シーズン3 【 新婚 】*疫病神がコウノトリ
「ご結婚、おめでとうございます」
美佳子が退社し、無事に結婚式も終わり、新婚旅行も終えた。新しい生活を迎え、会社では誰からもそう祝福された。
美佳子と選んだ新婚旅行のお土産を配り歩けば、『美佳子さん、どう』と良く聞かれる。
「ええ。新しい生活に追われていますよ」
とだけ。僕は業務のようにして答えて回った。
「佐川君。助かったよ」
ある時。通路を歩いてコンサル室に戻るところ、営業部長に声をかけられた。なんのことかすぐに分かったので僕はただ会釈をして、『いいえ。とんでもない』と返す。
「お客様がかなりご立腹だったようで、女の子の対応じゃ埒が明かなくて、佐川君が対応してくれたんだって」
「はい。いつものことですから」
いつになく随分と手こずったクレームではあったが、全てこちら会社側のミス。お客様がお怒りになって当然のクレームだった。女の子が『担当者から連絡させます』と何度言っても引き下がってくれなかったようで、いつも通り『上の人に代われ』という強い要望で主任の僕が登場する。
「担当者取り次ぎ一点張り対応のところ、佐川君が直に部長の僕に報告してくれたこと、部長の僕が対応したということで、あちらもなんとか冷静になってくれてね」
「こちらこそ。本来は部長直に取り次ぐということは、通例になってはいけないのでやってはいけないことだとは思ったのですが」
「いやいや。でも判っていたんだろう。当の顧客との契約は多くはないけれど、彼があの会社の息子だってこと」
「ええ、まあ……。有名ですから。この会社でも誰もが知っていることですし。ですから対応した女の子も慎重にした結果、説得が長引いてしまいまして」
「それで結構。通例のまま僕に教えてくれなかったら、どうなっていたか判らなかったよ。親父さんの会社は僕が担当しているから」
それも見越して部長に直接繋げた――のは、確かに僕の独断だった。
まだまだ実績少ない青年実業家の坊ちゃん会社。親父さん担当の部長にいちいち繋げたのでは、これから部長が息子社長に対しても担当紛いのことをすることになりかねない。なので『担当は担当』という鉄則はなるべく守るのがベストな顧客対応。
だが今回は若社長とはいえ少々怒り方が半端ではなかったため、まずは『スムーズな事態収拾』を優先にと思い、直接部長に報告をあげた。
しかし若社長と対話中のこと。激しい叱責に荒れ狂う若社長の怒鳴り声を聞きながら目の前の顧客情報ファイルを開いた時、そこに出てきた営業担当者欄を確認した僕が一時フリーズをしたことは誰も知らない。若社長の営業担当者は、例の年下男だった。
このクレームを直に営業部長に報告すると決めた僕の判断に、躊躇が生じた瞬間。これをすれば、現営業担当者をないがしろにし、それどころか顧客とのトラブルを内々に処理する時間も与えられずに、上司にしかも営業トップの部長に知られてしまうことになる……。彼はきっとこの失態が暴かれることを、僕のせいにするだろう。僕がここでもう少し踏ん張って通例通り担当者の彼に繋げば、彼は若社長の怒りを鎮めるチャンスを得られるし、部長に知られる前に鎮火させることも出来るかもしれない。
だが僕が躊躇している間も、青年社長の怒りは尋常ではなかった。そのうえ『あの担当では駄目だ。あいつをこっちにこさせるな』という勢い。逆にここで電話を切られたらやっかいなことになる。……元々、彼が担当だと判明する前から僕の判断は決まっていた。『誰であろうと、このクレームは営業部長に報告する』と。
僕は自分の直感で下した判断を信じて、営業部長に報告したのだった。
「有り難う。所長もそちらの課長も、佐川君の判断に異存はないから安心して良いよ」
「恐れ入ります。僕も安心しました」
上機嫌の部長にも『結婚、おめでとう』と笑顔の祝福を受けた。
その日のうちに、事は起きた。
青年社長の凄まじいクレームの大波も収まり、女の子達も和やかにいつものコンサル業務に勤しんでる静かな午後だった。
