シーズン2 【 婚約 】*プロポーズ。でも僕はなにももっていないよ?
プロポーズはなんとなく、だった。
なんとなくと言っても、僕としては『いま、言っても良いのかな。どうなのかな』の数ヶ月ではあった。
「揃って入社したのがつい最近のようだけれど。お互いに三十代になっちゃって、あっという間だったわよね」
携帯のメールアドレスを交換してから、美佳子とは仕事後に落ち合って食事やドライブに行くことが多くなった。土曜日曜も約束をするようになった。
特になにがあるわけでもない地方の街。ドライブでちょっと遠出をすれば内陸は山間の田舎にぶち当たるし、海へと向かえば静かな海岸線に漁村にたどり着く。だけれども、そういった子供の頃から変わらない僕たち故郷の穏やかな風景を眺めつつ、車の中でひたすら喋って、腹が空けば見つけた店に入って『美味い、美味くない』と話して二人の時間を過ごす。そういったありきたりだけれども、確かな『恋人の時間』を重ねてきた。
「確かに。入社から十数年、あっという間だったね。それじゃあ、お互い『適齢期ギリギリ』ってことで結婚してもいいかもな。丁度、一緒にいる今、ね……」
長い長い田舎の海岸線をひたすら走っている時に僕は呟いた。助手席にいる彼女の顔を確かめるだなんて、出来るわけがなかった。
美佳子が黙る。一瞬だけ。あまりお喋りじゃない僕の代わりに、いつだって美佳子だけが喋っているのに。
彼女の顔を確かめたいのに、平静を装って確かめない僕。冗談で笑い飛ばせばいいのに、一瞬黙ってしまった美佳子。
しかし彼女も平静を装うとしたのか。
「んー、そうねえ」
すぐに沈黙から脱したのに、次に彼女から出た言葉は。
「そうだね。結婚しましょうか」
――だった。
今度は僕が沈黙する。というか、僕はだいたい美佳子に喋らせている。彼女から振ってきた話題に真剣に答えて会話をして笑って――。彼女が喋らなければ話題を振ってくれなかったら、僕は長時間一緒にいるには退屈な男なんだと思う。いつだって沈黙の僕が、さらに沈黙する。でもまた平静を装わなければならない。
「そうだな。結婚しよう」
やっと言葉に出来たのに僕には一抹の不安がある。
本当に僕で良いのか。僕は会社では『いい人』だけど、プライベートは女の子とは縁遠い男独り身の生活を長くしてきた地味で平凡な男だ。それに対して、美佳子は年齢と共に華やかな大人の女性となって社交的で、いつだって『どんな男が恋人』という噂があった。
そのどの男と比べても僕など、彼女達が理想と掲げている『こんなところがイケメン』なんてところはひとつもない。あれば会社で女の子達が騒いでくれる。一度もそんなこと無かった。こうなってみなければちっとも美佳子に意識してもらえない『会社のいい人』で終わっていたはずなのに――。
だが、その後の美佳子は一人でずっと『うふ、うふふ』と笑っていた。
その顔はしっかりみた。笑っているんだから、嬉しく思ってくれているんだよな?
僕は一応、安堵する。
淡い波の青と空の水色が、記憶に残っている。
優しくて穏やかで、でもどこかぼんやり。くっきりしないけど、心の奥はくすぐったい。まるで柔らかな水彩画のようなあの日。
―◆・◆・◆・◆・◆―
大学時代から付きあっていたという美佳子の彼のことなど知るよしもない。まったく知らない方がマシだ。
でも彼女と噂になった会社の男達は違う。部署は違えど僕は毎日、彼等を目にする。特に意識などしないが意識しようと思えば『美佳子とどんな関係だったのか』と想像してしまうのが人として当たり前だと思う。すべて『噂にしかならなかった男達』だから、向こうが素知らぬ振りをしてくれるなら、僕だって『元よりないこと』と自然に思うことが出来る。それどころか実際に彼等は『婚約おめでとう』と大人の顔で祝福してくれる。『一人の男を除いて』は。
一人の男? 決まっている。営業のあの『年下の男』だ。
アイツだけは、近頃僕の目の前から逃げ回っている。目を合わせても向こうから逃げている。美佳子と彼等若い恋人同士との諍いがあった後の婚約だっただけに、あからさまに避けられている。彼に美佳子への気持ちがもうなくなっても(言っておくが、好い気持ちではなく、悪戯心の気持ちのほうな!)、それでも大人の上手な遊びとしてスッキリ終われずに『騒ぎ』に発展させたぐらいだから、まだわだかまりも生々しく残っていることだろう。
今となっては。あっちは『騒ぎを起こした、会社の空気が読めない若い二人』で、こっちは『振り返らずに一歩踏み出した幸せカップル』という位置づけ。
当事者の彼や若い彼女だけじゃなく、会社中の誰もが、あれだけ美佳子一人を悪者のように仕立て上げておいて。なのに今、会社では『安永さん一人を悪く仕立てた若者カップル』ということになっている。言っておくが、僕と美佳子から『言い訳や弁明』をしたことは一度もない。この件については本当になかったが如く、或いはなにを言われても聞かれても『沈黙に伏す』と二人で決めていた。そんな僕たちの頑ななオーラが滲み出ていたのか、誰もあの件については聞いてこない。
