佳子の五年の結婚生活。始まりがキッカケが多少疑わしいものだったとしても、五年は確かに二人で日々を重ねてきた揺るぎないものだろう? 美佳子が僕との結婚を苦痛に思っているような素振りなど一度だって見たことはないのに。
理想と違っていた結婚かも知れない。でも今の美佳子は僕のことをあの家で待ってくれているじゃないか。いつも笑って。なのに。
ひとしれず、僕の目に熱いものが僅かに滲んだ。
―◆・◆・◆・◆・◆―
不在だった課長が『コール回線が一時期混雑していたが何事か』とコール回線履歴のデーターから気が付いてしまい、コンサル室での騒ぎが発覚。
数年ぶりに、課長にこってり絞られた。
だが最後に課長が致し方なく呟いてくれた。
「落合がこのコンサルに配属されてきた時から、いつかは、もしかしたら……とは思ってはいたんだ。あの性格だし。でも徹平の方が上手くやってくれると思っていたから」
課長も深い溜め息。それでも『なにがあってもコールを放置するだなんてあってはいけないことだと覚えておくこと』と懇々と説かれ、放免される。
帰る道、車を運転しながら、やっぱり僕はぼうっとしていた。それでも無意識に家に向かっている。美佳子が待っている家に……。
「お帰りなさい。徹平君」
いつもの彼女が出迎えてくれる。華やかなOLだった時のような艶をなくしてしまったけれど、まだそこはかとないしとやかな女の香は漂っている。
そんな美佳子を一目見て、僕は靴も脱がずに妻に抱きついた。
腕の中、固く固く妻を抱く。
「徹平君?」
玄関先でいきなり抱きつかれ、しかも腕を固く結んで離してくれない夫に戸惑っている美佳子。
彼女の身体の柔らかさを実感しながら、妻の耳元の柔らかく甘い匂いを吸い込み、僕は囁く。
「この前は、先に寝ちゃって悪かったよ。ごめん」
「別に……。仕事であれだけ気を遣っているんだもの。疲れていたんでしょう」
物わかり良い返事。本当は誘った男が約束を破って、彼女なりに心を痛めていただろうに。
「今夜、僕と一緒に寝れてくれよ。側に隣りにいてくれるだけで良いんだ」
「どうしたの。なんだか、この前もおかしかったわよ。徹平君」
「嫌なことがあったんだ。今日も、嫌なことが」
『え』と驚く小さな声が、今度は僕の耳元に。
僕はいちいち妻に愚痴をこぼしたりしない。嫌なことがあったと家に帰って妻に憤ることもない。だから僕から『嫌なことがあったんだ』なんて妻に寄りかかったので美佳子も驚いているのだろう。
聞かれる前に僕は続ける。
「美佳子。美佳子と一緒にいたいよ。美佳子と眠りたい」
そしてまた。彼女からの言葉を聞く間も与えず、僕は固く抱きしめている腕の中、妻の顔を強引に傾けてキスをした。
「てっぺ……」
言葉も言わせない。それぐらいの気強さで、まるで妻をねじ伏せるかのように。
でも。腕の中の彼女がぐったりと僕の身体にすべてを預けてきてくれた。
「やだ、なに。これ……どういうこと」
唇を離すと、ぼうっとした美佳子が潤んだ黒目で僕を見つめてくれている。
もう華やかなOL女子ではない、飾り気のない子育て中の主婦だけれど。そんな女の顔をしている妻は艶っぽかった。
その夜。この前のように娘を寝かしつけてやってきた妻を僕はすぐにベッドに引き込んで裸にした。
唇を合わせる瞬間も、露わになった乳房を彼女から僕に差し出すそのタイミングも、差し出されてすぐに胸先を口に含む僕の行為も。すべて僕たち二人だけが良く知っている通じ合う流れで、なにもかもがかっちりと合わさる睦み合いだった。
「徹平君。結婚五年目、木婚式の意味を知っている?」
「しらないなあ。なんていうの?」
「ふふ。夜、熱烈に愛し合った夫婦のような意味よ」
「だからなに」
「調べてみて」
肌を合わせて寄り添い、更けていく夜の中、肌の温もりを分け合う。そのうちになにもかもが溶け合って二人一緒にまどろんでいく。
結婚五年目。木婚式。【夫婦がやっと一本の木のようになる】
確かに。昨夜の僕たちは【夫婦がやっと一本の木のようになる】ような感覚で抱き合ったのかも!
翌日。コンサル室のオンライン接続専用デスクにて。ネット検索をして意味を知った僕が、一人嬉々と悶えていたのを誰も知らない。
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