いつもの中休みに、僕は男性社員がたむろする喫煙室へ向かう。僕は煙草は吸わないが、カップコーヒーの自販機があるのでいつもここで砂糖少なめのエスプレッソを飲むのが日課だった。
「佐川さん。ちょっといいですか」
休憩室の入り口に、営業の彼がもの凄い形相でそこにいた。
「どうして俺に繋げてくれなかったんですか!」
前置きも何もなく、そのまま彼は僕のところまで一直線。気が付いた時はもう、彼が拳を振り上げていた。
どこからともなく『きゃあ』という女性の声が聞こえ、僕の顔が勢いよく横に飛ばされた。頬に熱いコーヒーの粒もぼたぼた飛んできた。
「コールの段階で食い止めるのが、アンタの仕事でしょ。対応できないからって部長にすぐに報告するだなんて、この役立たず!!」
それだけ吐き捨てると、彼も大きく一息。どこか後悔したような顔で拳をみつめ、唇を噛みしめながら背を向け去っていった。
僕の白いワイシャツに、大きな茶色の染み。そして口元に指を当てると、少しだけ血が滲んでいるのに気が付いた。
「徹平君、大丈夫!?」
「主任、大丈夫ですか」
僕と同じ時間に休憩となった顧客対応班の彼女達がちょうど目撃してしまったようだ。
ベテランのパートおばちゃんと、社員の若い女の子二人が一緒に駆けてきた。
「あの青年社長の担当だよね、彼。ちょっとやりすぎだよこれは」
おばちゃんはすぐさまハンカチを手に、僕の胸元を拭いてくれる。側にいた女の子二人も迅速に掃除用具を持ってきて、あたりに零れたコーヒーの跡を拭いている。
「沖田さんって、ひどい」
「美佳子さんの時だって……」
沖田というのはその若い営業の彼のこと。だが彼と美佳子の名がうっかり揃ってしまい彼女達が顔を見合わせすぐさま口を閉ざしてしまう。
おばちゃんも若い女の子にひと睨みしていたが、そこはあんまり触れたくない発言したくないスタンスを保ってきた僕の心情を気遣ってくれたのか、それ以上は何も言わなかった。
「あーあ。染みになっちゃうね。いつも綺麗にパリッとしているのに……」
おばちゃんはそう言うと、暫くの間、絶対に落ちない染みをジッと見つめて俯いていた。
「徹平君はなんにも悪くないよ。そんなことコンサルの女の子達も分かっているし、課長も営業部長も所長だって。それにこう言ってはなんだけど。彼の顧客への対応を見ると、『ノリが軽い』気がしてしようがなかったんだよね。あちらの社長さんも若いし、お互いに若いから軽いノリで丁度良いと言われればそれまでなんだけど。でも沢山の顧客の相手をしてきたコンサルの私達から見れば、いつかこうなるんじゃないかって言っていたんだよ。思っていたとおりになった。誰もがそう思っているって」
「有り難う。でも、このままにしておいて。騒ぎにするのは簡単だから」
それ以上はなにも言わず、苦い顔のまま黙っている僕。おばちゃんも女の子達もそっとしておこうと思ってくれたのかそのまま女の子達の休憩室へと消えていった。
「っつぅ。思いっきり殴ってくれたなあ」
正直、腸煮えくりかえっていた。
美佳子を弄んで、自分のミスを省みず人のせいにして暴力だなんて。
あんなガキのどこか良かったんだ。なあ、美佳子? もうお前がアイツのこと最低と蔑んでいてもアイツと少しでも関わっていたこと、惹かれていたことが……僕には……。
なんとか湧き上がる怒りを抑え、僕はコンサル室に戻る。
僕が戻る時には女の子達が既にヒソヒソとざわめいていた。汚れたシャツに血が滲み痣になった口元を見れば、誰だって知らぬ振りは難しいだろう。
案の定、それは僕の上司である課長の目にもとまった。
「徹平、どうしたんだ。それ」
「いえ、なんでもありません」
「そんなわけないだろう」
『こっちに来い』。課長席へと手招きをされ、致し方なく僕は向かう。
「殴られたんだな。それだけの原因があったということだろ。こんな会社の中で、そんなこと……」