「怖いわよね。事実かどうかわからないことで『こっちが正しい、あっちが間違っている』とターゲットにして、しかも、この前まで正しいと言われていた人がコロッと悪者に転換されちゃうの」
『もう、うんざり』と美佳子がため息をつく。
ウェディングプランナーと式と披露宴について相談した帰りに、カフェで一息。カプチーノを堪能している美佳子がため息。
「別に私はもうなんとも思っていないんだけれど。彼も彼女も、仕事の伝達以外は近寄ってこないわよ。仕事で話す時だって目も合わせてくれない」
「いいんじゃないの。そのまんまにしておこう」
「そうね」
淡泊に返した僕に、美佳子がちょっと申し訳なさそうに短く返答し話題を切ろうとしているのが窺えた。
これが『美佳子の負い目』というものだった。美佳子と急接近したキッカケが彼等との諍いだったから。あの年下の男が話題に出るたびに、僕が気を悪くすると思っているのだろう。
美佳子と噂になった大人の男達とは何かあったかもしれないのに、僕は腹も立たず。なのに『なにもなかった』とフィアンセが言っているのに、その年下の男に僕は腹を立てている。何故だろう。何故なんだろう。
ずっと後で気が付いた。
僕と美佳子の結婚を決定づけたキューピットが最悪な男だったからだと。
そうでなければ、僕は彼女と結婚できない男。あの男のおかげで結婚できた? なんだか『俺のおかげなんですよ』とそいつが笑っている気がしてならない。
―◆・◆・◆・◆・◆―
婚約の話題も落ち着いた頃、美佳子が『会社を辞める』と決意した。
僕は止めなかった。いや、本当は続けさせてあげたかった。僕も将来が見えない保証できない安月給の主任なので、妻にも稼ぎがあるのはとても心強い。
しかし同期入社で同じ部署に夫妻がいるのは会社側も考えるだろう。そんな時、美佳子に『支局転勤、異動』の打診があったとのこと。僕じゃなくて、美佳子に。やっぱり僕は女の子部署の『宥め役おじさん』と化していくことしか望まれていないようだった。
そんな美佳子が決めた答が『辞める』だった。
「支局が違うだけで同じ仕事だからいいんだけれど……」
条件は同じだった。ただ僕と美佳子が通う場所が異なり離れることだけ。同じ市内で勤めるから自宅からも遠くはない。帰る家は一緒なのだから、続けることも可能。それでも美佳子は『辞める』と決意。
僕からは何も言わなかった。彼女がそう決めたなら――としか。
「ごめんね。私も稼いだ方がいいんだろうけど。なんかね、やっぱりここ半年、すごく疲れた……」
どん底と絶頂を一気に体験した半年。十何年勤めてこんなことは初めてだったとよく言っている。それが『若い男の子にほだされ、遊びが前提の駆け引きとも見抜けずに真に受けてしまった』ことが発端だっただけに『自業自得すぎる私の汚点』と美佳子は再々こぼしている。
会社でも、前ほど美佳子は積極的に人と関わらなくなった。少し距離を置いて『会社の人は、所詮会社の人』とかなり拘って割り切っていたぐらい。そんな中で僕一人だけが、彼女の中で『会社の人ではなくなった』。婚約を公表してからも、美佳子は僕との距離にだいぶ気遣っていた。『婚約者だから大目に見てもらっている』とか『私達より手伝ってもらっている』等々言われないよう、かなり神経を尖らせていた。そんな蓄積の結果なのだろう。人と一緒にいるのが苦痛になっているようだった。
彼女が明るくしているから、僕は気づかなかったのかもしれない。僕が思っている以上に傷ついて、たった一人の時には自分で自分を責めたり、そして一人ならば彼等のことも許せずに悔しさで震えていたかもしれない。そんな蓄積が、結婚という機会に溢れ出てしまったのではないだろうか。彼女には休養が必要かと僕は思ったりした。
「気にするなよ。僕の稼ぎは少ないけど、なんとかやっていこう」
「うん。別に贅沢なんて望んでいないから。私、徹平君が側にいてくれたらそれがいい」
なんていじらしいことを。ありふれた女性からの言葉でも、いまはちょっとでも甘い気分になれる結婚間近の男としては感無量の瞬間。
彼女を抱きしめて、柔らかなキスをする。そうしたら彼女が僕の中に溶け込んでくれる。艶やかな黒髪を撫でて、近くに寄らないと解らない美佳子の匂い胸いっぱいに吸い込んで、それで僕も満足する。
僕たちは今、甘くときめく恋人同士、婚約者。そして……夫と妻になるんだ。
なにもいらない。美佳子はそういうが、でも、僕って本当に何も持っていないよ。本当にいいんだよな?
僕たちの新居は郊外にある小さな賃貸マンション。
部屋数は少なく広くはなく、リビングにはテレビとよく見かけるソファーだけ。あとは美佳子のセンスでコーディネート。
自分の好きなカーペットやローテーブルにフラワーベース。どこのカタログにでも掲載されているようなインテリアでそれなりに整えていたが、彼女は嬉しそうにリビングを作ってくれていた。
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