問題になりかねないと課長は言うが。僕と彼はある意味因縁の間柄。ほんの少し前、一人の女性と深く関わっていた男同士。ここで僕の口から簡単に彼のことを悪く言ったりなんかしたら、すぐさま美佳子を挟んだ『いがみあい』と見られる可能性が高くなる。だから絶対に『業務を全うした』ことにしたかったから僕は口を閉ざす。
どんなに尋ねても答えない僕を見て、『あの課長。私、見ていたんですけど』と先程の女の子の一人が弁護にやってきてくれた。だが自分はアイツより信念を通したいから無言を貫く、その代わりに女の子に言ってもらうだなんて男じゃない。彼女達が言葉を使う業務で顧客との接点最前線で戦っている時、その武器を使えなくなった時に援護すべき男がこの様に助けてもらうだなんて。僕にとってはとんでもないこと。彼女の口から言わせるぐらいなら――。
「沖田君に殴られました」
「なに。営業のか……。殴り返したのか?」
僕は首を振る。課長がホッとした顔をした。
「分かった。もう戻って良いぞ」
「はい」
なにもかも理解した顔で課長が席を立ちコンサル室を出て行ってしまった。
課長が不在となったコンサル室で、顧客インバウンド着信の音が響き渡る。インカムヘッドホンをしている女の子達も黙々とコンサル業務を行ってくれている中、やはり『サイテー』、『ひどい』、『いつかこうなると思った』なんて囁きがちらちら聞こえてきた。
散々な日だった。
その後、課長は戻ってきても何事もなかった顔でデスクで業務を続けているだけだった。
その日のコンサル受付時間が終了し受付用電話回線が遮断される。
「徹平、今日はもう帰って良いからな」
定時に帰れるだなんて僕には珍しいことだった。それでも僕は課長の言葉に甘え、すぐさま荷物をまとめて退出した。
課長の気遣いに感謝していた。夕方のこの時間までなんとか平静を保つのに精一杯――。本当はあの後、会社なんてすぐに飛び出してしまいたかった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
車に乗っても、僕は自宅へまっすぐには帰らなかった。
いつもと違う道を車で走り、郊外にある紳士服店へ向かう。そこで真っ白なワイシャツを買い、汚れたシャツを脱ぎ捨て着替えた。染みになったシャツはそのまま店で捨ててもらった。
帰る道。信号待ち。フロントミラーに映る僕の口元。切れて赤黒くなっている。これだけは誤魔化しようがない。それでもあんなみっともない染みがついたシャツで帰りたくなかった。美佳子に洗わせたくなかった。僕もそんな情けない姿で帰りたくない。たとえすぐにばれてしまっても、無様な姿は彼女の目に焼き付けたくない。そんな『せめてもの思い』でシャツだけは綺麗にして帰ろうと思った。
美佳子になんて言おう。そのうちに女同士のネットワークで知られてしまうだろうから、ある程度は話さなくてはならないだろう。そんなこと僕は嫌だけれど、元同僚だから本当にこんな時は誤魔化しようがない。美佳子が不審に思えば、僕が口を閉ざしてもすぐさま調べがついてしまうだろう。
「ただいま」
新居に帰ると、また今夜も夕飯のいい匂いに包まれていた。
「あれ。徹平君。早いじゃないどうしたの?」
キッチンからそんな声、彼女がこちらに向かってくる足音。僕はふいに顔を背けてしまう。
「おかえりなさ……」
彼女の息が止まるのを僕は耳にした。
「それ、口の。どうしたの!?」
「うん、ちょっとね」
まともに彼女の顔が見れず、僕は俯いたまま靴を脱いであがる。紳士服店で結んだばかりのネクタイをほどきながら、彼女をスッと避けるようにして寝室へ向かった。
「ちょっとね、じゃないわよ。それ。どこかで転んだの?」
『そう。転んだんだ。僕ってバカだよな』と笑い飛ばしたい。そんな嘘でやり過ごしたい。でも、そんな嘘をついて後であの会社の誰かの口から美佳子が聞きつけたら『どうして本当のことを言ってくれなかったのか』と新妻としても気を悪くすることだろう。しかもあの男が殴ったことを黙っていたなんて後になって知る方が美佳子に取っては良い気はしないだろう。
「手こずったクレームがあって。顧客と担当の取り次ぎのことで、営業とコンサルでいざこざしたんだ」
そう言っただけで、美佳子が口元を押さえ愕然とした顔。見る見る間に彼女の顔が青ざめた。
「もしかして。彼が……?」
「まあね。でも完全に彼のミスで、課長も営業部長も所長も僕の判断を擁護してくれたから大丈夫」
「大丈夫って――!」
ほどいたネクタイをクローゼットに戻し、買ったばかりの白いシャツを僕は脱ぎ始める。
「美佳子はなんにも気にしなくていいんだからな」
なるべく、優しく言ったつもりだった。だけれども、肩越しに振り返ると彼女はもう泣いていた。僕と目が合うと彼女がシャツの背に抱きついて泣き出した。
「私のせいなんだわ!」
「ちがうよ」
「あの人。私達の結婚が決まった後に立場が逆転して悪い男みたいにされていたから、徹平君を恨んでいるんだわ。私が、私が、あんな男と関わって、それですぐに徹平君を頼っちゃったから!」
「ちがうよ」
本当に美佳子のせいだなんて思っていない。でも僕はこの時、とてつもなくムカムカしていた。
ああ、いつも通りに。ただ『おかえり』て抱きついてくれる奥さんのお迎えでこの家に帰りたかった。着替える僕の背中で、晩飯のメニューを語ってくれる彼女でいて欲しかった。
なのに今夜は僕と美佳子の間に、あの男がいる。
「私があんな男と関わっていたばかりに。真面目にやっている徹平君にこんなこと。私って、わたしって」
いつになくわんわんと美佳子が泣く。それだけ取り乱しているということ。あの年下男はいつもこうして妻の心を掻き乱す、今でも。そんな落ち着きをなくしている妻が最後に叫んだ。
「私って徹平君の疫病神なのかも!」
ブチッと切れた音。
「疫病神だなんて言うな!」
初めて僕は怒鳴った。会社でも怒鳴ったことなどない。美佳子に妻にもこれが初めてだった。
美佳子の涙が止まっていた。
お前が疫病神だというなら、僕はそんな疫病神にバカみたいに惚れていたことになる。そんな疫病神をあの男からニコニコしながら受け取ったバカ男。そう思うだけで怒りが込み上げた。
そんなんじゃない。僕はその前からずっと前から美佳子が好きだったんだ。でも僕にチャンスはなかった。チャンスが来たのは彼女が傷ついた時。そこをつけいるように彼女と親しくなった男? そんな縁なのか。それだけの縁なのか。お前が疫病神の自分と結婚したというなら……。お前は自分が落ち目であるのを解って、なにもかも諦めて僕を選んだっていうのか?
僕の今日の怒りの核心はそこにある!
「徹平君……ごめん」
「……今日の晩飯、なに」
涙を拭いた彼女が、なんとか明るく努めようと笑顔になる。
「キビナゴの天ぷら」
「え、もうそんな季節なんだ」
「ビールで食べる? それとも吟醸酒にする?」
「ビールでいいよ」
酒も希にしか呑まない僕だけれど、季節の肴が出た時には呑むこともあった。僕の趣向を分かって妻の美佳子が滅多に呑まない酒を準備してくれていた。
「私ももらっちゃおうかなー」
涙目なのに笑っている彼女が痛々しかった。
彼女はなんにも悪くない。ただ僕が。片思いだった彼女を運良く嫁にしてしまったが故に。いっちょうまえに男として、あの彼を意識しているだけなのに……。
―◆・◆・◆・◆・◆―
それから数日後。デスクでコンサル後のデーターを入力していると、シャツを懸命に拭いてくれたパートのおばちゃんがコンサル業務の書類を提出ついでに話しかけてきた。
「徹平君、課長からなにか聞いた?」
「いえ。なにも?」
あれから課長も何事もなかったように僕には件については話すこともなくなった。その代わり、通路で挨拶を交わす営業部長の様子がちょっといつもと違うことには気が付いていた。
「沖田君と若社長。仕事でのいざこざなんて建前。女性問題でもつれていたみたいよ」
情報網は天下一品の女性達。その強力な情報収集力に僕は感心しきり、目を丸くするばかり。
「言ったでしょ。これは『若いからと気を緩めた軽いノリでのおつきあい』の成れの果てよ。接待でゴルフとかは良くある話だけど、ことあるごとに、バーベキュー大会にキャンプ、飲み会とかってまるで合コンみたいにやっていたみたいよ。その中で社長と親しい女性と一悶着あって、それで若社長がご立腹。彼の営業態度に仕事の話がぜんぶ信じられなくなったんだって。しかも、沖田君。『また』相手の女の子をその気にさせて結局は知らん顔だって」
さりげなく織り込まれた『また』という一言。そして僕は淡々と聞きながらも心の中で舌打ちをしていた。『あの男。女の子は自分本位に利用しているだけ。きっと美佳子の時も――』と。
「指導不足、管理不行き届きで営業部長も厳重注意されたらしいわよ」
「それ。本当?」
「元気ないでしょう。最近の部長」
そしておばちゃんは言った。『次は異動させられるかもね』と――。
『管理』、確かに営業部長の職務だ。でも釈然としない僕がいる。そしてやっぱり僕の腹立たしさは収まらない。若さでどこまで許してもらえると思っているんだ。まわりを傷つける若さなど『許される若さ』なんかじゃない。
さらにそれから幾分か日が過ぎ、季節の変わり目へと差しかかかっていた頃だった。
僕がいつも通りに暗くなる頃自宅に帰ると、美佳子が玄関でずっと待ちかまえていたように立っていた。
「徹平君、おかえり」
「うん。どうしたの。ずっとここにいたみたいに」
もう美佳子の溢れんばかりの笑み。僕が『どうしたの』と聞いても、ずっと『うふふふふ』とこぼしてばかり。
「徹平君が車を停めて、ここに帰ってくるまでずっと窓から見ていたの」
「僕の車が帰ってくるまで窓で見張っていたってことかよ。なんで」
目の前に、見たことがない白色のスティックが差し出された。それを触ろうとすると美佳子が『触っちゃダメ!』と遠ざけてしまう。
「徹平君、これ何か知らないの!?」
「なに。それ」
みるとスティックの真ん中に丸い窓がふたつ。赤いラインが窓の中に。
「これ尿で調べるんだけど、ここに赤い線が出るとね。お腹に赤ちゃんがいるってことなの」
「え!!」
びっくりして、僕は玄関で突っ立ったままになる。でも美佳子はそんな僕を見て嬉しそうだった。
「まだちゃんと産婦人科で検査しないと、ちゃんと赤ちゃんが正常にいるかどうかわからないんだけどね」
「え、えーえーえー?」
「そうなんですよ、パパ」
「えー。そうなんだ!」
やっと僕も認識。それはそれは勿論、嬉しかった。好きだった女性と結婚、そして彼女が妊娠。二人の間に子供が。その子が僕と美佳子を確かに繋げてくれる。
これで僕もやっと、美佳子に選ばれた男であってもいいんだと思える。
――なら、いいのだけれど。
嬉しさが落ち着いた後、僕は思い出す。
子供がいつ出来たか。男して振り返る。その時僕の心が少しだけ曇る。思いついた夜が『私は疫病神なのよ!』と妻が叫んだ日の夜だったからだ。
あの夜。寄り添って眠っていた美佳子はやっぱり僕の背中にしがみついてひとしきり泣いた。もうごめんねとも僕に言えず。僕を怒らせまいと――。
そんな彼女と、なにかを振り払うように、確かめ合うように、貪るように抱き合ったのを思い出したのだ。
あの時の子?
僕たちは、あの男があって結婚し、あの男に関わって子供を授かったというのだろうか。
もし疫病神がいるならば。その男だ。
僕の幸せの少し前に現れて、あいつはいつまでも僕たち夫妻のまわりをウロウロしている。
その度に妻が取り乱す。もう、そんなの御免だ。
しかし。次の異動シーズン。営業の彼は異動となり、他の支局へと出て行った。
彼は僕の目の前から消えたのだ。
僕と美佳子のところに来た子供は、女の子。
家族三人、つつがない日々を過ごしいつのまにか数年が経っていた。
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